袁紹に冀州を譲ったことで知られる冀州牧・韓馥とは、どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地
韓馥は字を文節と言い、豫州・潁川郡の出身です。
生没年は、不明〜初平2年(191年)7月以降。列伝は立てられていません。
豫州・潁川郡
家族
袁紹に冀州牧の印綬を届ける際に息子を使者に立てていることから、韓馥には息子がいたことが分かりますが、その名前は伝わっていません。
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反董卓連合への参加
冀州牧に任命される
昭寧元年(189年)8月、朝廷の実権を握った董卓は、能力がなかったり不正を働いている人物を罷免して、これまで冷遇されてきた清流派の名士を積極的に採用しました。
この流れにより、御史中丞(『後漢書』董卓伝では尚書)を務めていた韓馥は、侍中の周毖、城門校尉の伍瓊らの推薦によって冀州牧に任命されます。
またこの時、冀州には董卓に反発して洛陽を出奔した勃海太守・袁紹がいたため、冀州牧となった韓馥には、袁紹が董卓に対して反乱を起こさないように監視する役目もありました。
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反董卓連合に参加する
そんな中、韓馥の元に東郡太守・橋瑁が偽造した「董卓を弾劾し、義兵の決起を願う」三公の公文書が届きます。
この公文書を読んだ韓馥が「袁氏を助けるべきか、董卓に従うべきか」と尋ねると、治中従事史の劉子恵が言いました。
「今は袁氏か董卓かで迷っている時ではありません。ただ国難のために挙兵するべきです。
ですが、戦の口火を切ってはいけません。冀州は肥沃で人口も多く兵糧の蓄えも十分です。功をあせらず他州の動きを見てから動いても遅くはないでしょう」
すると韓馥は悩んでいたことを恥じ入り、袁紹に使者を送って董卓討伐の兵を挙げることを許可しました。
こうして袁紹を盟主とする反董卓連合が結成されると、韓馥は劉子恵の進言を受け入れて、冀州・魏郡・鄴県で諸将の後方支援にあたることにします。
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豆知識
董卓が朝廷の実権を握ると、兗州・任城国・亢父県の県令を務めていた荀彧は官職を捨てて故郷(豫州・潁川郡・潁陰県)に帰り、村の長老たちに言いました。
「潁川郡は四方から攻撃を受ける要衝の地であり、天下に変事が起これば大変な戦禍に見舞われるでしょう。今のうちに避難するべきです」
ちょうどその頃、同じく潁川郡出身の韓馥が騎兵を派遣して村人たちを迎えにやってきます。
ですがみな故郷に執着して土地を離れようとせず、ただ荀彧だけが一族を引き連れて冀州に向かいました。
その後潁川郡は、董卓配下の李傕、郭汜、張済らの略奪を受け、多くの村人が犠牲になりました。
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劉虞を天子に推戴する
反董卓連合の崩壊
初平元年(190年)1月に結成された反董卓連合は、実のところ董卓によって廃位された少帝を支持していた諸将の集まりであり、その目的は「董卓の誅殺を成し遂げた後、董卓に廃位された弘農王(降格された少帝)を再び即位させる」ことでした。
ですが反董卓連合の決起後すぐに董卓が弘農王を殺害してしまったため、反董卓連合は挙兵の大義を失ってしまったのです。
また、汴水で曹操が敗れ、河陽津で王匡が敗れるなど反董卓連合の敗北が続くと、諸将たちの士気はみるみる低下して、兵糧不足を理由に次々に撤退を始めました。
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劉虞を天子に推戴する
初平2年(191年)1月、韓馥は袁紹と相談して、董卓が即位させた献帝を認めず、皇族の中でも評判が高い幽州牧・劉虞を天子(皇帝)に推戴することを提案します。
ですが、当の劉虞は「天子になるなど恐れ多いこと」と頑として承知しません。
そこで韓馥と袁紹は「せめて尚書として事務を取り仕切り、官爵の任命を行っていただきたい」と頼みました。
ですが、劉虞は「それならば匈奴に逃亡する」とまで言い出したので、2人もついにあきらめました。
また、諸将に同意を求めた際には曹操と袁術が献帝を支持する態度を示しており、韓馥と袁紹による「劉虞を天子に推戴する」計画は失敗に終わっただけでなく、反董卓連合の諸将の間にわだかまりを生じさせてしまいました。
