北海相ほっかいしょう青州せいしゅう北海国ほっかいこく太守たいしゅ)となってからの孔融こうゆうと、袁譚えんたん青州せいしゅうを平定するまでの過程についてまとめています。

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北海相となってからの孔融

北海国(ほっかいこく)の場所

青州せいしゅう北海国ほっかいこく

『魏書』崔琰伝

孔融こうゆうは、平原国へいげんこく陶丘洪とうきゅうこう陳留郡ちんりゅうぐん辺譲へんじょうと3人並んで「俊秀しゅんしゅう」と呼ばれ、若手の代表として評価されていました。

また、孔融こうゆうは見識と政治の才では辺譲へんじょうらに及びませんでしたが、並外れた才知と博識は彼ら以上でした。


司徒しと大将軍だいしょうぐん何進かしん)が(孔融こうゆうを)召し出して好成績で推挙し、北軍中候ほくぐんちゅうこう虎賁中郎将こほんちゅうろうしょう北海相ほっかいしょう青州せいしゅう北海国ほっかいこく太守たいしゅ)へと昇進します。


当時38歳。北海相ほっかいしょうとなった孔融こうゆうは、黄巾こうきんの乱による破壊を受けた城市を修復し、教育を尊重して学校を設置し、才能のある人物を推挙して儒学の士を顕彰しました。

彭璆ほうきゅう方正ほうせいに、邴原へいげん有道ゆうどうに、王脩おうしゅう王修おうしゅう)を孝廉こうれんに推挙し、高密県こうみつけん高密国こうみつこく)に告知して鄭玄ていげんのために特に1つのきょう(県の下の行政単位)をもうけさせ、「鄭公郷ていこうきょう」と命名しました。

また、北海国ほっかいこくの住民で子孫のいない者や、四方からやって来た人物で死亡した者があった場合には、すべて棺桶かんおけの木を用意して彼らを仮埋葬しました。

郡人の甄子然しんしぜんは孝行によって評判を立てられましたが、早くに亡くなってしまいました。孔融こうゆうは彼より遅く生まれたことを残念に思い、県の鎮守のやしろに合わせ祭るなど、孔融こうゆうは優れた人物に礼を尽くしました。


郡に在任して6年、劉備りゅうびは上奏して孔融こうゆう青州刺史せいしゅうししに推挙しましたが、建安けんあん元年(196年)に、朝廷に呼び戻されて将作大匠しょうさくたいしょうに任命され、少府しょうふに昇進しました。

『資治通鑑』(『九州春秋』)

北海相ほっかいしょう青州せいしゅう北海国ほっかいこく太守たいしゅ)・孔融こうゆうは、みずからの才能を自負し、「国の危難をしずめる」ことをこころざしとしていましたが、そのこころざしの大きさに見合う才能がなかったため、結局これまでなんら功を成すことはできませんでした。


北海国ほっかいこく官曹かんそう(官府)には孔融こうゆうの立派な議論や訓令があふれるほど伝えられており、その言葉づかいはおだやかで気品があり、朗誦ろうしょうして楽しむには適していましたが、事実に即して考察すると、それらはことごとく実行に移すにはとても困難で、ただうまく法網ほうもうを張りめぐらせてありましたが、その管理はきわめて疎略そりゃく(いい加減)でした。

そのため、ごく短い期間ならば人心を得ることができましたが、次第に人々の心は離れていきました。


孔融こうゆうが人を任用する場合、風変わりな者を好み、変わった者を登用しましたが、その多くは軽薄な才能の持ち主でした。


また、学問のある人物に対するとなると、表向きだけは敬意を表し、礼をそなえて待遇しましたが、一緒に国事を議論することはありませんでした。

例えば、高密県こうみつけん高密国こうみつこく)の鄭玄ていげんに対して、彼を鄭公ていこうと持ち上げて、子孫の取るべき礼をとり、鄭玄ていげんきょう(県の下の行政単位)を「鄭公郷ていこうきょう」と改めました。


王子法おうしほう劉孔慈りゅうこうじは無茶な議論をする大した才能もない男たちでしたが、孔融こうゆうに信用されて腹心となり、左承祖さじょうそ劉義遜りゅうぎそんは清潔で優れた人物でしたが、孔融こうゆうは、


「彼らには民の人望があるから、他所よそにやるわけにはいかぬ」


と言い、ただの顧問こもんの座に置いただけでした。


その後、黄巾賊が攻め寄せて来ると、孔融こうゆうは戦いに敗れて敗走し、ただ都昌県としょうけんを保持するだけになってしまいます。

当時北海国ほっかいこくの周辺は、袁紹えんしょう曹操そうそう公孫瓚こうそんさんらが割拠していましたが、孔融こうゆうの兵は弱く食糧も少ないのに、片隅で孤立して誰とも通じようとしませんでした。

