建安元年(196年)9月、献帝を豫州(予州)・潁川郡・許県に迎えた曹操の、袁紹に対する対応とその他の人事についてまとめています。
スポンサーリンク
目次
曹操が袁紹に大将軍の位を譲る
許県に献帝を迎える
建安元年(196年)9月、曹操は豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎え入れます。
曹操が献帝を迎えて許県に都を置き、司隷・河南尹を手中に収めると、関中はみな曹操に帰服しました。
関連記事
袁紹を責める
献帝(曹操)が、袁紹に次のような詔書を下して彼を責めました。
「(袁紹は)領地が広く兵も多くして、自ら党を立て*1、勤王の師を聞かず(朝廷の命令に従わず)、ただ欲しいままに互いに討伐を行っている*2」
すると袁紹が釈明の上書をしてきたので、朝廷は袁紹を太尉に任命し、鄴侯に封じました。
脚注
*1勝手に子の袁譚を青州刺史に、袁熙を幽州刺史に、外甥(姉妹の子)の高幹を幷州刺史に任命したことを指します。
*2公孫瓚と争いを繰り返したことを指します。
大将軍の位を譲る
朝廷から正式に太尉に任命された袁紹ですが、その序列が曹操(大将軍)の下位にあることを恥じ、
「曹操はこれまで何度も窮地に陥ったが、その度に儂は奴を救ってやった。それなのに、今になって天子(献帝)を差し挟み(干渉して)、儂に命令するというのかっ!」
と言って激怒し、上表してこれを受けることを辞退してきました。
これを懼れた曹操は、朝廷に大将軍の位を袁紹に譲ることを請い、改めて司空に任命され、車騎将軍の職務を代行することになりました。
また、袁紹は大将軍の位は受けましたが、鄴侯の爵位は辞退して受けませんでした。
袁紹が大将軍になった時期について、『後漢書』献帝紀には、「建安2年(197年)3月、袁紹が自ら大将軍となった」とあります。
豆知識
袁紹の曹操への援助
- 初平元年(190年)、司隷・河南尹・滎陽県の汴水で徐栄に敗れた曹操は、揚州で兵を補充した後、当時司隷・河内郡に駐屯していた袁紹を頼りました。
- 初平3年(192年)、袁紹は兗州・東郡に侵攻した黒山賊を撃ち破った曹操を、東郡太守に任命しました。
- 初平4年(193年)、曹操の徐州侵攻に際して、袁紹は朱霊に3陣営の兵を指揮させて援助しました。
- 興平元年(194年)、兗州で反乱を起こした呂布らを相手に敗北が続いた曹操に、使者を派遣して手を結ぼうと持ちかけ、曹操の家族を冀州・魏郡・鄴県(袁紹の本拠地)に住まわせるように提案しました。
関連記事
- 汴水(べんすい)の戦い。曹操の敗北と酸棗(さんそう)諸将の解散
- 曹操が黒山賊を討って東郡太守となる。黒山賊と於夫羅の反乱
- 第一次徐州侵攻は賭けだった!?曹嵩殺害と曹操の大量虐殺について
- 【濮陽の戦い】呂布 vs 曹操。典韋の武勇と曹操の危機
『後漢書』献帝紀には、
「曹操は自ら司空・行車騎将軍となり、百官はそれぞれの職責を負いつつ曹操の指示に従った」
とあり、袁紹に大将軍の位を譲ったことで曹操は、何らかの権限を失うわけではありませんでした。
おそらくこの時点で、袁紹の怒りを買って攻撃を受けたならば、曹操は敗北していたかもしれません。曹操は名目だけに過ぎない大将軍の位を譲ることで、袁紹の攻撃を回避したのでした。
鄧羲の出奔
献帝が許県に遷都すると、荊州牧の劉表は使者を派遣して貢物を献上することはしましたが、袁紹と同盟を結んでいました。
治中従事の鄧羲が劉表を諫めましたが、劉表は、
「内(朝廷)に対しては貢物の献上を怠らず、外に対しては盟主(袁紹)を裏切らず、これこそ最も筋の通った天下の道義である。治中(鄧羲)1人がどうしておかしいと思うのだ」
と言って聞き入れなかったので、鄧羲は病気を口実にして辞職し、劉表の時代が終わるまで2度と仕官しませんでした。
スポンサーリンク
曹操の人事
荀彧の推挙
曹操は荀彧を漢の侍中・尚書令に昇進させました。
