豫州(予州)の汝南郡と潁川郡を平定した曹操が、潁川郡の許県に献帝を迎え入れるまでをまとめています。
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目次
曹操の献帝保護計画
荀彧の進言
建安元年(196年)8月、豫州(予州)・潁川郡・許県にいた曹操は、許県に献帝を迎え入れようと考えました。
洛陽(雒陽)と許県
この時諸将の中には、
「山東地方(東中国)は未だに平定されておらず、韓暹と楊奉は天子(献帝)と共に洛陽(雒陽)に戻ったばかりで、北方の張楊とも同盟を結んでいます。今すぐ制圧することは困難です」
と献帝を迎え入れることに疑念を抱く者がいましたが、ここで荀彧が進み出て言いました。
「昔(春秋時代)、晋の文公は周の襄王を都へお戻しした結果、諸侯は物に影が付き従うように服従いたしました。前漢の高祖(劉邦)は東方(項羽)征討の際、(項羽によって殺害された)義帝のために喪服を身につけた結果、天下の人々は心服いたしました。
天子(献帝)さまが都を離れられてから、将軍(曹操)は真っ先に義兵を挙げ行動を起こされました。ただ山東地方(東中国)が混乱状態にあったため、未だ関右(関西)にまで遠征される余裕がなかっただけです。
しかしそれでも、別に将軍を派遣なされ、危険を冒して天子(献帝)さま連絡をつけておられます。外難の防御にかまけていたとはいうものの、心ではいつも皇室のことを気にかけておられたわけです。これこそ、将軍(曹操)の天下を救済しようとなさる、かねてからの志のあらわれであります。
今、天子(献帝)の御車は帰途につかれましたが、東都[洛陽(雒陽)]は荒廃しております。義士たちは朝廷の存続を願い、万民は昔を懐かしみ悲嘆に暮れています。
- まことにこの時期に当たり、天子(献帝)を奉じて人々の願望に従うことは大倫理(大順)であります。
- 公正そのものの態度をもって豪傑を心服させることは大智略(大略)であります。
- 大義を扶持して英傑を招き寄せることは大徳義(大徳)であります。
この3つがあれば、たとえ反逆行為があったとしましても、決して足を引っ張ることができないのは明らかです。
韓暹や楊奉が、どうして思い切って邪魔をすることがありましょうか。もしもこの機に行動せず、四方の俊傑が漢朝に対する忠誠心を失った後になって、手を打とうとしても間に合いませんぞ」
また、荀彧に続いて程昱も「献帝を迎え入れること」を勧めたので、曹操は揚武中郎将の曹洪に兵を率いさせて献帝を迎えに行かせましたが、衛将軍の董承が袁術の将・萇奴と共に要害を盾に抵抗したため、曹洪は進むことができませんでした。
この曹洪の派遣時期については、『資治通鑑』の記述に従っています。
『魏書』武帝紀には、曹操が曹洪を派遣したのは「建安元年(196年)春正月」のこととあります。
楊奉に使者を送る
議郎の董昭が、曹操の名義で楊奉に書簡を送りました。
「私(曹操)は将軍(楊奉)の名前を聞くにつけ、その忠義の心を慕っておりました。
今、将軍(楊奉)は天子(献帝)を艱難(困難にあって苦しみ悩むこと)から助け出され、旧都[洛陽(雒陽)]に還らせました。
その功績は時代を超えて並ぶ者がおりません。何と素晴らしいことでしょうか。
しかし、今はまだ群凶が中華を乱しており、四海は安寧になっていません。天子(献帝)は至尊の存在であり、事は輔佐する者たちにかかっています。必ず賢才を集めて王道を清めるべきであり、それは1人の力だけでなせるものではありません。
心腹(胴体)と四肢は実に依存し合っており、1つでも欠ければ不都合なことが起こります。将軍(楊奉)は内主となるべきです。私(曹操)は外援になりましょう。
今、私(曹操)には兵糧があり、将軍(楊奉)には兵があります。有が無を補うことは、助け合う理由として十分です。死生辛苦を共にしましょう」
