192年【漢:初平しょへい3年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

スポンサーリンク

192年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后

朝廷

官職 人物
太師たいし 董卓とうたく(〜4月)
太傅たいふ 劉虞りゅうぐ)→ 馬日磾ばびつてい
太尉たいい 馬日磾ばびつてい皇甫嵩こうほすう周忠しゅうちゅう
司徒しと 王允おういん趙謙ちょうけん → 淳于嘉じゅんうか
司空しくう 淳于嘉じゅんうか楊彪ようひょう
太僕たいぼく 趙岐ちょうき朱儁しゅしゅん
光禄大夫こうろくたいふ 楊彪ようひょう周忠しゅうちゅう(〜12月)
車騎将軍しゃきしょうぐん 皇甫嵩こうほすう → 李傕りかく
右車騎将軍ゆうしゃきしょうぐん 朱儁しゅしゅん
前将軍ぜんしょうぐん 趙謙ちょうけん
後将軍こうしょうぐん 袁術えんじゅつ郭汜かくし
右将軍ゆうしょうぐん 樊稠はんちゅう
征西将軍せいせいしょうぐん 皇甫嵩こうほすう馬騰ばとう
鎮東将軍ちんとうしょうぐん 張済ちょうせい
鎮西将軍ちんぜいしょうぐん 韓遂かんすい
奮武将軍ふんぶしょうぐん 曹操そうそう公孫瓚こうそんさん
奮威将軍ふんいしょうぐん 呂布りょふ
降虜校尉こうりょこうい 公孫瓚こうそんさん(〜9月)

地方官

官職 人物
司隷校尉しれいこうい 黄琬こうえん(〜6月)
幽州牧ゆうしゅうぼく 劉虞りゅうぐ
冀州牧きしゅうぼく 袁紹えんしょう
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉焉りゅうえん
冀州刺史きしゅうしし 厳綱げんこう
兗州刺史えんしゅうしし 単経ぜんけい劉岱りゅうたい(〜4月)
豫州刺史よしゅうしし 郭貢かくこう
徐州刺史じょしゅうしし 陶謙とうけん
青州刺史せいしゅうしし 田楷でんかい
荊州刺史けいしゅうしし 劉表りゅうひょう(〜10月)
揚州刺史ようしゅうしし 陳温ちんおん袁遺えんい陳瑀ちんう
交阯刺史こうししし 朱符しゅふ
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫度こうそんたく
山陽太守さんようたいしゅ 袁遺えんい(〜冬)
陳留太守ちんりゅうたいしゅ 張邈ちょうばく
陳湣王ちんびんおう 劉寵りゅうちょう
広陵太守こうりょうたいしゅ 張超ちょうちょう
済北相せいほくしょう 鮑信ほうしん
九江太守きゅうこうたいしゅ 劉邈りゅうばく
丹楊太守たんようたいしゅ 周昕しゅうきん
廬江太守ろこうたいしゅ 陸康りくこう
豫章太守よしょうたいしゅ 周術しゅうじゅつ