荀彧は常に中枢にいながら厳正な態度を保ち、曹操は出征して都の外にいる時でも、軍事・国時に関するすべてのことを荀彧に相談しました。
ある時曹操が荀彧に、
「君に代わって儂のために策謀を立てられる人物は誰だね?」
と尋ねました。すると荀彧は、
- 従子(甥)で蜀郡太守の荀攸
- 豫州(予州)・潁川郡出身の鍾繇
の2人を推挙します。
またこれより先、荀彧は「策謀の士」として戯志才を推挙しましたが、戯志才が亡くなると今度は、
- 豫州(予州)・潁川郡出身の郭嘉
を推挙しました。
彼が推挙した人物はみな適任で、曹操は「荀彧には人を見る目がある」と考えていましたが、
- 揚州刺史に任命された厳象
- 涼州刺史に任命された韋康
だけは後年敗死しました。
荀攸(じゅんゆう)
曹操は荀攸を招いて尚書に任命しました。
また、荀攸と語り合った曹操は大いに喜んで、
「公達(荀攸の字)は常人ではない。彼と事を計ることができたならば、天下に何も憂うることはない」
と言って、彼を軍師に任命しました。
豆知識
荀攸は、荀彧と共に董卓の戦禍を免れた後、公府に招聘され、高第に挙げられて任城相(兗州・任城国の太守)に任命されましたが、任城国には赴任せず、蜀の地が険固で民衆が富裕だったことから、蜀郡太守の官職を求めました。
ですが、蜀への道が絶たれていたために任地に赴くことができず、この時は荊州に留まっていました。
郭嘉(かくか)
曹操は郭嘉を招いて共に天下のことを論じると、
「儂に大業を成さしむる者は、この人に違いない」
と言って喜び、上表して司空祭酒*3に任命しました。
また郭嘉も、
「(曹操こそ)真に吾が主君なり」
と言って喜びました。
豆知識
かつて郭嘉は袁紹を訪ねて会見したことがあり、その時袁紹は彼に大変な敬意を払って接しました。
ですが数十日経った頃、郭嘉は袁紹の謀臣・辛評と郭図に言いました。
「そもそも智恵者は主君の人物をはっきりと判断するものです。だからこそすべての行為は安全確実で功業名誉を打ち立てることができるのです。
袁公(袁紹)はいたずらに「士人に謙った周公の態度」を真似ようとされていますが、人物を用いる機微についてご存知ではありません。また色々とおやりになりながら肝心な所が疎かなことが多く、策略を好みながら決断することができません。
協力して天下の大難を救い、覇者王者の事業を成そうと思いましても難しいことです。私は改めて主君を求めます。あなた方はなぜ去らないのですか」
すると2人は、
「袁氏(袁紹)は天下に恩徳があり、多くの人が帰順している。しかも今、最も強いというのに、ここを去ってどこに行くというのだ」
と言ったので、呆れた郭嘉はそれ以上語らずに袁紹の元を去りました。
脚注
*3『魏書』郭嘉伝では司空軍祭酒。軍律(軍隊の風紀・規律)を取り仕切る官職。
満寵(まんちょう)
曹操が兗州・山陽郡出身の満寵を西曹属に任命し、許令[豫州(予州)・潁川郡・許県の県令]としました。
豆知識
当時、曹洪は曹操の一族として親愛され高い身分にあったため、彼の食客の中には許県の界隈でしばしば法を犯す者がいたので、満寵は彼らを逮捕して取り調べを行いました。
この時曹洪は、手紙を送って満寵に内々の意向(食客たちの赦免要求)を伝えましたが、満寵は聞き入れようとしません。
そこで曹洪が曹操にこの事を言上すると、曹操は許県の担当者を召し出しました。
ですが、これを「食客たちを赦免する」つもりだと察した満寵は、すぐさま彼らを引き出して処刑してしまったのです。
このことを聞いた曹操は喜んで、
「事の処理はこのようにすべきだ」
と言いました。
豫州(予州)・潁川郡・許県に迎え入れられた献帝は、袁紹を太尉に任命し、鄴侯に封じました。
ですが袁紹は、その序列が曹操(大将軍)の下位にあることを恥じて辞退してきたため、曹操は大将軍の位を袁紹に譲ります。
また曹操は、新たに「策謀の士」を求めて、荀彧が推挙した荀攸、郭嘉らを幕下に加えました。