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袁紹に冀州をゆずる
袁紹との軋轢(あつれき)
その後、袁紹の下に人材が集まっていることを疎ましく思った韓馥は、袁紹に供給する兵糧を減らしてしまいました。
これでは物資の供給を韓馥に頼りきっていた袁紹は軍勢を維持することができません。
袁紹は韓馥に謀反を起こした麴義と手を結ぶと、配下の逢紀の進言に従って冀州を奪う計画を実行に移します。
公孫瓚の冀州侵攻
まず袁紹は公孫瓚に使者を送り、冀州を攻めるように働きかけました。公孫瓚はこれを受け、「董卓討伐」を掲げて冀州に侵攻を開始します。
韓馥は冀州・安平国・安平県に迎撃に出ますが、公孫瓚に敗北して多くの郡県が公孫瓚に味方してしまいました。
すると袁紹は公孫瓚の動きに呼応するように、軍勢を兗州・陳留郡の延津に移して冀州を窺う素振りを見せます。
南からも袁紹に狙われていると感じた韓馥は、さらに不安を募らせていきました。
袁紹に冀州をゆずる
韓馥に圧力を加える一方で袁紹は、韓馥の元に高幹、辛評、荀諶、郭図らを送り込み、袁紹に冀州を任せるように説得させます。
荀諶は言いました。
「もし公孫瓚と袁氏が力を合わせれば、冀州はひとたまりもありません。幸いなことに将軍と袁氏は昔なじみの上、同盟を結んだ間柄です。
将軍のために考えますに、もし冀州を袁氏に譲り渡されたならば、公孫瓚も手を出すことができず、袁氏も必ず将軍を厚く遇するでしょう。
将軍は優れた人物に国を譲った名声を得て、生涯安泰を保つことができるでしょう」
これに長史の耿武、別駕従事の閔純、治中従事の李歴が反対しますが、
「もともと私は袁氏の故吏*1であり、その才能も本初*2どのには及ばない。己の力量を知り賢人に地位を譲ることは賢明なことだ」
と言って、ついに韓馥は息子に冀州牧の印綬を持たせて袁紹に届けさせました。
脚注
*1 辟召(へきしょう)によって取り立てられた者のこと。関連記事参照。
*2 袁紹(えんしょう)の字(あざな)。
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韓馥の最期
袁紹は冀州を手に入れると韓馥を奮威将軍に任命しましたが、従う将兵もおらず、ただ肩書きだけが与えられただけでした。
ある時、都官従事の朱漢が独断で韓馥を襲撃する事件が起こります。
袁紹はすぐに朱漢を処刑しましたが、韓馥は陳留太守・張邈を頼って冀州から逃亡します。
その後、袁紹からの使者が張邈に耳打ちするのを見た韓馥は、袁紹が自分を殺そうとしているのだと思い込み、しばらくして席を立つと、厠(トイレ)の中で自害してしまいました。
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周毖と伍瓊の推薦によって冀州牧となった韓馥ですが、決断力に乏しく、重大な決断をする際にはいつも配下の意見に振り回されていました。
非常に臆病で野心のない性格のため、袁紹も命まで取るつもりはなかったと思われますが、被害妄想に取り憑かれた韓馥はついに自害してしまいます。
これにより、恩を受けた袁氏を立て、優れた人物に国を譲った名声を得るつもりが、袁紹に冀州をだまし取られた無能な男として名を残すことになってしまいました。
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韓馥データベース
韓馥関連年表
西暦 | 出来事 |
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不明 |
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189年 |
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190年 |
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191年 |
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不明 |
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配下
正史
閔純、劉子恵、李歴、耿武、趙浮、程奐、沮授、審配、田豊、麴義、朱漢、張郃
『三国志演義』のみ
潘鳳、辛評