黄巾の乱では1部隊長に過ぎなかった孫堅そんけんは、反董卓連合軍に参加する時にはすでに長沙太守ちょうさたいしゅになっています。
『三国志演義』では分からない、孫堅そんけんの幼少期から青年期をみてみましょう。

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幼少期

出自

孫堅そんけんあざな文台ぶんだいと言い、揚州ようしゅう呉郡ごぐん富春県ふしゅんけんの人で、呉書ごしょ孫堅伝そんけんでんでは、孫武そんぶの子孫であろうとされています。

また、孫堅そんけんの父は明らかになっていませんが、孫鍾そんしょうという人物であるとする説があります。孫家は代々呉郡ごぐんに仕官していた家柄でした。

出生

富春ふしゅんの城の東にある孫家の墓の上には度々怪しい光が見られ、ある時5色に輝く気となって空中に立ち昇り、数里先まで広がって行きました。

これを見た孫家の老人たちは「孫氏が勃興ぼっこうするきざしだ!」と色めきだちました。


また、孫堅そんけんの母が孫堅そんけんを身ごもったとき、腸が飛び出して閶門しょうもんを取り巻く夢を見たと言います。

海賊退治で名をあげる

孫堅そんけんが17歳の時、父と一緒に銭唐県せんとうけんに行ったことがあります。

船でかわを下って行くと、海賊の胡玉こぎょくが商人から略奪した品を仲間たちに分け与えているところに出くわしました。

そのため船頭は船を止め、旅人たちはみんな立ち往生することになりました。

これを見た孫堅そんけんは、父に「こいつらを退治しましょう」と言い出します。

孫堅そんけんは父親が止めるのも聞かずに刀を取って岸に上がると、遠くに合図するかのように大きく腕を振って見せました。

それを見た海賊たちは、官兵が近くまで来ているものと思い、略奪品もそのままに逃げ出したのです。

孫堅そんけんは追いかけて海賊の1人に斬りかかり、首級を1つ取って帰ってきたので、父は大いに驚きました。

このことが噂になって広まると、孫堅そんけんは召し出されて県尉けんいの代理に任命されました。


この頃孫堅そんけんは、銭唐県せんとうけんで才色兼備と噂に高い呉氏ごし呉夫人ごふじん)を妻に迎えています。この呉夫人ごふじん孫策そんさく孫権そんけん孫翊そんよく孫匡そんきょうの生母で、207年に亡くなっています。

ちなみに『三国志演義』に登場する呉国太ごこくたいは架空の女性で、呉夫人ごふじんの妹として登場し、姉と一緒に孫堅そんけんに嫁いだことになっており、孫夫人そんふじんの生母とされています。



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青年期

孫堅の初陣(許昌の乱)

172年11月、会稽郡かいけいぐん句章県こうしょうけんで妖賊の許昌きょしょう陽明皇帝ようめいこうていを自称して、子の許韶きょしょうとともに反乱を起こします。

妖賊とは宗教的な反乱者のことで、周辺諸県の民を扇動して賊軍は数万にのぼりました。

この反乱の鎮圧を命じられた揚州刺史ようしゅうしし臧旻ぞうびん丹陽太守たんようたいしゅ陳夤ちんいんは賊軍を打ち破りますが、賊軍を鎮圧するには至りませんでした。


そして翌年の173年、会稽太守かいけいたいしゅ尹端いんたんが賊軍に敗北します。この時尹端いんたんの下で主簿しゅぼを務めていたのが、のちに黄巾の乱討伐の一翼を担う朱儁しゅしゅんです。


さらに翌年の174年、情勢の悪化を受けて呉郡ごぐんからも援軍を出すことになり、孫堅そんけん郡司馬ぐんしばに任命されて、新たに募集した精兵1,000人あまりを率いて討伐軍に加わりました。

同年11月、臧旻ぞうびん陳夤ちんいん会稽郡かいけいぐんで賊軍を打ち破り、許昌きょしょうを斬って反乱を完全に鎮圧します。


この時の孫堅そんけんの功績は臧旻ぞうびんによって上奏され、孫堅そんけん塩瀆県えんとくけんじょうに任命されました。

また、孫堅そんけんの戦い振りを間近で見ていたであろう朱儁しゅしゅんによって、のち孫堅そんけんは黄巾の乱討伐軍に抜擢されることになります。


孫堅そんけんはその後、盱眙県くいけんじょう下邳県かひけんじょうを歴任しますが、役人・民衆を問わず慕われていた孫堅そんけんは、屋敷に集まってくる若者に子弟のように接していたと言われています。


