建安元年(196年)8月、揚州・呉郡を平定して諸県を安定させた孫策は、次の目標を揚州・会稽郡に定めました。この「孫策の会稽郡侵攻」についてまとめています。
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目次
孫策の江東進出
袁術と劉繇の争い
興平元年(194年)、揚州・九江郡・寿春県を本拠地とする袁術が、孫策に命じて廬江太守の陸康を攻撃させました。
すると朝廷に任命された揚州刺史・劉繇は、これを「漢王朝に対して反逆の意思がある」とみて、袁術によって任命された呉景と孫賁を揚州・丹楊郡(丹陽郡)から強制的に追い出します。
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孫策の江東進出
興平2年(195年)、朱治の献策により「江東を平定して地盤を得る」ことを決意した孫策は、「舅の呉景に加勢する」という名目で、袁術に「江東を平定する」許可を得ました。
そして、横江津と当利口の劉繇軍を撃ち破った孫策は、揚州・呉郡・曲阿県に駐屯する劉繇を敗走させ、呉郡太守・許貢を徹底的に撃ち破ります。
朱治に敗れた許貢は、南に逃げて山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)の不服従民・厳白虎(厳虎)の元に身を寄せました。
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孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
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孫策の会稽郡侵攻
会稽郡侵攻
建安元年(196年)8月、諸県を安定させた孫策は、次の目標を揚州・会稽郡に定めます。
ですが当時まだ呉郡には、山越の不服従民・厳白虎(厳虎)らが、それぞれ1万余人の規模で各地に たむろ していたので、呉景らは「先に厳白虎(厳虎)らを討ってから会稽郡に軍を進めるべき」だと考えていました。
揚州の勢力図
※ 緑色の枠は厳白虎(厳虎)の活動範囲
ですが孫策は、
「厳白虎(厳虎)らは群盗に過ぎず、大きな野望があるわけではありません。奴らなど、いつでも虜にすることができるのです」
と言い、会稽郡に軍を進めました。
またこの時孫策は、叔父の孫静に使者を送って呼び寄せ、孫静は一家・眷属(一族・郎党・従者)を引き連れて、孫策と呉郡・銭唐県で合流しました。
固陵の戦い
王朗の抵抗
孫策軍が会稽郡に進軍していることが伝わると、会稽郡の功曹・虞翻は、
「孫策は戦に長けているので、戦いを避けた方が良いでしょう」
と会稽太守・王朗に進言しましたが、王朗はこれに従わず、固陵(渡し場の名前)に兵を出して孫策軍を防がせました。
孫静の献策
孫策は何度も浙江を渡って戦いをしかけましたが、王朗軍に勝つことができずにいました。
そこで、孫静が孫策に言いました。
「王朗は要害を背にして城に立て籠もっているのだから、すぐにこれを陥落させることは困難だ。
査瀆はここから南に数十里のところにある道の要衝(重要な地点)。そこから敵の内部に足場を築いていくのが良い。これぞ『その備えなきを攻め、その不意をつく』というものだ。私が自ら軍勢を率いて先鋒となり、必ずや撃ち破ってみせよう」
孫策は「それは名案です」と言って、この意見に従いました。
豆知識
固陵について
固陵は春秋時代、越王に仕えた范蠡が築いて「固守できる」と言ったことから固陵と呼ばれるようになりました。
査瀆について
査瀆は現在の浙江省・杭州市・蕭山区の境にあります。
王朗が孫策に投降する
「ここ数日の雨で水が濁り、兵にはそれを飲んで腹痛を起こす者が多い。急ぎ数百個の瓶を用意して、水を澄ませるように指示せよ」
孫策はまずこのような偽の命令を出しました。
そして日が暮れた頃、瓶に火を焚いて陣に兵がいるように見せかけると、軍を分けて査瀆への道を進んで、高遷屯にある王朗の軍営を襲撃します。
王朗は大いに驚いて、元丹楊太守の周昕らに迎撃させましたが、孫策は周昕を討ってその首を斬りました。
王朗が敗れると、虞翻は王朗を護衛し、海に出て東冶国(東部侯国)に入ります。
ですが、孫策はこれを追撃して大いに撃ち破り、ついに王朗は孫策の元を訪れて投降しました。
孫策の会稽郡侵攻関連地図
豆知識
呉景の周昕討伐
袁術が淮南に本拠地を移すと、丹楊太守・周昕は袁術が残虐を欲しいままにすることを嫌って彼との交わりを絶ちました。
すると袁術は、呉景を差し向けて周昕を攻撃させましたが、なかなか落とすことができません。
そこで呉景は民衆たちに、
「周昕の命令に従う者はすべて死刑にする」
という「お触れ」を出したので、周昕は、
「私は不徳であるにしても、民衆たちに何の罪があるのか」
と言ってそのまま兵士たちを解散させると、故郷(揚州・会稽郡)に帰ってしまいました。
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孫策が会稽太守となる
孫策の人事
王朗を降伏させ、会稽郡を平定した孫策は自ら会稽太守となり、虞翻を功曹に任命して「交友の礼」をもって接しました。
また、上表して孫静を奮武校尉に任命して重要な任務を任せようとしましたが、孫静は故郷やそこにいる一族の者を懐かしがって官職に就くことは願わず、「故郷に留まってその守りに当たりたい」と願い出たので、孫策はそれを許しました。
虞翻の忠告
孫策は狩猟が好きだったため、虞翻が諫めて言いました。
「明府(孫策)は軽々しく外出することを好まれますので、従官は警護に追われ、吏卒たちは困り果てております。
人の上に立つ者は、どっしりと構えていなければ威厳が失われます。
白龍が魚の姿になれば、豫且(宋国の漁師)に苦しめられ*1、白蛇は自分の思いのままに振る舞ったために、劉季[前漢の高祖(劉邦)]に害されました*2。
少しご自重ください」
これに孫策は、「君の言う通りだ」と答えましたが、その行動を改めることはありませんでした。
豆知識
*1 白龍魚服困於豫且
霊力を持つ白龍が「ただの魚」の姿に変化していた時に、豫且という漁師に射られてしまったという伝説。白龍は天帝に訴えましたが、天帝は「魚は人から射られるものだ。豫且に罪はない」と答えました。
高貴な人が微行(秘かに出歩くこと)して災難にあうことの例え。
『説苑』正諫にある故事で、戦国時代、呉王が民と共に酒を飲もうとした時、伍子胥はこの故事を例に挙げて呉王を諫めました。
*2 白蛇自放劉季害之
劉季[前漢の高祖(劉邦)]が仲間と共に沢の小道を進んでいた時のこと。
先行していた者が引き返して来て、
「前方に大蛇が横たわっております。引き返しましょう」
と言いました。
ですが、酔っていた劉季は、
「壮士が行くのに、何を怖れることがあるか」
と言ってそのまま進み、剣を抜いてその蛇を斬ってしまいました。
後から来た者たちが蛇のいたところに着いてみると、そこには夜だというのに泣いている老婆がいます。
老婆は、
「我が子は白帝の子です。蛇に化けて道に横たわっていたのですが、赤帝の子に斬られてしまったのです」
と言い、人々はさらに問い詰めようとしましたが、老婆はたちまち消え去ってしまいました。
建安元年(196年)8月、呉郡を平定した孫策は、会稽郡に侵攻を開始します。
そして、固陵で会稽太守・王朗の抵抗を受けた孫策ですが、孫静の献策により高遷屯で王朗を撃ち破り、逃亡した王朗を追撃してついに降伏させました。
会稽郡を平定した孫策は、自ら会稽太守となります。