191年【漢:初平2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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191年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
ー |
朝廷
官職 |
人物 |
太師 |
董卓 |
太傅 |
(劉虞) |
司徒 |
王允 |
司空 |
种拂 → 淳于嘉 |
太尉 |
趙謙 → 馬日磾 |
右車騎将軍 |
朱儁 |
後将軍 |
袁術 |
左将軍 |
皇甫嵩 |
奮武将軍 |
曹操 |
降虜校尉 |
公孫瓚 |
地方官
官職 |
人物 |
幽州牧 |
劉虞 |
冀州牧 |
韓馥 → 袁紹 |
益州牧 |
劉焉 |
冀州刺史 |
厳綱 |
兗州刺史 |
劉岱 → 単経 |
豫州刺史 |
孫堅 → 孫賁 → 郭貢? |
青州刺史 |
田楷 |
徐州刺史 |
陶謙 |
荊州刺史 |
劉表 |
揚州刺史 |
陳温 |
交阯刺史 |
朱符 |
遼東太守 |
公孫度 |
勃海太守 |
袁紹 → 公孫範 |
東郡太守 |
王肱 → 曹操 |
山陽太守 |
袁遺 |
陳留太守 |
張邈 |
陳湣王 |
劉寵 |
潁川太守 |
李旻(~2月) |
広陵太守 |
張超 |
済北相 |
鮑信 |
九江太守 |
劉邈 |
丹楊太守 |
周昕 |
廬江太守 |
陸康 |
豫章太守 |
周術 |
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191年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 天下に大赦する。
- 韓馥、袁紹らが劉虞を天子に立てようとする。
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2月 |
- 董卓が自ら太師に就任する。
- 豫州刺史・孫堅が司隷・河南尹・梁県で董卓配下の徐栄に敗れる。
- 孫堅が梁県の陽人聚で董卓配下の胡軫に勝利する。
- 董卓配下の呂布が洛陽の諸皇帝の陵墓を盗掘する。
- 孫堅が大谷口に進軍し、董卓は澠池県に退く。
- 孫堅が洛陽に入り、皇室の宗廟を修復して魯陽県に戻る。
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4月 |
- 董卓が長安に入る。
- 董卓が尚父を名乗ろうとするが諦める。
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6月 |
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7月 |
- 司空の种拂が罷免され、光禄大夫の淳于嘉が司空に任命される。
- 太尉の趙謙が辞任したため、太常の馬日磾が太尉に任命される。
- 冀州牧・韓馥が袁紹に印綬を譲る。
- 黒山賊の于毒、白繞、眭固らが東郡に侵攻する。
- 曹操が東郡太守に任命される。
- 南匈奴の単于・於夫羅が袁紹に背く。
- 董卓が張楊を河内太守に任命する。
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10月 |
- 董卓が衛尉の張温を殺害する。
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11月 |
- 泰山太守の応劭が泰山郡に侵攻した青州の黄巾賊を撃破する。
- 公孫瓚が東光県で黄巾賊を撃ち破る。
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冬 |
- 袁紹が豫州に侵攻し、孫堅と袁術が撃退する。
- 公孫瓚が冀州に侵攻する。(磐河の戦い)
- 孫堅が劉表を攻め、敗死する。(襄陽の戦い)
- 朱儁が反董卓の兵を挙げる
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191年の三国志群雄勢力図
191年1月
初平2年(191年)1月の三国志群雄勢力図
191年12月
初平2年(191年)12月の三国志群雄勢力図
191年の情勢
荊州・南陽郡・魯陽県に駐屯していた孫堅が北上を開始して洛陽を落とし、孫堅に敗れた董卓は長安に撤退しました。
また、河北では袁紹が冀州を手に入れ、袁術が刺史に任命した孫堅が治める豫州に侵攻を開始。同じ汝南袁氏の袁紹と袁術が初めて矛を交えました。
そして、この戦いで従弟の公孫越を失った公孫瓚は袁紹に宣戦を布告。冀州・青州・兗州に強い影響力を及ぼすようになります。
その後、荊州刺史の劉表が袁紹と手を結び、徐州刺史・陶謙が、袁術が援助して挙兵した朱儁を援助するようになると、袁紹をトップとする陣営と袁術をトップとする陣営の2大陣営の争いに発展していきました。
袁紹陣営と袁術陣営
特記事項
劉虞を天子に推戴する
1月、袁紹と韓馥が中心となって、反董卓連合の諸将が幽州牧・劉虞を天子に推戴します。
ですが、劉虞はこれを頑なに拒否したので、ついに袁紹たちもあきらめました。
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董卓軍と孫堅軍が激突する