許昌きょしょう許韶きょしょう親子については、「許昭きょしょう大将軍を自称し、父の許生きょせい越王えつおうに立てた」など史料によって諸説ありますが、ここでは呉書ごしょ孫堅伝そんけんでんの情報を採用しています。

黄巾の乱の勃発

184年、黄巾の乱が勃発すると霊帝れいていは、盧植ろしょく皇甫嵩こうほすう朱儁しゅしゅんの3名を中郎将ちゅうろうしょうに任じて討伐に向かわせます。

この際、朱儁しゅしゅん孫堅そんけん左軍司馬さぐんしばに任命するように上奏したため、孫堅そんけん朱儁しゅしゅん麾下きかで討伐軍に参加することになりました。

この時、孫堅そんけんの任地であった下邳県かひけんの多くの者が従軍を申し出たと言われています。孫堅そんけんは、淮水わいすい泗水しすい流域の精鋭1,000人を募って朱儁しゅしゅんのもとに駆けつけました。

西華県せいかけんでの危機

呉書ごしょ孫堅伝そんけんでんでは「朱儁しゅしゅんと力を合わせて奮闘し、向かうところ敵なしであった」とされています。ですが、朱儁しゅしゅんは緒戦で波才はさいに敗北しているほか、孫堅そんけんは1度決定的な危機におちいっています。


長社県ちょうしゃけんで籠城を強いられていた官軍ですが、皇甫嵩こうほすうの火計で勢いを得ると、穎川郡えいせんぐん波才はさいを破り、汝南郡じょなんぐん西華県せいかけんへと駒を進めました。

この時、勝利に乗じて敵を深追いした孫堅そんけんは反撃にあって負傷し、落馬して草むらの中に倒れて込んでしまったのです。

孫堅そんけんはそのまま行方知れずとなってしまいました。

しばらくして、官軍の陣営に孫堅そんけんの乗馬が帰ってきたかと思うと、逆立ちして大きくいなないて、落ち着きがありません。

何かを伝えようとしていると思った将兵が馬について行くと、草むらの中に倒れている孫堅そんけんが発見され、九死に一生を得ることができました。

宛県城えんけんじょうでの活躍

西華県せいかけんでの戦いで負傷した孫堅そんけんですが、十数日で戦いに復帰し、黄巾の乱最後の激戦地、宛県城えんけんじょうの攻略に参加します。


南陽郡なんようぐん宛県城えんけんじょうで蜂起した張曼成ちょうまんせい率いる黄巾賊は、張曼成ちょうまんせいが討たれた後も趙弘ちょうこう、さらには韓忠かんちゅうと新たに大将を立てて抵抗を続けていました。

宛県城えんけんじょうを落とし韓忠かんちゅうを捕らえた官軍ですが、韓忠かんちゅうを斬ったことで再び孫夏そんかを大将として宛県城えんけんじょうに籠もってしまいます。

孫堅そんけんは真っ先に城壁を乗り越えて宛県城えんけんじょうに突入し、官軍の完全勝利に貢献しました。


この時の孫堅そんけんの功績は朱儁しゅしゅんによって上奏され、孫堅そんけん別部司馬べつぶしばに任命されます。

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この宛県城えんけんじょうでの戦いが『三国志演義』での孫堅そんけんの初登場シーンになります。

また、呉書ごしょ程普伝ていふでんには、この時すでに程普ていふ孫堅そんけんの配下として戦いに参加していたことが記されています。

董卓(とうたく)を糾弾する

涼州の反乱

184年、まさに黄巾の乱の最中、涼州りょうしゅう羌族きょうぞく(異民族)の反乱が起こり、辺允へんいん韓約かんやくら数十人を人質に取られて金城太守きんじょうたいしゅ陳懿ちんいが殺害されてしまいました。

その後、賊は辺允へんいん韓約かんやくを釈放して軍政を任せたので、朝廷には2人が賊徒に荷担したという噂が広まって、2人の首に懸賞金がかけられてしまいます。

これを受けて、辺允へんいん辺章へんしょう韓約かんやく韓遂かんすいと名を改めました。

辺章へんしょう韓遂かんすいの乱

翌年の185年、逆賊の汚名を着せられた辺章へんしょう韓遂かんすいは、「宦官誅殺」を大義に掲げて三輔さんぽ地方(右扶風ゆうふふう左馮翊さひょうよく京兆尹けいちょういんの3郡)に侵攻します。

朝廷は左車騎将軍さしゃきしょうぐん皇甫嵩こうほすう中郎将ちゅうろうしょう董卓とうたくを派遣して討伐に当たらせましたが、皇甫嵩こうほすう十常侍じゅうじょうじ讒言ざんげんされたため罷免ひめんされてしまいました。


