董卓が破壊した洛陽で、孫堅によって発見された伝国璽(伝国の玉璽)。伝国璽を手に入れることにはどのような意味があったのでしょうか。
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目次
伝国璽(でんこくじ)とは
画像引用元:『三国志 Three Kingdoms』第6話
伝国璽とは
伝国璽とは、秦の始皇帝が「霊鳥の巣から見つかった宝玉」でつくらせたとされる印章のことで、始皇帝はこれを皇帝の権威の象徴とします。
その後、秦王・子嬰が降伏する際に高祖(劉邦)の手に渡り、以降代々の皇帝に受け継がれたことから「伝国璽」と呼ばれるようになりました。
形状と大きさ
伝国璽は、一辺が4寸(約9cm)の四角形で、上部が丸くなった形状をしており、上部の綬をかけるところには5匹の龍が彫られていて、そのうちの1匹の龍は角が欠けていました。
龍の角が欠けている理由
王莽が前漢の帝位を簒奪した際、従兄弟の王舜を使者に立て、伝国璽を保管していた伯母の王政君(孝元太皇太后)に使者を送って伝国璽を引き渡すように要求しました。
これに激怒した王政君は、王莽を「恩知らずっ!」と罵ると王舜に伝国璽を投げつけました。龍の角はこの時の衝撃で欠けてしまったと言われています。
その後、欠けた部分には金で補修が施され、この補修の跡こそが本物の伝国璽の証であるとされました。
伝国璽の印文
伝国璽の印文には次の2つの説がありますが、どちらが正しいのかは分かっていません。
韋昭『呉書』
受命于天 既壽永昌
(命を天より受け、寿くしてまた永昌ならん)
応劭『漢官儀』
受命于天 既壽且康
(命を天より受け、寿くして且つは康からん)
伝国璽には、この2つの印文のうちのどちらかが、篆書で刻印されていたと伝えられています。
天子の六璽
『三国志演義』を読んでいると、伝国璽は天子(皇帝)の唯一の印章であり、伝国璽を持つ者は、詔書を自由に発給できるような印象を受けます。
ですが、天子が普段使用していたのは、伝国璽とは別の「天子の六璽」と呼ばれる印章でした。
天子の六璽には、
- 皇帝之璽
- 皇帝行璽
- 皇帝信璽
- 天子之璽
- 天子行璽
- 天子信璽
と刻印された6つの璽(皇帝の印章)があり、封をする命令書の種類に応じて使い分けられていました。
『三国志演義』における伝国璽
『三国志演義』では、伝国璽を手に入れた孫堅に、配下の程普が次のように説明しています。
伝国璽をの成り立ち
その昔(春秋時代)、楚の卞和が鳳凰が巣にしていた石を持ち帰り、楚の文王に献上しました。そして、文王がこれを打ち割らせてみると素晴らしい宝玉が現れます。
秦の26年(紀元前221年:始皇帝が天下を統一した年)、始皇帝はこの宝玉を磨きあげて玉璽をつくらせると、篆書の名家として知られる宰相の李斯に「受命于天 既壽永昌」と彫りつけさせました。
伝国璽が嵐を鎮める
秦の26年、始皇帝が各地を巡幸していた時のこと、洞庭湖に至るとにわかに波風が吹き起こり、船が転覆しそうになります。
そこで、伝国璽を湖の中に投げ込んだところ、たちまち波風が静まって事なきを得ました。
伝国璽が秦に戻る
秦の36年、始皇帝の巡幸の一行が司隷・弘農郡・華陰県に差しかかったとき、一行の道をふさぐ者がおり、従者に伝国璽を渡して「これを祖竜(始皇帝)に返せ」と言って立ち去りました。
その後、伝国璽が秦から前漢、新、後漢に受け継がれ、紛失するまでの経緯は、後に記す「伝国璽のゆくえ」の章の内容と同じです。
豆知識
楚の卞和が献上した宝玉は「和氏の璧」と呼ばれ、その後趙の恵文王の手に渡りました。
このことを聞きつけた秦の昭王は、15の城(町)と「和氏の璧」を交換しようと持ちかけますが、「和氏の璧」を受け取っても一向に15の城を渡す気配がありません。