2月、孫堅軍が司隷・河南尹・梁県に侵出すると、董卓は徐栄を派遣して孫堅軍を打ち破りました。
その後孫堅は陽人聚に移って体勢を立て直し、迎撃に来た胡軫を敗走させて華雄を斬ると、大谷関で董卓を、洛陽で呂布を破ってついに洛陽に入りました。
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董卓が長安に入る
190年2月、董卓は遷都を強行し、献帝の居所を洛陽から長安に遷しましたが、自身は洛陽郊外の畢圭苑に駐屯を続けていました。
大谷関で孫堅に敗北した董卓はこの年の4月、東中郎将の董越を澠池県に、中郎将の段煨を華陰県に、中郎将の牛輔を安邑県に配置して、自身は長安に入りました。
董卓と孫堅の行軍経路
長安に入った董卓は、引き続き蔡邕を信任する一方で親族を要職に就け、苛酷な法令と刑罰による統治で人々を従わせるようになります。
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韓馥が袁紹に冀州をゆずる
冀州牧・韓馥は、袁紹たちに物資を補給する後方支援の任務を担っていました。
ですが、袁紹の下に続々と人材が集まっていることに嫉妬した韓馥は、袁紹軍に送る兵糧を減らしてしまいます。
確たる地盤を持たず、物資の供給を他人に頼っていることに不安を覚えた袁紹は、韓馥が治める冀州を我がものにしようと思い立ちます。
7月、袁紹は公孫瓚に誘いをかけて冀州を攻撃させると、これに怯えた韓馥を説得して冀州を譲り受けました。
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黒山賊の侵攻と於夫羅の反乱
曹操が東郡太守に任命される
7月、黒山賊の于毒、白繞、眭固らが兗州・東郡に侵攻を開始します。
東郡太守・王肱はこれを防ぐことができず、司隷・河内郡に駐屯していた曹操がこれを撃ち破りました。
この功により曹操は袁紹によって東郡太守に任命されました。
張楊が河内太守に任命される
7月、南匈奴の単于・於夫羅が反乱を計画し、同じく司隷・河内郡に駐屯していた袁紹と張楊に協力を求めます。
ですが、袁紹と張楊はこれを拒絶。
於夫羅が張楊を捕らえて連れ去ると、袁紹は麴義を派遣して於夫羅を撃ち破りました。
その後於夫羅は冀州・魏郡・黎陽県で勢力を盛り返し、張楊は董卓によって河内太守に任命されました。
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袁紹と袁術の争い
豫州をめぐる争い
冬、袁術が任命した豫州刺史・孫堅の留守中を狙って袁紹が周昂を豫州刺史に任命し、豫州・潁川郡・陽城県を占領させます。
孫堅と袁術は陽城県の奪還に成功しましたが、その際、袁術の下にいた公孫瓚の従弟の公孫越が討ち死にしてしまいました。
磐河の戦い
これに激怒した公孫瓚が磐河に出陣して冀州に侵攻を開始します。
袁紹は公孫瓚の従弟の公孫範に勃海太守の印綬を与えて和解を図ろうとしますが、公孫範は勃海郡の兵を率いて公孫瓚に味方しました。
この戦いの後、公孫瓚は配下の厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史に任命して、河北に絶大な影響力を持つようになりました。
また、その後劉備は公孫瓚によって平原県の県令の代行を命じられ、後に平原相(平原国の太守)に任命されました。
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孫堅の死と朱儁の挙兵
襄陽の戦い
公孫瓚が袁術と手を結ぶと、荊州刺史・劉表は袁紹と手を結びました。
すると、これに危機感を抱いた袁術は、孫堅に荊州・南郡・襄陽県の攻略を命じます。
怒濤の進撃を見せて襄陽県を包囲した孫堅ですが、黄祖の兵が放った矢を受けてあっさりと戦死してしまいました。
朱儁の挙兵
反董卓連合が崩壊し、袁紹と袁術が互いに争うようになると「董卓討伐」の大義が忘れ去られてしまいます。
この状況を憂えた河内尹の朱儁は自ら兵を挙げ、山東の諸将にもう一度「董卓討伐」を呼びかけました。
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益州の動乱
漢中郡で張魯が独立する
この年、朝廷からの独立をもくろんでいた益州牧・劉焉は、益州で信者を増やしている五斗米道の張魯・張脩と通じ、漢中太守・蘇固を殺害して長安に通じる斜谷の道を遮断させます。
これにより劉焉は「米賊が道をふさいでいる」という理由で朝廷との連絡を絶ちました。
劉焉が益州を掌握する
朝廷との連絡を絶った劉焉は益州土着の豪族の粛清に取りかかり、王咸、李権ら十数人に罪を着せて殺害します。
そして、これに反発して兵を挙げた犍為太守・任岐と校尉・賈龍を撃ち破った劉焉は、益州の支配を完全なものにしました。
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孫堅の活躍によって洛陽を奪還した反董卓連合ですが、兵糧不足に陥った諸将は、董卓討伐よりも自身の勢力拡大に重きを置くようになりました。
そんな中、反董卓連合の盟主である袁紹が、味方であるはずの韓馥から冀州をだまし取ってしまいます。
これを皮切りに、山東の諸将は袁紹陣営と袁術陣営に別れ、互いに争うようになりました。
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