楊奉は最も強い兵馬を率いていましたが、仲間が少なかったため大いに喜んで、
「兗州諸軍(曹操軍)は近く許県におり、兵も食糧もある。天子(献帝)は曹操を頼るべきだ」
と言い、諸将軍と共に上表して曹操を鎮東将軍に任命し、父・曹嵩の爵位である費亭侯を継がせました。
費亭侯は、曹操の祖父・曹騰が封ぜられ、その後父・曹嵩が継ぎ、今回曹操が継ぐことになりました。
また、曹操の鎮東将軍・費亭侯への任官時期については、『資治通鑑』の記述に従っており、『魏書』武帝紀では「建安元年(196年)6月」のこととされています。
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曹操の洛陽(雒陽)入り
曹操が洛陽(雒陽)に入る
これより前の建安元年(196年)7月、張楊・楊奉・韓暹らが天子(献帝)を擁して洛陽(雒陽)に入りました。
その後張楊は司隷・河内郡・野王県に帰り、楊奉も洛陽(雒陽)を出て司隷・河南尹・梁県に駐屯し、韓暹と董承は洛陽(雒陽)に留まって警備にあたります。
諸将の配置
ですがその後、韓暹が功績を誇って横暴になったため、これを煩わしく思った董承が秘かに曹操を召し寄せたので、これを受け曹操は、兵を率いて洛陽(雒陽)に向かいました。
曹操は洛陽(雒陽)に入って首都を守護すると、韓暹や張楊の罪を上奏します。
韓暹は誅殺されることを恐れて楊奉の元に逃れましたが、献帝は「韓暹・張楊には、洛陽(雒陽)まで自分を護衛した功績があった」とし、詔を発して彼らの罪の一切を不問としました。
曹操が賞罰を行う
献帝が曹操に節鉞(符節と斧鉞)を与え、司隸校尉・録尚書事に任命しました。
そこで曹操は、
- 尚書の馮碩
- 議郎の侯祈
- 侍中の臺崇(壺崇)
ら3人を誅殺し、
- 衛将軍の董承
- 輔国将軍の伏完
- 侍中の丁沖
- 侍中の种輯(种輔)
- 尚書僕射の鍾繇
- 尚書の郭溥
- 御史中丞の董芬
- 彭城相の劉艾
- 馮翊の韓斌
- 東郡太守の楊眾(楊衆)
- 議郎の羅卲
- 伏徳
- 趙蕤
ら13人を列侯に封じ、また射声校尉の沮儁に弘農太守の官位を追贈しました。
射声校尉の沮儁は、「東澗の戦い」で負傷し、李傕を罵って殺害された人物です。
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『資治通鑑』胡三省注には、「曹操が列侯に封じた13人」のうち12人の名前が記されています。
その中に、
- 侍中の丁种輔(輯)
という名前がありますが、今回はこれを誤記と判断して、
- 侍中の丁沖
- 侍中の种輯(种輔)
としています。
侍中の丁沖は、黄門侍郎であった時に、
- 侍中の楊奇
- 黄門侍郎の鍾繇
- 尚書左丞の魯充
- 尚書郎の韓斌
らと共に、李傕の配下を誘って李傕の暗殺を画策した人物です。
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曹操が献帝を許県に迎え入れる
董昭の進言
曹操が董昭を招き、並んで座って尋ねました。
「今、儂はここ[洛陽(雒陽)]に来たが、どのような計を施すべきだろうか」
すると董昭は、次のように答えます。
「将軍(曹操)は義兵を興して暴乱を誅し、洛陽(雒陽)に入って天子(献帝)に朝見され、王室を補佐いたしました。これは「五覇の功」です。
ですが、天子(献帝)の下にいる諸将たちは、人が異なれば意見も異なるので、必ずしも服従するとは限りません。
このような状況のまま ここ洛陽(雒陽)に留まって天子(献帝)を補佐しても良いことはなく、天子(献帝)を許県に行幸させるしかありません。
しかしながら、流浪していた天子(献帝)が還ったばかりで、みな洛陽(雒陽)に落ち着くことを望んでいます。今また天子(献帝)を許県に遷すならば、彼らの思いを満足させることはできないでしょう。