スポンサーリンク


192年の主な出来事

出来事
1月
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 董卓とうたく配下の牛輔ぎゅうほ朱儁しゅしゅんを破る。
  • 袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさん界橋かいきょうで戦い公孫瓚こうそんさんが大敗する。(界橋かいきょうの戦い)
不明
  • 曹操そうそう黒山賊こくざんぞくに大勝する。
4月
  • 董卓とうたく呂布りょふに殺害され、三族皆殺しとなる。
  • 王允おういん録尚書事ろくしょうしょじが加えられる。
  • 張种ちょうちゅうを派遣して山東さんとう慰撫いぶする。
  • 呂布りょふ温侯おんこう奮威将軍ふんいしょうぐんに封じられ、三公さんこうと同等の権力を得る。(儀比三司ぎひさんし
  • 蔡邕さいよう王允おういんに断罪され、獄死する。
  • 青州せいしゅうの黄巾賊100万が兗州えんしゅうに侵攻する。
  • 兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたいが敗死する。
  • 曹操そうそう兗州刺史えんしゅうししに迎えられる。
5月
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 皇甫嵩こうほすう車騎将軍しゃきしょうぐんに任命される。
  • 董卓とうたく配下の李傕りかく郭汜かくし樊稠はん ちゅうらが長安ちょうあんを攻める。
  • 呂布りょふが敗北し、袁術えんじゅつを頼る。
6月
  • 長安ちょうあんが陥落する。
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 李傕りかく司隸校尉しれいこうい黄琬こうえんを殺害する。
  • 王允おういんとその宗族が皆殺しとなる。
  • 呂布りょふ河内太守かだいたいしゅ張楊ちょうようを頼る。
  • 呂布りょふ袁紹えんしょうを頼る。
  • 前将軍ぜんしょうぐん趙謙ちょうけん司徒しとに任命される。
7月
  • 太尉たいい馬日磾ばびつてい太傅たいふ録尚書事ろくしょうしょじに任命される。
8月
  • 太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうきが天下の慰撫いぶを命じられる。
  • 車騎将軍しゃきしょうぐん皇甫嵩こうほすう太尉たいいに任命される。
  • 司徒しと趙謙ちょうけん罷免ひめんされる。
9月
  • 李傕りかく車騎将軍しゃきしょうぐん司隸校尉しれいこういとなる。
  • 郭汜かくし後将軍こうしょうぐんに、樊稠はんちゅう右将軍ゆうしょうぐんに、張済ちょうせい鎮東将軍ちんとうしょうぐんに任命される。
  • 張済ちょうせい弘農郡こうのうぐんに駐屯する。
  • 司空しくう淳于嘉じゅんうか司徒しとに任命される。
  • 光禄大夫こうろくたいふ楊彪ようひょう司空しくう録尚書事ろくしょうしょじに任命される。
  • 韓遂かんすい鎮西将軍ちんぜいしょうぐんに任命される。
  • 馬騰ばとう征西将軍せいせいしょうぐんに任命される。
  • 馬騰ばとう司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに駐屯する。
10月
  • 荊州刺史けいしゅうしし劉表りゅうひょう鎮南将軍ちんなんしょうぐん荊州牧けいしゅうぼくに任命され、成武侯せいぶこうに封じられる。
不明
  • 陶謙とうけんらが朱儁しゅしゅんに挙兵を要請する。
  • 朱儁しゅしゅんが朝廷に入り、太僕たいぼくに任命される。
  • 曹操そうそうが黄巾賊を撃ち破る。
  • 曹操そうそう青州せいしゅう黄巾を降伏させ、青州兵せいしゅうへいと名付ける。
  • 揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおんが病死する。
  • 袁紹えんしょう袁遺えんい揚州刺史ようしゅうししに任命する。
  • 袁術えんじゅつ公孫瓚こうそんさんに救援を要請する。
  • 公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょうに圧力をかける。
  • 袁紹えんしょう曹操そうそう公孫瓚こうそんさんを撃ち破る。(龍湊りゅうそうの戦い)
  • 袁術えんじゅつ袁遺えんいを攻め、敗走した袁遺えんいが兵士に殺される。
  • 袁術えんじゅつ陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししに任命する。
12月
  • 太尉たいい皇甫嵩こうほすう罷免ひめんされる。
  • 光禄大夫こうろくたいふ周忠しゅうちゅう太尉たいい録尚書事ろくしょうしょじに任命される。

スポンサーリンク


192年の三国志群雄勢力図

192年1月

初平3年(192年)1月の三国志群雄勢力図

初平3年(192年)1月の凡例

初平しょへい3年(192年)1月の三国志群雄勢力図

牛輔ぎゅうほ朱儁しゅしゅんを破る

董卓とうたく牛輔ぎゅうほ李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいを派遣して、司隷しれい河内尹かなんいん中牟県ちゅうぼうけんで挙兵した朱儁しゅしゅんを撃ち破ります。

その後、李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいらは、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん豫州よしゅう潁川郡えいせんぐんの諸県に侵出して略奪を行いました。


陝県と中牟県

関連記事

【袁紹 vs 公孫瓚】界橋の戦い。白馬義従を破った麹義の底力

界橋かいきょうの戦い

青州せいしゅう黄巾30万を敗走させた公孫瓚こうそんさんは、冀州きしゅうへの2度目の侵攻を開始します。

これを界橋かいきょうで迎え撃った袁紹えんしょうは、公孫瓚こうそんさん白馬義従はくばぎじゅうを撃ち破り、配下の崔巨業さいきょぎょうに数万の兵を与えて公孫瓚こうそんさんを追撃させ、幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんを包囲させました。


界橋の地図

界橋かいきょう

関連記事

【袁紹 vs 公孫瓚】界橋の戦い。白馬義従を破った麹義の底力

黒山賊こくざんぞくの侵攻

前年から冀州きしゅう魏郡ぎぐんに侵出していた黒山賊こくざんぞく于毒うどくらが、再び兗州えんしゅう東郡とうぐんに侵攻。政庁である東武陽県とうぶようけんに攻撃をしかけます。