さらに翌年の186年、朝廷が司空しくう張温ちょうおん車騎将軍しゃきしょうぐんに任命して皇甫嵩こうほすうの後任とすると、張温ちょうおん執金吾しつきんご袁滂えんほう蕩寇将軍とうこうしょうぐん周慎しゅうしんに加え、新たに孫堅そんけんを討伐軍に加えました。

董卓とうたくを糾弾する

長安ちょうあんに駐屯した張温ちょうおんは、戦況を確認するために董卓とうたくを呼び寄せますが、董卓とうたくは遅れて来た上に不遜ふそんな態度を取る始末でした。

この時、孫堅そんけんは「董卓とうたくは遅参した上に悪びれることなく偉そうにしている。軍法に照らして斬るべきだ」と張温ちょうおんに耳打ちします。

ですが、張温ちょうおん涼州りょうしゅうでの董卓とうたくの影響力を考慮し、「西に軍を進めるり所を失う」として躊躇ちゅうちょします。

そこで孫堅そんけんは、董卓とうたくを処罰するべき理由を3つ挙げます。


  • あなたは天子の勅書を受けて軍を起こしているのだから、董卓とうたくを頼る必要はない。無礼な振舞いをする者は処罰すべきである。
  • 辺章へんしょう韓遂かんすいが乱を起こしてからすでに年を越している。本来ならすぐさま鎮圧すべきであるのに、これを放置したのは董卓とうたくである。
  • 董卓とうたくは反乱討伐の勅書を受けながら軍を動かさず、討伐をしなかった。これは罪である。罪あるものを処罰しないと軍規が失われる。

ですが張温ちょうおんはこの意見を取り上げず、孫堅そんけんを退出させました。


官軍は10万に達しており、流星が辺章へんしょう韓遂かんすいの陣営を明るく照らしたため、これを不吉に感じた辺章へんしょう韓遂かんすい金城郡きんじょうぐんに撤退しました。

孫堅そんけん金城きんじょうの補給線を絶ち、兵糧攻めにすることを提案しますが、周慎しゅうしんはこれを却下。力攻めをして敗北しています。

この後、辺章へんしょう韓遂かんすい楡中ゆちゅうに撤退したため、張温ちょうおんも軍を引き上げ、孫堅そんけんはこの功によって議郎ぎろうに任命されました。


董卓とうたく羌族きょうぞくとも交流があり、涼州りょうしゅうにおいて大きな影響力を持っていました。

また、黄巾の乱討伐の際にも董卓とうたくは積極的に兵を動かさずに温存しており、孫堅そんけん董卓とうたくが後漢の支配から離れ、軍閥化しようとしていることを見抜いていたのかもしれません。

孫堅、長沙太守となる

187年、長沙ちょうさの賊・区星おうせいが1万余りの兵を集め、将軍を名乗って反乱を起こします。そこで朝廷は、孫堅そんけん長沙太守ちょうさたいしゅに任命して、区星おうせいの討伐を命じました。

孫堅そんけんみずから兵を率いてわずか1ヶ月で区星おうせいを打ち破ると、区星おうせいに呼応して零陵れいりょう桂陽けいようで蜂起していた周朝しゅうちょう郭石かくせきらも討伐し、長沙ちょうさ零陵れいりょう桂陽けいようの反乱を鎮圧しました。

この功によって、孫堅そんけん烏程侯うていこうに封じられました。


零陵れいりょう桂陽けいようの反乱軍に独断で攻撃をしかけることは、厳密に言うと越権行為ですが、朝廷がとがめることはありませんでした。

孫堅そんけんの行動は国益にかなっていますが、朝廷のこのような対応が、地方豪族に軍閥化を許す原因になったと言えます。

また孫堅そんけんはこの頃、賊に攻撃を受けた廬江太守ろこうたいしゅ陸康りくこうの甥を独断で救援しています。


孫堅そんけん長沙太守ちょうさたいしゅになるまで、実に多くの実戦経験を積んでいることが分かります。朝廷に後ろ盾のない孫堅そんけんは、まさに武功のみによってのし上がって来たと言えるでしょう。

