名だたる諸侯がいる中で、1郡の太守でしかない袁紹が盟主になれた理由と、反董卓連合の正体について考えてみます。
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目次
『三国志演義』と正史『三国志』の違い
『三国志演義』
『三国志演義』では、曹操が送った董卓討伐の檄文に応じる形で反董卓連合が形成されました。
『三国志演義』で董卓討伐のために挙兵した諸侯は次の通りです。
- 第一鎮 後将軍・南陽太守・袁術
- 第二鎮 冀州刺史・韓馥
- 第三鎮 豫州刺史・孔伷
- 第四鎮 兗州刺史・劉岱
- 第五鎮 河内太守・王匡
- 第六鎮 陳留太守・張邈
- 第七鎮 東郡太守・橋瑁
- 第八鎮 山陽太守・袁遺
- 第九鎮 済北相・鮑信
- 第十鎮 北海太守・孔融
- 第十一鎮 広陵太守・張超
- 第十二鎮 徐州刺史・陶謙
- 第十三鎮 西涼太守・馬騰
- 第十四鎮 北平太守・公孫瓚
- 第十五鎮 上党太守・張楊
- 第十六鎮 鳥程侯・長沙太守・孫堅
- 第十七鎮 祁郷侯・勃海太守・袁紹
そしてこれに曹操を加えた18人の諸侯を、『三国志演義』では十八路諸侯と呼んでいます。
また、中国ドラマ『三国志 Three kingdoms』では、十八鎮諸侯と呼んでいますので、こちらの方が有名かもしれません。
そして、「袁本初どのは4代続いて三公の要職にある漢朝の名宰相の家柄であるから、盟主となられるにふさわしい」という曹操の推薦によって、満場一致で袁紹が十八鎮諸侯の盟主に選ばれました。
正史『三国志』
一方、正史『三国志』で董卓討伐のために挙兵した諸侯は、
- 後将軍・袁術
- 冀州牧・韓馥
- 豫州刺史・孔伷
- 兗州刺史・劉岱
- 河内太守・王匡
- 陳留太守・張邈
- 東郡太守・橋瑁
- 山陽太守・袁遺
- 済北相・鮑信
- 青州刺史・焦和
- 広陵太守・張超
- 元何進の部下・張楊
- 長沙太守・孫堅
- 車騎将軍・勃海太守・袁紹
- 奮武将軍・曹操
となっており、詳しい経緯は記されていませんが、正史『三国志』でも袁紹が反董卓連合の盟主になっています。
ですが、『三国志演義』、正史『三国志』共に、袁紹よりも官職が上位に当たる人物がいるにも関わらず、ただ家柄が良いという理由だけで盟主になれるものなのでしょうか?
この記事では、「なぜ袁紹が反董卓連合の盟主になれたのか?」について考えてみたいと思います。
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正史『三国志』では『三国志演義』と違って、孔融、陶謙、馬騰、公孫瓚は挙兵していません。
彼らは『三国志演義』の中で主人公である劉備と親しい関係にあった人物であり、善玉として描かれている人物でした。そのため、彼らも悪玉である董卓の討伐に立ち上がっている必要があったのです。
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名門・汝南袁氏の影響力
袁紹の家系である汝南袁氏の影響力を理解するためには、まず後漢の人材登用制度を知る必要があります。
郷挙里選
郷挙里選とは全国から優秀な人材を中央に推薦する制度のことで、孝廉、賢良、方正、茂才(秀才)などの科目があり、中でも孝廉が最も重視されていました。
ですが、孝廉を例に挙げると「親に孝行を尽くし、心が清く正しいと評判の人材を、1年に20万人に1人の割合で推薦する」など、それぞれ1年間に推薦する人数が決められており、非常に狭き門だと言えます。
辟召
辟召とは、大将軍や三公九卿などの中央の高官、または、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のことで、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができました。
また辟召によって取り立てられた者は故吏と言い、上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、また上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていました。
つまり、汝南袁氏が4代続いて三公を輩出したことにより、朝廷をはじめとする有力者の中に、汝南袁氏と故吏の関係を持つ者(汝南袁氏に協力する者)が多数存在していたということになります。
このことは、袁紹が反董卓連合の盟主となったことの1つの要因と言えますが、決定的な理由は別にありました。
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袁紹はなぜ反董卓連合の盟主になれたのか?
袁紹が築いた独自の人脈
汝南袁氏の家柄という意味では、袁紹だけでなく袁術も当てはまります。ではなぜ袁術ではなく袁紹が反董卓連合の盟主に選ばれたのでしょうか?
それは、袁紹が若くして築いた人脈にあります。
袁紹は若い頃、天下に名の知れた人物との交流を深め「奔走の友」と呼ばれる強固な人脈を築いていました。実はこの「奔走の友」の存在が、反董卓連合の結成に大きな影響を与えていたのです。
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反董卓連合の正体
『三国志演義』では、天子をないがしろにし、暴虐非道な行いで民衆を苦しめる董卓を打倒するために十八鎮諸侯が立ち上がりました。正史『三国志』でも建前上は同じですが、その真意は違っていたのです。
反董卓連合の発端
霊帝が崩御すると、劉辯を即位させたい何皇后・何進派と劉協を即位させたい董太后・董重派の争いの結果、何皇后・何進派が勝利して劉辯(少帝)が即位しました。この時何進派のNo.2の立場にいたのが袁紹です。
そして何進が宦官に殺されると、袁紹は朝廷に巣食う宦官たちを粛清。これによって、袁紹を筆頭とする元何進の部下たちが朝廷で重要な地位を占めることになるはずでした。
ですが、その後董卓が朝廷の権力を握ったことによって事態は一変します。
董卓が、少帝を廃位して献帝(劉協)を天子に即位させたのです。これに反発した袁紹は洛陽から逃亡しました。
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袁紹の野心
献帝を擁立した董卓ですが、天子の廃立の前にはわざわざ袁紹に相談をしていますし、袁術は後将軍に、曹操は驍騎校尉に任命するなど、朝廷内の派閥に関わらず能力があるものは積極的に登用していました。
つまり、董卓によって少帝派(旧何進派)の粛清が行われるような心配はなく、袁紹などは董卓政権のNo.2の地位が約束されているようなものでした。
ですが袁紹には、家柄も低く粗野で傲慢な董卓の風下に立つことが、どうしても許せなかったのです。
反董卓連合の正体
董卓が重用した侍中の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒らは皆袁紹と親しい人物であり、彼らが推薦した地方官の多くが反董卓連合に加わりました。
(城門校尉の伍瓊、議郎の何顒、反董卓連合の1人である陳留太守・張邈は、前述の「奔走の友」に名前が挙げられています)
つまり、偶然集まった諸侯の中から袁紹が盟主に選ばれたのではなく、反董卓連合自体が元々袁紹派の諸侯を中心とする連合体だったのです。
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もちろん反董卓連合の諸侯すべてが袁紹派という訳ではありません。
済北相・鮑信は曹操に「世に稀な知略を抱き、英雄を統率して乱を治めることができるのは君だけだ。袁紹が盟主ではいずれ必ず滅びるだろう」と言っていました。
また、辺章・韓遂の乱の討伐戦で董卓と対立していた孫堅などは、朝廷の派閥争いなど意に介さずに、喜び勇んで反董卓連合に加わったであろうことが想像できます。