献帝が司隷・河東郡・安邑県から洛陽(雒陽)に入るまでと、曹操の豫州(予州)侵攻についてまとめています。
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目次
献帝の洛陽帰還をめぐる争い
安邑県を都に定める
興平2年(195年)7月、献帝は長安を出て洛陽(雒陽)に向かいました。
すると再び手を結んだ李傕と郭汜は、献帝を長安に戻すべく追撃を開始。3度に渡って献帝一行を襲撃します。
多大な犠牲を出しながら司隷・弘農郡・陝県にたどり着いた献帝一行は、そこで黄河を渡り、司隷・河東郡・安邑県に到着すると、安邑県を都に定めて李傕・郭汜と和睦しました。
献帝の東遷経路
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洛陽(雒陽)帰還をめぐる争い
興平3年(196年)春正月、献帝は司隷・河東郡・安邑県で上帝(天帝)を祀る郊祀を行い、大赦して興平3年から建安元年に改元します。
この時、献帝を洛陽(雒陽)に帰還させようとする董承・張楊と、それを望まない楊奉・李楽の間で意見が対立し、お互いに疑いを持つようになりました。
2月、韓暹が衛将軍・董承を攻め、敗れた董承は張楊が駐屯する司隷・河内郡・野王県に逃亡します。
また、韓暹は司隷・河東郡・聞喜邑に駐屯すると、胡才と楊奉は塢郷(司隷・河南尹・匽師県にある)に行き韓暹を攻めようとしましたが、献帝が使者を派遣して諭したため事なきを得ました。
諸将の配置
この時韓暹は、献帝を洛陽(雒陽)に帰還させようとする董承派と、それに反対する楊奉派の両方と対立していたようですが、韓暹がどのような主張をしていたのかは分かりません。
董承が洛陽宮を修繕する
一方この頃、野王県の張楊は、献帝を迎えるために董承を向かわせて洛陽宮(雒陽宮)を修繕させました。
すると太僕の趙岐は、董承のために「洛陽(雒陽)に兵を派遣して宮室(宮殿)の修繕を助ける」よう、荊州牧の劉表を説得します。この時劉表が供出した物資を運ぶ兵は長蛇の列をなしました。
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献帝の洛陽入り
献帝の洛陽入り
夏5月、献帝が楊奉・李楽・韓暹の陣営に使者を派遣して、洛陽(雒陽)まで供をするように詔を下します。
楊奉らは詔に従い、献帝は安邑県を出発して司隷・河東郡・聞喜邑に到着しました。
6月、楊奉と韓暹(、董承)が献帝を奉じて東に向かうと、箕関を出て軹道を下ったところで張楊が食糧を用意して出迎えます。
献帝の洛陽(雒陽)入り
そして7月、一行はついに洛陽(雒陽)に到着し、献帝は故中常侍・趙忠邸に身を落ち着けました。
そして8月、献帝が南宮の楊安殿に移ります。
豆知識
楊安殿の名称について、次の2つの記述があります。
『資治通鑑』
張楊は[献帝が洛陽(雒陽)に帰れたことを]自分の功績と考え、宮殿の名前を楊安殿とした。
『魏書』武帝紀の注『献帝春秋』
張楊に宮室(宮殿)を修理させ、その宮殿を楊安殿と名付けた。
献帝の人事
「天子は天下の人々みんなのものであるはずだ。幸いにして公卿大臣がおられることだし、儂は外難の防止にあたるべきだ。どうして都の事に専念しておられようぞ」
張楊は諸将にこう言うと司隷・河内郡・野王県に帰り、楊奉も洛陽(雒陽)を出て司隷・河南尹・梁県に駐屯。韓暹と董承は洛陽(雒陽)に留まって警備にあたります。
その後献帝は、
- 安国将軍・張楊を大司馬
- 楊奉を車騎将軍
- 韓暹を大将軍・司隸校尉
に任命し、それぞれ節と斧鉞を授けました。
献帝が洛陽(雒陽)に入った時、宮殿は焼き尽くされ、街路には雑草が生い茂っており、百官は荊棘を切り開いて丘や生け垣の間に身を寄せました。
また、州や郡は各々軍隊を擁して自衛するだけで、天子(献帝)のために物資を持って馳せ参じる者はなく、飢餓の苦しみは益々ひどくなり、尚書郎以下の官吏が自ら薪を取りに出掛け、ある者は土塀の間で餓死し、兵士に殺害される者もありました。
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曹操の豫州侵攻
豫州・陳国の平定
建安元年(196年)春正月、曹操が豫州(予州)・陳国・武平県に侵攻し、袁術が任命した陳相(陳国の太守)・袁嗣が曹操に降伏しました。
豫州(予州)・陳国・武平県
豫州・汝南郡、潁川郡の平定
豫州(予州)の汝南郡・潁川郡の黄巾、
- 何儀
- 劉辟
- 黄邵
- 何曼
らは、それぞれ数万の軍勢を擁して、これまで袁術や孫堅に味方していました。
2月、曹操が軍を進めて彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬ると、何儀とその軍兵はすべて降伏しました。
また、この功績により献帝は、曹操を建徳将軍に任命しました。
豫州(予州)・汝南郡と潁川郡
豆知識
『三国志』武帝紀では、上記のように劉辟が斬られていますが、劉辟の名前はこの後も出てきます。同姓同名の人物がいた可能性もありますが、恐らく誤記だと思われます。
『資治通鑑』では、
「汝南・潁川の黄巾何儀ら、衆を擁して袁術に附く。曹操撃ちて之を破る」
とあるだけで、劉辟については触れていません。
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司隷・河東郡・安邑県を都と定めて郊祀を行った献帝ですが、その臣下の間では「献帝の洛陽(雒陽)帰還」について意見が分かれ、争いが生じていました。
そこで、洛陽(雒陽)帰還派の董承と張楊は、先に洛陽宮(雒陽宮)を修繕して献帝を迎える準備を整えると、献帝は「洛陽(雒陽)に帰還する」詔を下し、反対派の楊奉らもこれに従います。
一方その頃、兗州を平定した曹操は、豫州(予州)の汝南郡・潁川郡の黄巾を討ち、後に献帝を迎えることになる豫州(予州)・潁川郡・許県を支配下に置きました。