188年に鎮圧された益州の黄巾賊の反乱「馬相の乱」と、自ら提案した州牧として益州に入った劉焉の野望、漢中に独立勢力を築いた五斗米道について考えてみます。
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後漢末期の益州事情
2つの五斗米道
後漢末期、熹平年間から光和年間(172年〜184年)にかけて、張角の「太平道」をはじめ、各地で新興宗教が乱立しました。
そしてこの頃、益州には2つの「五斗米道」が存在していたと言われています。
張陵の「五斗米道」
張陵は沛国の生まれで元は太学生でしたが、125年頃から仙道を学び始めて長生の術を習得し、益州の鶴鳴山に移り住んで道書24篇を著しました。
その後142年、鶴鳴山で太上老君のお告げを受けたとし、黄老道を奉じた天師道を創始して布教を開始します。
後漢末期の益州には、古くから呪術を中心とする巫鬼道の信仰が根付いていましたが、この布教によって次第に巫鬼道は廃れ、人々は天師道を信奉するようになっていきました。
張脩の「五斗米道」
157年に張陵が亡くなると、子の張衡が教団を引き継ぎましたが、179年にはその張衡も亡くなってしまいます。
すると巫鬼道が再び盛んになって、巴郡の人・張脩が、巫鬼道に天師道の制度を取り入れた新しい教えの布教を始め、漢中・巴郡に信者を増やしていきました。
そして、184年に太平道の張角による黄巾の乱が起こると、張脩はこれに呼応して巴郡で蜂起します。この張脩の軍は「五斗米師」と呼ばれました。
張脩は郡県を攻め落としますが、後に益州牧として赴任してきた劉焉に帰順することになります。
張陵が興した天師道と張脩が興した巫鬼道は、それぞれ別の教団になりますが、共に信者に5斗の米を供出させていたことから、朝廷からはどちらも「五斗米道」と呼ばれていたということになります。
馬相の乱
馬相の乱とは、自ら「黄巾」を称した馬相が益州で起こした反乱のことで、
『典略』には、益州で蜂起した黄巾・馬相が益州刺史・郤倹を殺して天子を僭称したこと、巴郡に侵攻して巴郡太守・趙部を殺したが、益州従事・賈龍に鎮圧されたことが記されています。
『典略』では188年の出来事とされていますが、『華陽国志』に詳しく記されています。
184年、黄巾を名乗る馬相と趙祗らは綿竹県で人を集めて反乱を起こし、綿竹県令の李升を殺害。続いて雒県を陥落させ、益州刺史・郤倹を殺しました。
略奪は広漢郡、蜀郡、犍為郡の3郡におよび、反乱軍が10万人を超えると、馬相は自ら天子を名乗るようになります。
一方、益州従事の賈龍は数百の兵を率いて犍為郡の東まで来ると、さらに兵を募って千余りとし、馬相らに戦いを挑んで数日で敗退させました。
益州地図
このことから、「馬相の乱」は184年に蜂起し、188年に賈龍によって鎮圧されたことが分かります。
また、『典略』にある巴郡侵攻は、184年に張脩が起こした反乱と同一視されたものと考えることができます。
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劉焉の入蜀
州牧の設置
184年に起こった「黄巾の乱」の後、益州の「馬相の乱」の他にも、涼州では辺章と韓遂が、幽州では張純が反乱を起こすなど、後漢の支配体制は不安定なものとなっていました。
188年、劉焉は後漢の支配体制を強化するため、これまで監察権しかなかった州刺史の代わりに、軍権や統治権を持った州牧の設置を霊帝に提案します。
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劉焉の入蜀
当初劉焉は、中央の混乱を避けるために洛陽から遠く離れた交州牧に任命されることを望んでいましたが、侍中の董扶が「益州には天子の気がある」ことを告げたので、益州牧を希望するようになりました。
そして丁度この頃、益州では益州刺史・郤倹が重税を取り立てて民を苦しめているという噂が洛陽に届きます。
こうして劉焉は、郤倹を取り調べるという名目で、希望通り益州に赴任することになりました。
その際、劉焉は監軍使者と益州牧を兼任し、陽城侯に封ぜられています。
ですが劉焉が益州に向かったその時、当の郤倹は馬相によって殺されており、また馬相の反乱は賈龍によって鎮圧された後でした。
劉焉は反乱を鎮圧した賈龍に迎えられると、綿竹県を拠点として敵対者を手懐け、益州の安定に着手します。
劉焉に益州牧を希望するように勧めた董扶は、益州・広漢郡・綿竹県の出身でした。
