反董卓連合に呼応して討伐の兵を挙げた孫堅ですが、「これはちょっとどうなの?」と、孫堅のイメージが変わってしまいそうな黒歴史がありました。
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目次
江東の虎・孫堅、起つ!
反董卓連合の結成
189年4月、霊帝が崩御すると、朝廷の混乱に乗じて洛陽に入った董卓が朝廷の実権を握りました。
そして190年1月、東郡太守・橋瑁が「義兵の決起を願う三公の公文書」を偽造して州郡にばらまくと、董卓に反発する諸侯が結集して、袁紹を盟主とする反董卓連合を結成します。
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孫堅、董卓討伐に起ち上がる
山東の諸侯が兵を挙げると、それに呼応して荊州刺史・王叡と長沙太守・孫堅も董卓討伐の兵を挙げます。
この時、孫堅にも「橋瑁が偽造した公文書」が届いていたのかは定かではありませんが、孫堅は以前董卓と対立したことがあり、董卓討伐の兵を挙げる動機は十分にありました。
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荊州刺史・王叡を自害させる
孫堅、王叡を攻める
董卓討伐の兵を挙げた荊州刺史・王叡ですが、なぜかその矛先を仲が悪かった武陵太守・曹寅に向けます。
そしてこれに気づいた曹寅は、案行使者・光禄大夫・温毅の檄文を偽造して孫堅に王叡の討伐を命じました。
以前、王叡と孫堅が零陵郡と桂陽郡の反乱を討伐した際、王叡は武官である孫堅に対して蔑んだ態度を取っていたことから、孫堅はこれ幸いと王叡の討伐に向かいます。
孫堅の計略
突然兵が押し寄せて来たと報告を受けた王叡は、楼(物見櫓)に登って「要求は何だっ!?」と兵たちに問いかけました。
「今まで戦いに明け暮れて来たのに、いただいた恩賞では衣服すらつくることができません。もう少し恩賞をいただけるようにお願いに参ったのです」
兵たちが答えると王叡は「恩賞を出し惜しみなどするものか」と兵たちを城に入れ、府庫を開いて確認するように言いました。
兵たちが楼の下まで来たとき、王叡はその中に孫堅がいることに気がつきます。
「孫太守っ!なぜあなたが兵たちの暴動に荷担しているのだ!?」
すると孫堅は「案行使者の檄文を奉じて王叡を誅殺するっ!」と言い放ちます。
「私に何の罪があるというのだ…?」状況が飲み込めない王叡に、孫堅は言いました。
「坊やだからさ…」*1
もはや逃げきれないと悟った王叡は、削った金を飲み込んで自害しました。
荊州刺史・王叡は「董卓討伐」という孫堅と共通の目的を持っていました。ですが、孫堅は過去の私怨から、味方であるはずの王叡を死に追いやってしまったのです。
脚注
*1 原文では、叡曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知」となっており、直訳すると「何も知らないことがお前の罪だ」となります。
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南陽太守・張咨を殺害する
孫堅の計略
孫堅はさらに北上を続け、南陽郡に至る頃になると、その兵は数万にふくれ上がっていました。
南陽太守・張咨は、孫堅の軍がやって来たと聞いても少しも驚かず、孫堅が贈り物をたずさえて張咨を訪問すると、翌日には答礼のために孫堅を訪ねました。
孫堅が酒宴を開いて張咨をもてなしていると、長沙郡の主簿が孫堅に耳打ちします。
(張咨は依頼していた街道の整備も、兵糧の用意もしていません。董卓のために我々を引き留めようとしています)
これを聞いた孫堅は、すぐさま張咨を捕らえて斬り殺してしまいました。
この一件ににより、孫堅に恐れをなした南陽郡の役人たちは皆孫堅に従いました。