大国の秦は約束を反故にして「和氏の璧」を手に入れるつもりでしたが、趙の使者として赴いていた藺相如は、機転を利かせて傷一つつけることなく見事に「和氏の璧」を取り返して趙に戻りました。
このエピソードは「完璧帰趙」と呼ばれ「完璧」という言葉の語源となっています。
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伝国璽を手に入れる意味
神器としての伝国璽
夏の禹王がつくらせたと言われている九鼎*1は、祭器として夏、殷、周の歴代の王に受け継がれ、九鼎を持つ者が天子であるという最高権力者の象徴となっていました。
秦が周を滅ぼした時、始皇帝も九鼎を得ようとしたのですが、混乱の中で泗水の底に沈んで失われてしまいます。
そのため始皇帝は、失われた九鼎の代わりに伝国璽をつくり、皇帝権力の「新しい象徴」としたのでした。
伝国璽は、日本の天皇家に伝わる「三種の神器」のような秘蔵の宝物であり、実際に詔書などに押印することはありませんでした。
つまり、伝国璽を手に入れたからといって、詔書を自由に発給できるわけではなかったのです。
脚注
*1 夏(か)の禹王(うおう)が9つの州から貢上させた金で鋳造した、足がついた釜。
天命思想
古代中国には、天命によって徳のある者が天子に選ばれて天下を支配し、天子が徳を失えば、新たな天子が天命によって選ばれるという考え方がありました。
そのため、天下に野心を持つ者は「自分が天に選ばれた人間であること」を証明する必要があり、天子の証である伝国璽を手に入れることは「自分が天に選ばれた」という1つの根拠になり得ます。
少なくとも、失われた伝国璽を見つけたときに、天子に返却せずに私物化したとすれば、反逆の意志ありと見なされることは間違いありません。
『三国志演義』では、伝国璽を得たことが「袁術の天子僭称」の直接的な動機となっています。
『魏書』袁術伝が注に引く『典略』には、「袁氏が後漢の火徳を受け継ぐ土徳であること」また、「自分の即位が予言書に記されている(と解釈できる)」ことを根拠として、袁術が即位したことが記されています。
また、『呉書』孫堅伝が注に引く『山陽公載記』には、袁術が伝国璽を得たことは記されていますが、伝国璽を得たことを即位の理由にしたとは書かれていません。
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伝国璽のゆくえ
秦 → 漢(後漢)
秦 → 漢(前漢)
秦の始皇帝が李斯につくらせた伝国璽は、秦が漢(前漢)に滅ぼされた際、高祖(劉邦)の手に渡ります。
漢(前漢)→ 新
伝国璽は漢(前漢)の歴代皇帝に受け継がれましたが、王莽が帝位を簒奪した際に王莽の手に渡りました。
新 → 漢(後漢)
王莽が建国した新の政策は民衆の反感を買い、各地で反乱が勃発。王莽は殺害されました。
その後伝国璽は、更始帝(劉玄)、劉盆子を経て、漢(後漢)を建国した光武帝(劉秀)の手に渡ることになります。
漢(後漢)→ 魏
伝国璽を紛失する
光武帝以降、伝国璽は漢(後漢)の歴代皇帝に受け継がれることになります。
189年、第12代皇帝・霊帝の崩御後に後継者争いが勃発。袁紹らの攻撃を受けた宦官・張讓は、新たに即位した少帝とその弟・陳留王を連れて洛陽を脱出しました。
この時、大切な「天子の六璽」と「伝国璽」はゆくえ知れずとなってしまいます。
その後董卓によって少帝は廃され、陳留王(献帝)が即位しますが、「天子の六璽」は見つかったものの、伝国璽は依然としてゆくえ不明のままでした。
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孫堅の手に渡る
190年、朝廷で権力を握った董卓に反発する諸侯が反董卓連合を結成すると、董卓は洛陽を略奪・破壊して長安に遷都しました。
その後、反董卓連合の1人・孫堅が洛陽に入ると、洛陽の南部の井戸から伝国璽を発見します。