頓丘県とんきゅうけんに駐屯していた東郡太守とうぐんたいしゅ曹操そうそうは、東武陽県とうぶようけんの救援よりも、敵の本拠地の攻撃を優先させて東武陽県とうぶようけんの包囲を解き、于毒うどくらと南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふらを撃ち破りました。


黒山賊・於夫羅討伐戦の周辺地図

黒山賊こくざんぞく於夫羅おふら討伐戦の周辺地図

関連記事

曹操が黒山賊を討って東郡太守となる。黒山賊と於夫羅の反乱

巨馬水きょばすいの戦い

一方崔巨業さいきょぎょうは、包囲していた幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんを落とすことができず、包囲をいて南に撤退します。

そして、崔巨業さいきょぎょうの軍勢が巨馬水きょばすいに差しかかった時、公孫瓚こうそんさんの歩騎3万の軍勢が襲いかかり、崔巨業さいきょぎょうは散々に撃ち破られて、その死者は7〜8千人にのぼりました。

公孫瓚こうそんさんは勝利に乗じてそのまま南進を続け、冀州きしゅう平原国へいげんこくまで到達して青州刺史せいしゅうしし田揩でんかい青州せいしゅう斉国せいこくを占拠させます。


巨馬水の戦い

巨馬水きょばすいの戦い


界橋かいきょうの戦い」で敗れた公孫瓚こうそんさんが、この時一気に青州せいしゅう平原国へいげんこくまで侵出することができたのは、おそらく黒山賊こくざんぞく于毒うどくらの兗州えんしゅう侵攻に際し、袁紹えんしょう冀州きしゅう魏郡ぎぐんの奪回に兵を向けていたため、背後の公孫瓚こうそんさんに対応できなかったからだと思われます。

関連記事

【袁紹 vs 公孫瓚】界橋の戦い。白馬義従を破った麹義の底力

4月

董卓とうたく誅殺ちゅうさつされる

司徒しと王允おういんが、僕射ぼくや士孫瑞しそんずい尚書しょうしょ楊瓚ようさんと共謀し、呂布りょふを抱き込んで董卓とうたく誅殺ちゅうさつしました。

関連記事

貂蝉のモデルは董卓の侍女だった!?正史『三国志』での董卓の最期


その後、録尚書事ろくしょうしょじを加えられた司徒しと王允おういんは、山東さんとう(反董卓とうたく連合)に張种ちょうちゅうを派遣して人心の安定をはかります。

そして、董卓とうたくを直接殺害した呂布りょふ奮威将軍ふんいしょうぐんに任命してせつを与え、三公さんこうと同じ儀礼を許し、温侯おんこうに封じて共に朝政を取り仕切りました。

関連記事

王允・呂布政権の誕生と蔡邕の死

青州せいしゅう黄巾の兗州えんしゅう侵攻

青州せいしゅう黄巾こうきん・百万が兗州えんしゅうに侵攻し、任城相にんじょうしょう兗州えんしゅう任城国にんじょうこく太守たいしゅ)・鄭遂ていすいを殺害しました。

そして、これを討伐に出た兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたいが討たれると、東郡太守とうぐんたいしゅ曹操そうそう兗州牧えんしゅうぼくに迎えられます。

曹操そうそうは敵を捕らえるたびに降伏のみちを示し、ついには青州せいしゅう黄巾こうきんの兵30余万人と、男女合わせて百余万人の民衆を受け入れ、降兵の精鋭を「青州兵せいしゅうへい」と名付けました。

曹操そうそう青州兵せいしゅうへいを手に入れるのは、この年の冬のことになります)

関連記事

青州黄巾の兗州侵攻。兗州牧となった曹操と青州兵

6月

初平3年(192年)6月の三国志群雄勢力図

初平3年(192年)6月の凡例

初平しょへい3年(192年)6月の三国志群雄勢力図

長安ちょうあんの陥落と王允おういんの死

王允おういんが元董卓とうたくの配下を赦免しゃめんしようとしないため、賈詡かくの進言により、李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいらは長安ちょうあんを包囲。呂布りょふを敗走させ、長安ちょうあんを陥落させます。

呂布りょふと共に逃走することを拒否した王允おういんは、宗族皆殺しとなりました。

関連記事

王允・呂布政権の迷走と李傕・郭汜の逆襲

8月〜10月

天下を慰撫いぶする

8月、朝廷の実権を握った李傕りかくらは、太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうきせつ(軍令違反者を処刑する権限を持つあかし)を持たせて天下を慰撫いぶさせました。