董扶は益州の反乱の状況を詳しく把握しており、馬相らを討伐することによって、たやすく民心を得ることができると分かっていたのかもしれません。もちろん董扶も劉焉に同行して益州に入りました。
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劉焉の野望
東州兵の創設
劉焉が、益州牧に着任した翌年(189年)、霊帝が亡くなると、皇位継承の混乱に乗じて洛陽に入った董卓によって、朝廷は混乱を極めるようになります。
そしてこの混乱は、南陽郡や三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)の民数万戸が、戦乱を避けるために益州に流入する結果となりました。
劉焉は彼らを積極的に迎え入れると、軍に編成して「東州兵」と名づけ、自軍の中核を担わせたのです。
中央との遮断
張魯の母との関係
『蜀書』劉焉伝には、張魯の母、つまり、天師道を創始した張陵の子・張衡の妻が、劉焉の屋敷を頻繁に訪れていたことが記されています。
張陵の跡を継いだ張衡が亡くなると、天師道は没落してしまいました。
張魯の母は、家の再興、子の張魯の栄達のため、新たな権力者である劉焉に取り入ったのです。
また、張魯の母は鬼道を行っていつまでも若い容貌を保っていたとあり、長生術の1つとされていた房中術(性技)を駆使して劉焉を誘惑していたのかもしれません。
漢中への侵攻
その後、劉焉は張魯を督義司馬、張脩を別部司馬に任命して漢中に侵攻させます。
漢中太守・蘇固は城を捨てて主簿・趙嵩の元に身を寄せますが、追ってきた張脩の手勢によって殺されてしまいました。
趙嵩や蘇固の食客だった陳調は反撃を試み、張脩をあと一歩のところまで追いつめますが、2人とも戦死して漢中は張魯・張脩の手に落ちてしまいます。
そして劉焉は、張魯に中央に通じる斜谷と閣道に架けられた橋を切って道を遮断させると、朝廷には「米賊(五斗米道)のために連絡が取れなくなった」として、以後独自の行動を取るようになりました。
劉焉は、子の栄達のために近づいてきた張魯の母を逆に利用して、中央との連絡を遮断することに成功したのです。
五斗米道の教祖・張魯の誕生
張魯は裏では劉焉と通じながら、表向きは独立勢力として漢中を治めることになりました。
ですが、ここで1つ問題が浮上します。
もともと漢中は張脩が創始した「五斗米道」の勢力下であり、部下である張脩が教祖として崇められるのは、張魯にとって面白くありません。
張魯は張脩を殺害すると、張脩の「五斗米道」と祖父・張陵の「天師道」の教義を融合させた新しい教団を設立し、やはり「天師道」と称しました。
つまり、張魯の「五斗米道」という名前は通称であると言えます。
さらに、張魯は張脩の存在を排除するため、祖父・張陵を「天師」、父・張衡を「嗣師」、自らを「師君」と名乗り、旧五斗米道の信者を取り込んで、漢中に道教王国を打ち立てました。
また、当時の朝廷には張魯を討伐する力はなく、張魯を鎮夷中郎将、漢寧太守に任命して懐柔せざるを得ませんでした。
豆知識
張魯は漢中を手中に収めると、漢中郡の郡治である南鄭県を漢寧県と改名していました。
張魯が漢中太守ではなく漢寧太守に任命されたのは、この改名によるものでしょう。後に張魯が曹操に降伏すると、漢寧県の県名はまた南鄭県に戻されました。
張魯が漢中に地盤を築いた後も、張魯の母と弟は人質として劉焉の元に留め置かれています。
そして劉焉の死後、跡を継いだ劉璋に張魯が従わなかったため、張魯の母と弟は劉璋によって処刑されてしまいました。
益州の支配強化
張魯を漢中に割拠させて中央との連絡を遮断した劉焉は、支配体制を強化するため、益州土着の有力豪族の粛清に取りかかり、王咸、李権ら十数人に罪を着せて殺害しました。
かつて劉焉の益州入りを出迎えた賈龍もこれには堪りかね、191年、犍為太守の任岐らと共に挙兵して劉焉に反旗を翻しますが、逆に鎮圧されて2人とも殺されてしまいます。
反対勢力を押さえ込み、支配体制を盤石にした劉焉は、千乗の豪華な馬車をつくってその威勢を示しました。(乗は馬車の単位)
また、このことを知った荊州牧の劉表が、「劉焉は天子のまねごとをしている」と、劉焉の野心を朝廷に上奏していたことが『蜀書』劉焉伝に記されています。
劉焉はこの数年後、194年に背中に悪性腫瘍を患って亡くなってしまいます。
『三国志演義』では幽州太守として登場し、義勇軍を結成した劉備たちを優しく見守る劉焉ですが、実際は相当な策士であり、野心家でもあったことが窺えます。
劉焉がもう少し長く生きていたら、その後の歴史の展開は大きく変わっていたかもしれませんね。