190年【漢:初平元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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190年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
ー |
朝廷
官職 |
人物 |
相国 |
董卓 |
太傅 |
袁隗 → (劉虞) |
司徒 |
楊彪 → 王允 |
司空 |
荀爽 → 种拂 |
太尉 |
黄琬 → 趙謙 |
大司馬 |
劉虞(〜4月) |
光禄勲 |
趙謙(〜2月) |
太僕 |
王允 → 袁基 |
右車騎将軍 |
朱儁 |
後将軍 |
袁術 |
左将軍 |
皇甫嵩 |
奮武将軍 |
曹操 |
降虜校尉 |
公孫瓚 |
地方官
官職 |
人物 |
幽州牧 |
劉虞 |
冀州牧 |
韓馥 |
益州牧 |
劉焉 |
兗州刺史 |
劉岱 |
豫州刺史 |
孔伷 → 孫堅 |
青州刺史 |
焦和 |
徐州刺史 |
陶謙 |
荊州刺史 |
王叡 → 劉表 |
揚州刺史 |
陳温 |
交阯刺史 |
朱符 |
遼東太守 |
公孫度 |
河内太守 |
王匡 |
勃海太守 |
袁紹 |
東郡太守 |
橋瑁 → 王肱 |
山陽太守 |
袁遺 |
陳留太守 |
張邈 |
陳湣王 |
劉寵 |
潁川太守 |
李旻 |
広陵太守 |
張超 |
済北相 |
鮑信 |
南陽太守 |
張咨(〜3月) |
江夏太守 |
劉祥 |
長沙太守 |
孫堅 → 蘇代 |
九江太守 |
劉邈 |
丹楊太守 |
周昕 |
廬江太守 |
陸康 |
豫章太守 |
周術 |
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190年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 山東の州郡が反董卓連合を結成し、董卓討伐の兵を起こす。
- 天下に大赦する。
- 董卓が弘農王を殺害する。
- 白波賊が東郡に侵攻する。
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2月 |
- 太尉の黄琬と司徒の楊彪が罷免される。
- 董卓が城門校尉の伍瓊、督軍校尉の周毖を殺害する。
- 光禄勲の趙謙が太尉に、太僕の王允が司徒に任命される。
- 董卓が洛陽の宮殿、祖廟、民家をことごとく焼き払う。
- 長安に遷都し、董卓自身は洛陽郊外の畢圭苑に駐屯する。
- 白い虹が日輪を貫いた。
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3月 |
- 献帝が長安の未央宮に到着する。
- 董卓が太傅・袁隗、太僕・袁基を殺害し、その一族を処刑する。
- 長沙太守・孫堅が荊州刺史・王叡と南陽太守の張咨を殺害し、袁術と合流する。
- 北軍中候・劉表が荊州刺史に任命される。
- 劉表が南陽郡を除く荊州諸郡を平定し、州治所を武陵郡から南郡・襄陽県に移す。
- 曹操が徐栄に大敗する。(汴水の戦い)
- 曹操が揚州で募兵し、河内郡に向かう。
- 兵糧が尽きたため酸棗の諸侯が撤兵を開始する。
- 劉岱が橋瑁を殺害する。
- 劉岱が王肱を東郡太守に任命する。
- 青州で黄巾賊の勢いが強くなる。
- 青州刺史・焦和が反董卓連合を離脱する。
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4月 |
- 幽州牧・劉虞が太傅に任命されるが、詔は届かず。
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5月 |
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6月 |
- 光禄大夫の种拂が司空に任命される。
- 董卓が反董卓連合の諸侯への和睦の使者を派遣する。
- 董卓が五銖錢を改鋳し、小錢を鋳造する。
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冬 |
- 孫堅が魯陽県の東で宴会を開く。
- 河内太守・王匡が河陽津(孟津)で董卓に大敗する。
- 公孫度が遼東太守に任命される。
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190年の三国志群雄勢力図
190年1月
初平元年(190年)1月の三国志群雄勢力図
190年12月
初平元年(190年)12月の三国志群雄勢力図
190年の情勢
山東地方(反董卓連合)
1月、山東の州郡が反董卓連合を結成して、董卓討伐の兵を起こしました。
この年を群雄割拠の元年として、独立勢力だけでなく、漢(後漢)に従っている諸侯も群雄として扱います。
荊州
3月、長沙太守・孫堅が反董卓連合に参加するために北上し、その途上、荊州刺史・王叡と南陽太守・張咨を殺害。荊州・南陽郡・魯陽県の袁術と合流しました。