みずか将軍しょうぐんに就任する

9月、李傕りかくみずか車騎将軍しゃきしょうぐん池陽侯ちようこうとなり、せつを与えられ、

  • 郭汜かくし後将軍こうしょうぐん美陽侯びようこう
  • 樊稠はんちゅう右将軍ゆうしょうぐん万年侯まんねんこう
  • 張済ちょうせい鎮東将軍ちんとうしょうぐん平陽侯へいようこう

に任命します。そして張済ちょうせいは、長安ちょうあんを出て司隷しれい弘農郡こうのうぐんに駐屯しました。

韓遂かんすい馬騰ばとうが降伏する

この頃、涼州りょうしゅう韓遂かんすい馬騰ばとうが軍勢をひきいて長安ちょうあんおもむき、降伏を申し出ます。

李傕りかくらは、韓遂かんすい鎮西将軍ちんぜいしょうぐんに任命して涼州りょうしゅうに帰らせ、馬騰ばとう征西将軍せいせいしょうぐんに任命して司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに駐屯させました。

劉表りゅうひょう荊州牧けいしゅうぼくに任命される

10月、李傕りかく郭汜かくしらは劉表りゅうひょう荊州牧けいしゅうぼくに任命し、鎮南将軍ちんなんしょうぐんを加えて成武侯せいぶこうに封じ、せつ(軍令違反者を処刑する権限を持つあかし)を与えました。

陶謙とうけん朱儁しゅしゅんを推戴する

徐州刺史じょしゅうしし陶謙とうけんが、前揚州刺史ようしゅうしし周乾しゅうけんらと連盟で、朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいし「州郡と共に李傕りかくらを討伐とうばつして天子てんしを迎える」ための檄文を飛ばしました。

ですが、朱儁しゅしゅん李傕りかくらに帰順して朝廷に入ったことにより、この陶謙とうけんらの動きは頓挫とんざしてしまいます。

関連記事

李傕・郭汜政権の誕生と周辺の群雄の反応

12月

初平3年(192年)12月の三国志群雄勢力図

初平3年(192年)12月の凡例

初平しょへい3年(192年)12月の三国志群雄勢力図

揚州刺史ようしゅうししめぐる争い

揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおん陳禕ちんい)が病死したことにより、揚州刺史ようしゅうししが空席となりました。この揚州刺史ようしゅうししの席をめぐって、袁紹えんしょう袁術えんじゅつの間に争いが起こります。

まず、袁紹えんしょうは従兄の袁遺えんいを、袁術えんじゅつ鄭泰ていたい揚州刺史ようしゅうししとして派遣しますが、袁術えんじゅつが派遣した鄭泰ていたいは、任地に到着する前に病死してしまいました。


すると、どうしても揚州ようしゅうを手に入れたい袁術えんじゅつは、公孫瓚こうそんさんに救援を要請します。

龍湊りゅうそうの戦い

袁術えんじゅつはから救援要請を受けた公孫瓚こうそんさんは、

  • 劉備りゅうびを(青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけん
  • 単経ぜんけいを(青州せいしゅう平原国へいげんこく平原国へいげんこく
  • 陶謙とうけんを(兗州えんしゅう東郡とうぐん発干県はっかんけん

に駐屯させて、袁紹えんしょうを圧迫します。


公孫瓚(こうそんさん)陣営の布陣

公孫瓚こうそんさん陣営の布陣


袁紹えんしょう曹操そうそうと協力してこれらの軍をすべて撃ち破ると、公孫瓚こうそんさん幽州ゆうしゅうに撤退し、以降、あえてまた南下しようとはしませんでした。


そしてこの間に袁術えんじゅつは、袁紹えんしょうが任命した揚州刺史ようしゅうしし袁遺えんいを攻撃して敗走させ、徐州じょしゅう下邳国かひこく淮浦県わいほけんの人、陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししに任命しました。


中央では董卓とうたく王允おういんらによって誅殺ちゅうさつされ、その後長安ちょうあんを奪取した李傕りかく郭汜かくしらが政権を握りました。

関東では「袁紹えんしょう曹操そうそう」と「袁術えんじゅつ公孫瓚こうそんさん陶謙とうけん」らが争い、公孫瓚こうそんさん幽州ゆうしゅうに撤退。袁紹えんしょう冀州きしゅうを、曹操そうそう兗州えんしゅう青州兵せいしゅうへいを手に入れ、袁術えんじゅつ揚州ようしゅうに影響力を強めるようになりました。

他の年を見る場合はこちら

三国志年表