そしてこれを見かねた左承祖さじょうそが、「みずから強国に託すべきです」と勧めましたが、孔融こうゆうは彼の進言を聞かず、逆に左承祖さじょうそを殺害してしまいます。このことを知った劉義遜りゅうぎそんは、孔融こうゆうを見捨てて去りました。

豆知識

後漢書ごかんじょ鄭玄伝ていげんでんには「鄭公郷ていこうきょう」について次のような記述があります。


孔融こうゆう鄭玄ていげんを深く尊敬していたため、鄭玄ていげんの故郷の高密県こうみつけん高密国こうみつこく)に命じて鄭玄ていげんのために特に1つのきょう(県の下の行政単位)をもうけさせて、次のように言いました。


「昔、せいは『士郷』を置き、えつには『君子軍』がいた。みな賢人と凡人を区別するためだ。鄭君ていくん鄭玄ていげん)は学問を好み徳がある。

昔の太史公たいしこう司馬遷しばせん)、廷尉ていい呉公ごこう謁者僕射えっしゃぼくや鄧公とうこうらはみなかんの名臣である。また、南山四皓なんざんしこう商山四皓しょうざんしこう*1には園公えんこう東園公とうえんこう)、夏黄公かこうこうがおり、代々その気高い信念をうやまってこうと称してきた。

つまり「こう」というのは仁徳に対する呼び名であり、みなが三公さんこうである必要はない。今から鄭君ていくん鄭玄ていげん)のきょう(県の下の行政単位)を「鄭公郷ていこうきょう」と呼ぶべきである」

脚注

*1しん代の末期、国難を避けて南山なんざん商山しょうざん商嶺しょうれい楚山そざんとも言います)に入った東園公とうえんこう綺里季きりき夏黄公かこうこう甪里ろくり先生の4人の隠士のこと。みな鬚眉しゅび皓白こうはくの老人であったことから四皓しこうと呼ばれています。


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袁譚の青州平定

青州の情勢

初平しょへい2年(191年)、磐河ばんがの戦いで袁紹えんしょうに勝利した公孫瓚こうそんさんは、配下の田楷でんかい青州刺史せいしゅうししに任命しました。

すると袁紹えんしょうは、公孫瓚こうそんさんに対抗するように、子の袁譚えんたん青州せいしゅうに送り込みます。(当初袁譚えんたん都督ととくであって刺史ししではありませんでしたが、後に曹操そうそう青州刺史せいしゅうししに任命しました)


192年頃の青州せいしゅうの勢力図

192年頃の青州せいしゅうの勢力図


田楷でんかい袁譚えんたん青州刺史せいしゅうししの座をめぐる戦いは2年に及び、初平しょへい4年(193年)の初めに天下を慰撫いぶするために派遣された太僕たいぼく趙岐ちょうきの仲裁によって袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさん和睦わぼくするまで続きました。


その後、北海相ほっかいしょう青州せいしゅう北海国ほっかいこく太守たいしゅ)であった孔融こうゆうが、劉備りゅうびの上奏により朝廷から青州刺史せいしゅうししに任命され、当時青州せいしゅうには、

  • 公孫瓚こうそんさんが任命した田楷でんかい
  • 曹操そうそうが任命した袁譚えんたん
  • 朝廷が任命した孔融こうゆう

の、3人の青州刺史せいしゅうししが存在したことになります。

関連記事

孔融が袁譚に敗れる

建安けんあん元年(196年)春、曹操そうそうに任命された青州刺史せいしゅうしし袁譚えんたんが、劉備りゅうびに上奏されて青州刺史せいしゅうししとなった孔融こうゆうを攻め、夏に至りました。

この頃すでに、生き残っている孔融こうゆうの兵はわずか数百人だけとなり、辺りには流れ矢が飛びっていましたが、孔融こうゆう脇息きょうそくひじき)に寄りかかって読書をし、少しもあわてた様子もなく談笑していました。

ですがその夜に城は陥落。孔融こうゆうは(都昌県としょうけんの)東山とうざんに逃亡し、彼の妻子は袁譚えんたんに捕えられてしまいます。


その後、孔融こうゆうと旧知の間柄であった曹操そうそうが、彼を招いて将作大匠しょうさくたいしょうに任命しました。


袁譚えんたん青州せいしゅうに入ったばかりの頃、その領土は青州せいしゅう平原国へいげんこく黄河こうが以西の地域に過ぎませんでしたが、北は田楷でんかいを排除し、東は孔融こうゆうを破ったため、その軍威は海岸地帯まで知れ渡るようになります。

当時青州せいしゅうは、主君がいない状態が続いていたため、民衆たちは喜び勇んで袁譚えんたんを主君とあおぎましたが、その後袁譚えんたんは小人を信任し、思い通りに振る舞って贅沢ぜいたくみだらな楽しみにふけるようになったため、次第にその声望はおとろえていきました。