その後、王叡の後任として荊州刺史に任命された劉表が、南陽郡を除く荊州の諸郡を平定します。
司隷
冬、董卓が荊州・南陽郡・魯陽県の孫堅と司隷・河内郡の王匡を迎撃し、河陽津で王匡を打ち破りました。
特記事項
反董卓連合の結成
1月、山東の州郡が反董卓連合を結成し、董卓討伐の兵を起こします。
董卓は弘農王・劉辯が反董卓連合の錦の御旗となるのを恐れて、郎中令・李儒に命じて服毒自殺を強要しました。
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袁紹はなぜ盟主になれたのか?名門袁氏の影響力と反董卓連合の正体
長安に遷都する
2月、董卓が洛陽から長安へ都を遷すことを提案します。
また董卓は、遷都に反対した城門校尉・伍瓊と督軍校尉・周毖を、2人が推薦した人物の多くが反旗を翻したことを理由に処刑してしまいました。
董卓は、洛陽の富豪たちに罪を着せてその財産を没収。呂布に命じて歴代皇帝や公卿たちの墓を暴いてその副葬品の宝物を奪い、洛陽の宮殿、民家などをことごとく焼き払うと、自身は洛陽郊外の畢圭苑に駐屯します。
3月、献帝が長安に到着すると、反董卓連合の盟主となった袁紹への見せしめとして、太傅・袁隗、太僕・袁基と、幼児を含むその一族50人余りを処刑しました。
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孫堅の挙兵
3月、長沙太守・孫堅は董卓討伐の兵を挙げると、洛陽に向けて北上を開始します。
途中、孫堅は同じく董卓討伐を掲げていた荊州刺史・王叡と、自分への協力を断った南陽太守・張咨を殺害し、荊州・南陽郡・魯陽県の袁術と合流しました。
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劉表による荊州平定
孫堅が荊州刺史・王叡を自害に追い込んだため、荊州の諸郡は宗賊*1の勢いが増していました。
新たに荊州刺史に任命された劉表は、言葉巧みに宗賊*1の指導者を招くと、利益につられてやってきた55人の指導者を処刑し、彼らの軍勢を手中に収めました。
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劉表、荊州刺史に任命される。劉表の鮮やかな荊州平定戦
脚注
*1 江南(長江以南)の地方を荒らした一揆のこと。有力者を中心に結集して各地で反乱を起こした。
汴水の戦い
兗州・陳留郡・酸棗県に駐屯していた曹操が、司隷・河南尹・成皋県の要害攻略に向けて進軍を開始しました。
ですがその途中、汴水を渡ったところで董卓配下の徐栄の軍と遭遇し、大敗北を喫してしまいます。
そして、なんとか酸棗県に逃げ帰った曹操は次なる策を提案しますが、董卓を恐れた酸棗県の諸侯は動こうとせず、ついには兵糧が底を突いたことを理由に解散してしまいました。
その後曹操は、揚州で新たに兵を募って河内郡の袁紹と合流します。
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反董卓連合に和睦の使者を送る
6月、董卓が反董卓連合の諸侯への和睦の使者として、大鴻臚・韓融、少府・陰脩、執金吾の胡母班、将作大匠・呉修、越騎校尉の王纓を派遣します。
ですが、反董卓連合の盟主・袁紹はこれを許さず、河内太守・王匡に使者を殺害させました。
この使者の1人である胡母班は、王匡の娘婿でした。
また董卓は、これまで流通していた貨幣である五銖銭をつぶし、洛陽と長安の銅像類を溶かして、従来の五銖銭よりも薄く小さく、刻印も輪郭もなく、磨かれてもいない粗悪な貨幣を鋳造します。
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河陽津の戦い
冬、董卓は荊州・南陽郡・魯陽県に駐屯する孫堅に兵を向け、また、河陽津(孟津)に軍を進めた河内太守・王匡を迎撃して打ち破ります。
董卓に敗北した王匡は、故郷の兗州・泰山郡に逃げ帰り、新たに募兵して陳留太守・張邈との合流を図りますが、以前王匡が殺害した胡母班の親族と共謀した曹操によって殺害されてしまいました。
※王匡が殺害された時期は不明ですが、王匡が任地を離れているため「190年12月の群雄勢力図」では、河内郡を曹操の支配地域として扱っています。またこの時、河内郡には袁紹も駐屯していました。
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董卓軍を退けた孫堅の胆力と河内太守・王匡が敗北した河陽津の戦い
この年、董卓に反発する山東の諸侯が反董卓連合を結成。
これに董卓は、洛陽から長安に都を遷して守りを固め、2度に渡る反董卓連合の攻撃を退けました。
そして、兵糧が尽きた酸棗県の諸侯は解散し、早くも反董卓連合の結束にほころびが見え始めます。
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