ですがやっぱり、若い頃から無鉄砲さが目立っているのは気になりますね。



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孫堅データベース

孫堅関連地図

孫堅関連地図

孫堅そんけん関連地図

富春県ふしゅんけん

揚州ようしゅう呉郡ごぐん富春県ふしゅんけん孫堅そんけんの出生地。

銭唐県せんとうけん

揚州ようしゅう呉郡ごぐん銭唐県せんとうけん孫堅そんけん17歳の時に、海賊退治の舞台となった場所。

また呉夫人ごふじんは、呉県ごけんからこの銭唐県せんとうけんに移り住んできた時に孫堅そんけんに見初められました。

当初、呉夫人ごふじんの親戚は結婚に反対しましたが、

孫堅そんけんを怒らせて一族に災いを招く訳にはいきません。私がひどい仕打ちを受けたとしてもそれは運命でしょう」

という呉夫人ごふじんの説得によって結婚を許したと言われています。

句章県こうしょうけん

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん句章県こうしょうけん陽明皇帝ようめいこうていを自称した許昌きょしょうが、子の許韶きょしょうとともに反乱を起こしした場所。

塩瀆県えんとくけん

徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん塩瀆県えんとくけん

孫堅そんけん許昌きょしょうの乱平定の功によって、塩瀆県えんとくけんじょうに任命されました。

盱眙県くいけん

徐州じょしゅう下邳国かひこく盱眙県くいけん孫堅そんけん県丞けんじょうに任命された県。

下邳県かひけん

徐州じょしゅう下邳国かひこく下邳県かひけん孫堅そんけん県丞けんじょうに任命された県。

長社県ちょうしゃけん

孫堅そんけんはここ長社県ちょうしゃけんにおいて、朱儁しゅしゅんの指揮下で黄巾賊の波才はさいと戦って敗北しています。

西華県せいかけん

孫堅そんけんは敵を深追いし、ここ西華県せいかけんで負傷して落馬する危機におちいっています。

宛県えんけん

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん孫堅そんけんは一番に宛県城えんけんじょうの城壁を乗り越えて奮戦し、黄巾の乱最後の激戦地、宛県城えんけんじょうの攻略に貢献しました。

三輔さんぽ

前漢の首都・長安ちょうあんの周辺地域。司隷しれい右扶風ゆうふふう)ゆうふふう左馮翊さひょうよく京兆尹けいちょういんの3郡のこと。

金城県きんじょうけん

涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん金城県きんじょうけん三輔さんぽまで侵攻した辺章へんしょう韓遂かんすいは、ここ金城郡きんじょうぐんまで撤退しました。

楡中県ゆちゅうけん

涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん楡中県ゆちゅうけん辺章へんしょう韓遂かんすいがここ楡中県ゆちゅうけんまで撤退したことで、官軍は董卓とうたくを残して兵を引きましたが、反乱はこれ以後も続くことになります。

長沙郡ちょうさぐん

荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん区星おうせいの反乱を鎮圧するために、孫堅そんけんが初めて郡太守ぐんたいしゅに任命された郡。孫堅そんけんと言えば長沙太守ちょうさたいしゅというイメージが強いですね。

零陵郡れいりょうぐん

周朝しゅうちょう郭石かくせきらが反乱を起こした郡の1つ。

桂陽郡けいようぐん

周朝しゅうちょう郭石かくせきらが反乱を起こした郡の1つ。

孫堅関連年表

西暦 出来事
155年

孫堅そんけん揚州ようしゅう呉郡ごぐん富春県ふしゅんけんで生まれる。(孫堅そんけんの生年には諸説ありますが、ここでは155年と仮定します)

171年

揚州ようしゅう呉郡ごぐん銭唐県せんとうけんで海賊を退治し、名声を得る。

県尉けんいの代理に任命される。(任地不明)

孫堅そんけん呉夫人ごふじんを嫁に迎える。

・17歳。

172年

・「許昌きょしょうの乱」が勃発する。

・18歳。

174年

・「許昌きょしょうの乱」の討伐軍に加わり反乱を鎮圧する。

塩瀆県えんとくけんじょうに任命される。

・20歳。

不明

盱眙県くいけんじょうに転任される。

下邳県かひけんじょうに転任される。

184年

朱儁しゅしゅんに抜擢されて左軍司馬さぐんしばとして黄巾の乱討伐に参加する。

涼州りょうしゅう羌族きょうぞく(異民族)の反乱が起こる。

・30歳。

185年

辺章へんしょう韓遂かんすい三輔さんぽに侵攻する。(辺章へんしょう韓遂かんすいの乱)

・31歳。

186年

張温ちょうおんに抜擢されて辺章へんしょう韓遂かんすいの乱の討伐軍に参加する。

議郎ぎろうに任命される。

・32歳。

187年

長沙ちょうさの賊・区星おうせいが反乱を起こす。

区星おうせいの反乱鎮圧を命じられ、長沙太守ちょうさたいしゅに任命される。

烏程侯うていこうに封じられる。

・33歳。

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