袁紹えんしょう冀州きしゅうを手に入れると、曹操そうそうって立つ地盤を手に入れたいと思うようになりました。

そんな時、兗州えんしゅう東郡とうぐんに黒山賊が侵攻を開始します。

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曹操、東郡太守となる

曹操

画像引用元:『三国志 Three Kingdoms』第27話

曹操の野望

袁紹えんしょう冀州きしゅうを手に入れたことを知った鮑信ほうしんが、曹操そうそうに言いました。


袁紹えんしょうは反董卓とうたく連合の盟主でありながら利益を独占し、みずから動乱を引き起こしています。これはもう1人の董卓とうたくと言えるでしょう。

今のままでは我々に彼をおさえることはできません。まずは黄河こうがの南に地盤をつくり、力をつけることが肝要かんようです」


曹操そうそう鮑信ほうしんの言葉にうなずいて、自分も根拠地を持ちたいと思うようになりました。

黒山賊の侵攻

ちょうどその頃、黒山賊こくざんぞく于毒うどく白繞はくじょう眭固すいこらが10余万人をひきいて冀州きしゅう魏郡ぎぐんを攻略し、さらに兗州えんしゅう東郡とうぐんに侵攻してきます。

ですが、迎撃に出た東郡太守とうぐんたいしゅ王肱おうこうはこれを防ぐことができず、敗北を重ねていました。


これを見た曹操そうそうは駐屯していた司隷しれい河内郡かだいぐんから兵をひきいて東郡とうぐんに入り、濮陽県ぼくようけん白繞はくじょう軍を撃ち破ります。

この功により曹操そうそう袁紹えんしょうによって東郡太守とうぐんたいしゅに任命され、東武陽県とうぶようけんに政庁を置きました。

豆知識

実は曹操そうそうは、以前にも東郡太守とうぐんたいしゅに任命されたことがあります。


黄巾の乱の討伐で活躍した曹操そうそうは、青州せいしゅう済南国せいなんこくしょう太守たいしゅ)に任命されました。

この時曹操そうそうは、不正を働く役人や商人たちを厳しく取り締まり、民衆の負担となっていた祭祀さいしを禁じて、ほこらをすべて破壊する大改革を行います。


ですがこの改革は、不正を働いていた者から賄賂わいろを受け取っていた朝廷の宦官たちにとってはおもしろくありません。

しばらくして曹操そうそうは、厄介払いのために東郡太守とうぐんたいしゅに任命されますが、これ以上宦官たちに目をつけられることを嫌って病気を理由に任官を断り、郷里の譙県しょうけんに帰ってしまいました。

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於夫羅が反乱を起こす

於夫羅の反乱

この頃、袁紹えんしょうのもとで張楊ちょうようとともに反董卓とうたく連合に加わっていた南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふらが反乱を起こします。


魏書ぎしょ張楊伝ちょうようでんによると、


於夫羅おふらは反逆をはかったが、袁紹えんしょう張楊ちょうようは同調しなかった。

於夫羅おふら張楊ちょうようを捕らえて人質として連れ去ったため、袁紹えんしょうは大将の麴義きくぎを派遣して冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんの南で撃ち破った。

於夫羅おふら張楊ちょうようを捕らえたまま黎陽県れいようけんに向かうと、度遼将軍とりょうしょうぐん耿祉こうしを撃ち破って勢力を盛り返した。

董卓とうたく張楊ちょうよう建義将軍けんぎしょうぐん河内太守かだいたいしゅに任命した。



とあります。


鄴県と黎陽県

鄴県ぎょうけん黎陽県れいようけん

於夫羅は誰に反逆したのか

南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふらは、袁紹えんしょう張楊ちょうようを誘って反乱をくわだてます。では、於夫羅おふらは誰に対して反乱をくわだてたのでしょうか?


まず、袁紹えんしょうを誘っていることから、袁紹えんしょうに対する反乱ではありません。

また、「反董卓とうたく・反献帝けんてい」の立場である袁紹えんしょうが同調していないことから、董卓とうたく献帝けんていに対する反乱でもないでしょう。そもそも反董卓とうたく連合に属している時点ですでに董卓とうたく献帝けんていそむいています。