ですが、非常の事を行う者だけが非常の功を立てることができるのです。将軍(曹操)、どうかどちらが利益の多い計であるかをお考えください」
すると曹操はまた言いました。
「天子(献帝)を許県に迎えることは儂の本懐(本来の願い)だ。だが、楊奉が近くの梁県におり、その兵は精鋭だと聞く。奴の存在が気がかりだ」
すると董昭は、答えて言いました。
「楊奉は仲間が少ないので将軍(曹操)を頼りにしております。将軍(曹操)を鎮東将軍に任命し、費亭侯を継がせのも楊奉です。
すぐに使者を派遣し、厚く謝意を伝えて彼を安心させ、『洛陽(雒陽)には食糧がないので、天子(献帝)をしばらく荊州・南陽郡・魯陽県に行幸させる』ことを説くのです。
魯陽県は許県に近く輸送も容易になります。楊奉は勇猛ですが思慮が足りない男なので、これを疑うことはないでしょう。彼は何の障害にもなりません」
曹操は「よしっ!」と一言声を発すると、すぐに楊奉に使者を派遣しました。
曹操が献帝を許県に迎え入れる
9月、献帝が轘轅関を出て、東に向かって豫州(予州)・潁川郡・許県に都を遷します。
この時楊奉は、梁県から出陣してこれを阻止しようとしましたが、間に合いませんでした。
これは、曹操軍(献帝)が約束の魯陽県ではなく、許県に向かっていることに気づいたからだと思われます。
献帝の東遷経路
またその後、献帝は曹操の陣営に行幸し、曹操を大将軍に任命して武平侯に封じました。
そして10月、曹操は梁屯(梁県の拠点)を攻め落とし、敗れた楊奉は袁術を頼ります。
献帝が西(長安)に移動してから、朝廷は日に日に混乱を極めていきましたが、この時になって宗廟・社稷・制度がやっと確立しました。
豆知識
『魏書』武帝紀の注に引かれている『漢紀』には、次のエピソードが記されています。
その昔、天子(献帝)が(司隷・弘農郡・弘農県の)曹陽澗(渓谷)で敗れた時、船に乗り黄河を東に下ろうと考えた。
侍中太史令の王立は言った。
「過ぎし春より、太白(金星)が牛斗(牽牛星と北斗星)の辺りで鎮星(土星)を犯し、天津(天の川に横たわる九つの星)を通過しました。
熒惑(火星)はまた逆行して北河(双子座の三つの星)にじっと留まっておりまして、犯すことはできません」
その結果、天子(献帝)は結局黄河を北方に渡らず、軹関から東に出ようとした。(実際は黄河を北方に渡り、司隷・河東郡・安邑県に落ち着きました)
王立はまた宗正の劉艾に向かって言った。
「先に太白(金星)が天関(星座の名前)でじっと動かず、熒惑(火星)と出会いました。
金と火が交わり出会うのは、天命の改まる象です。漢の命運は尽きましょう。晋・魏に興隆する者があるに違いありません」
王立は後にたびたび帝に進言した。
「天命には去就があり、五行は常に栄えるわけではありません。
火に代わる者は土、漢を継承する者は魏、天下を安定できるのは曹姓です。ひとえに曹氏にごい委任ください」
公(曹操)はそれを聞くと、人をやって王立に言わせた。
「公が朝廷に忠義なことは存じているが、しかし天道は深遠である。どうか多言しないでくれ」
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建安元年(196年)8月、豫州(予州)・潁川郡・許県にいた曹操は、献帝を許県に迎え入れるため、楊奉を味方につけようと使者を送りました。
そんなところへ、董承が秘かに曹操を洛陽(雒陽)に召し寄せたので、曹操はこれ幸いと兵を率いて洛陽(雒陽)に向かいます。
司隸校尉・録尚書事に任命された曹操は、そこで賞罰を明らかにし、朝廷の建て直しを図ろうとしますが、反対勢力も多く、荒廃した洛陽(雒陽)から許県に献帝を遷し、そこを都に定めました。