本来であれば献帝に返還するべきですが、孫堅は伝国璽を見つけたことを口外しませんでした。
当時献帝は董卓の手中にあるため、献帝に伝国璽を返還することはできません。
孫堅が伝国璽を得たことを口外しなかったのは、孫堅に天下を狙う野心があったのか、反董卓連合の諸侯に知らせて混乱が起きることを避けたのか、その理由は分かりません。
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袁術の手に渡る
その後、荊州刺史・劉表を攻撃した孫堅が敗死すると、伝国璽は子の孫策が受け継ぎ、その孫策は袁術を頼ることになります。
天子を僭称しようと考えていた袁術は、孫策が伝国璽を持っていることを知ると、孫堅の妻を人質にして伝国璽を奪い取りました。
献帝の元に戻る
天子を僭称した袁術に対し、孫策は離反。袁術は、袁術の即位を認めない諸侯との戦いに敗北を重ねました。
そして、ついに領土を失った袁術は、袁紹を頼って青州に向かう途中、発病して亡くなってしまいます。
袁術に無理矢理留められていた徐璆は、袁術の持ち物の中に伝国璽を見つけると、曹操に保護されて豫州・潁川郡・許県にいた献帝に返上しました。
曹丕が禅譲を受ける
220年、曹操の跡を継いだ曹丕は、献帝に禅譲を迫って魏の文帝として即位。同時に献帝から伝国璽を受け継ぎました。
『後漢書』獻穆曹皇后紀には、この時、曹丕が「伝国璽を渡すように」と、献帝の皇后となっていた妹の曹節(献穆曹皇后)に使者を送ると、曹節が使者に伝国璽を投げつけたという、前漢の王政君と同じようなエピソードが記されています。
後漢末期の所有者
霊帝 → 少帝 → 孫堅 → 孫策 → 袁術 → 献帝 → 曹丕
その後(魏〜清)
魏〜後晋
その後の伝国璽は、魏から西晋、前趙、後趙、冉魏、東晋、宋、斉、梁、漢(侯景)、隋、唐へと受け継がれました。
そして、五代十国時代の946年、後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に紛失し、これ以降の伝国璽は模造品であるという説が一般的です。
南宋 → 元
モンゴル民族の元が南宋を征服すると、南宋は元に伝国璽を献上しました。
また、『元史』楊桓伝には、一時期紛失していた伝国璽が見つかり、そこには「受天之命 既寿永昌」と彫られていたことが記されています。
1368年、朱元璋が江南に明を建国して北伐を始めると、元の順帝は明に追われて首都・大都(薊県 / 現:北京)から内蒙古の応昌に移りました。(北元)
その後、朱元璋は伝国璽を得るために連年北元に遠征を行いますが、結局目的を達することができず、そのことを恥じていたと言います。
しばらくして、北元は何度か明に伝国璽を返還しようとしますが、明は「もはや伝国璽に意味はない」として受け取ろうとしませんでした。
清
ある時、1頭の山羊が3日も牧草を食べずに地面を蹴り続けていました。これを不審に思った羊飼いが掘り返してみると、そこから玉璽が見つかります。
その印文には「制誥之寶」とあり、秦の始皇帝がつくらせた伝国璽とはまったくの別物で、「大元伝国璽」というものでした。
その後、この「大元伝国璽」を手に入れた後金の第2代ハン・ホンタイジは、元を受け継いでモンゴルを支配すると宣言し、1636年には国号を後金から「清」と改め、皇帝を称するようになりました。
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本物の伝国璽が失われた時機には諸説ありますが、少なくとも元の時代までは、(模造品であったとしても)特別な神器として伝わっていたようです。
その後、明は伝国璽の価値を否定し、女真族(満州族)の清は、モンゴルの権威である「大元伝国璽」に価値を見いだしました。
残念ながら、秦の始皇帝がつくらせた伝国璽は失われ、現在わたしたちが見ることはできません。