豆知識
『呉書』孫堅伝の注に引く『呉歴』には、この時のエピソードとして別の記録があります。
孫堅が南陽郡に到着したとき、張咨は兵糧の供出を拒み、孫堅に会おうともしませんでした。
そこで孫堅は一計を案じて「重病で倒れた」と嘘をつき、張咨に使者を送って軍兵を預けたいと申し出ます。
そして、孫堅の軍勢を手に入れることができると喜んだ張咨が病床に見舞いに来ると、重病のはずの孫堅は突然起き上がり、張咨を斬り殺してしまいました。
南陽太守・張咨は、反董卓連合の中核を担っている諸侯と同じく、袁紹と通じていた伍瓊、周毖らが董卓に推薦した人物の1人です。
想像になりますが、この時張咨も董卓討伐の兵を起こす準備をしており「他郡の孫堅に兵糧を都合する余裕はない」と、兵糧の供出を断った可能性もあります。
袁術と合流する
袁術に南陽郡を譲る
南陽太守・張咨を殺害した孫堅はそのまま魯陽県に向かうと、袁術と合流して南陽郡の支配権を袁術に譲りました。
これに喜んだ袁術は、上表して孫堅に破虜将軍と豫州刺史を兼務させました。
190年1月の段階では、豫州刺史には孔伷が就いていました。
孫堅が袁術によって豫州刺史に任命された際、孔伷については一切記されていないことから、この時すでに孔伷は亡くなっており、豫州刺史は空席になっていたものと思われます。
袁術による南陽郡の支配
南陽郡の支配権を手に入れた袁術は、欲望のままに際限なく税を取り立てて贅沢にふけったため、多くの民衆が南陽郡から逃亡してしまいます。
益州牧・劉焉は彼らを積極的に迎え入れると、軍に編成して「東州兵」と名づけ、自軍の中核を担わせたました。
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孫堅の進軍経路
孫堅の進軍経路
漢寿
荊州・武陵郡・漢寿県。荊州の治所(政務を行う場所)。荊州刺史・王叡がいたところ。
その後、劉表が荊州刺史に任命されると、荊州の治所をここ漢寿県から南郡・襄陽県に遷しました。
臨沅
荊州・武陵郡・臨沅県。武陵郡の治所。武陵太守・曹寅がいたところ。
荊州刺史・王叡は董卓討伐の兵を挙げると、まず仲が悪かった曹寅を攻撃目標に定めました。
臨湘
荊州・長沙郡・臨湘県。長沙郡の治所。長沙太守・孫堅がいたところ。
武陵太守・曹寅の「偽の檄文」を受け取った孫堅は、これを口実にして自分を見下していた王叡の討伐に向かいました。
宛県
荊州・南陽郡・宛県。南陽郡の治所。南陽太守・張咨がいたところ。
兵を増やしながら北上した孫堅は、南陽太守・張咨に街道の整備と兵糧の供出を要求しますが、これに応じなかった張咨を誘い出し、殺害してしまいました。
魯陽
荊州・南陽郡・魯陽県。袁術が駐屯していたところ。
張咨を殺害して南陽郡の支配権を手に入れた孫堅は、魯陽県に駐屯していた袁術と合流し、南陽郡の支配権を袁術に移譲しました。
孫堅は魯陽県に留まって兵に訓練を施し、袁術はおそらく宛県に入ったものと思われます。
山東の諸侯に呼応して董卓討伐の兵を挙げた孫堅ですが、董卓がいる洛陽に向けて北上する途上、荊州刺史・王叡と南陽太守・張咨を、私怨とも取れる理由で殺害していました。
孫堅を「漢への忠義と勇壮さを兼ね備えた名将」として描いている『三国志演義』では、孫堅の印象を悪くするようなこれらのエピソードは一切採用されていません。
いつも楽しみにしています。
添付の地図があるのでとても分かりやすいですね。
正史では、孫堅が袁術の武将であると言われる事情が分かりました。
王叡や張咨は蒼天航路では董卓派の人物とされていたと思うので、
孫堅の印象は、一般に伝わるものとはだいぶ違うかなり荒々しいものですね。
後に荊州の人々が劉表・曹操・劉備と統治者を変えながらも、
呉による攻撃に対して相当な抵抗したのも納得です。