南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふら

於夫羅おふらの先代の単于ぜんう羌渠きょうきょは、後漢ごかんに協力して「黄巾の乱」や「張純ちょうじゅんの乱」に兵を派遣してきました。

188年、羌渠きょうきょのこの方針に不満を持つ南匈奴みなみきょうどの部族長たちが反乱を起こし、羌渠きょうきょを殺害します。

単于ぜんうの位は子の於夫羅おふらが跡を継ぎましたが、南匈奴みなみきょうどの部族長たちはこれを認めず、須卜骨都侯しゅうほくこつとこう単于ぜんう擁立ようりつしました。

その後、後漢ごかんの助けを得ようと洛陽らくように来た於夫羅おふらですが、ちょうど霊帝れいてい崩御の混乱にあったため目的を果たすことができず、河東郡かとうぐんとどまっていました。


於夫羅おふら袁紹えんしょうのもとにせ参じるまでには、このような経緯がありました。


おそらく於夫羅おふらには、反董卓とうたく連合に協力して董卓とうたくを討った後、改めて献帝けんていに助けを求めようという目算があったものと思われます。

ですが、反董卓とうたく連合は空中分解をはじめ、諸侯がそれぞれ独立の動きを見せ始めます。

そこで於夫羅おふらは、自分も幷州へいしゅうを手に入れたいと思い、袁紹えんしょう張楊ちょうように協力を求めたのではないでしょうか。

ですが、韓馥かんふくから冀州きしゅうを奪った袁紹えんしょうはすでに青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅうの3しゅうを併合する野心をいだいており、於夫羅おふら幷州へいしゅうを渡す気など毛頭もうとうありません。

そのため袁紹えんしょうは、於夫羅おふらを反逆者として攻撃したのだと思われます。

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張楊が河内太守に任命される

於夫羅おふら度遼将軍とりょうしょうぐん耿祉こうしを撃ち破り、黎陽県れいようけんで勢力を盛り返すと、(開放された?)張楊ちょうよう董卓とうたくによって建義将軍けんぎしょうぐん河内太守かだいたいしゅに任命されました。

ですが、これまで反董卓とうたく連合の袁紹えんしょうに従い、袁紹えんしょう側の人質にされていた張楊ちょうようが、ここに来ていきなり董卓とうたくから太守たいしゅに任命されるのはいささか奇妙なことに思えます。

張楊ちょうようの思い

張楊ちょうようはこの後、長安ちょうあんを脱出した献帝けんていのもとにせ参じ、食料を用意して出迎えました。

このように熱烈に献帝けんていを支持していた張楊ちょうようが、袁紹えんしょう献帝けんていを認めず、冀州きしゅうを奪い独立勢力をきずこうとする姿勢に反感を持っていたとしても不思議ではありません。

そんな時、董卓とうたくに誘いを受けた張楊ちょうようが朝廷に帰順したのだと考えると納得がいきます。

黒山賊の2度目の侵攻

192年、曹操そうそうが(於夫羅おふら討伐のために)兗州えんしゅう東郡とうぐん頓丘県とんきゅうけんに陣を移すと、そのすきをついて黒山賊こくざんぞく于毒うどくらが、曹操そうそうの本拠地である東武陽県とうぶようけんを攻撃しました。

この報告がもたらされると、将校たちは口々に東武陽県とうぶようけんに救援に向かうべきだと主張します。

ですが曹操そうそうは彼らの意見を退けて軍勢を西に進め、黒山賊こくざんぞくの本拠地を攻撃し、続いて冀州きしゅう魏郡ぎぐん内黄県ないこうけん於夫羅おふらと戦って大勝しました。

この時、于毒うどくらは本拠地の防衛のために兵を引いたので、東武陽県とうぶようけんは陥落せずに済みました。


黒山賊・於夫羅討伐戦の周辺地図

黒山賊こくざんぞく於夫羅おふら討伐戦の周辺地図

黒山賊こくざんぞくの本拠地がどこなのかは明記されていません。


袁紹えんしょう冀州きしゅうを手に入れると、その勢力増大を危険視した曹操そうそうは「自分も地盤を持ちたい」と思うようになりました。

そんな折、兗州えんしゅう東郡とうぐん黒山賊こくざんぞくが侵攻。東郡太守とうぐんたいしゅ王肱おうこうを助けて黒山賊こくざんぞくを敗走させた曹操そうそう袁紹えんしょうによって東郡太守とうぐんたいしゅに任命され、念願の地盤を手に入れます。


一方、反董卓とうたく連合の一員であった張楊ちょうようは、董卓とうたくによって河内太守かだいたいしゅに任命されました。

董卓とうたく連合の結成当初河内太守かだいたいしゅだった王匡おうきょうは、この頃までに曹操そうそうに殺害されていたものと思われます。

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