189年【漢:中平ちゅうへい6年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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189年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后 董太后とうたいごう孝仁董皇后こうじんとうこうごう)→ 何太后かこうごう霊思何皇后れいしかこうごう
皇后 何皇后かこうごう霊思何皇后れいしかこうごう)(〜4月)

朝廷

官職 人物
相国しょうこく 董卓とうたく
太傅たいふ 袁隗えんかい
司徒しと 丁宮ていきゅう黄琬こうえん楊彪ようひょう
司空しくう 劉弘りゅうこう董卓とうたく楊彪ようひょう荀爽じゅんそう
太尉たいい 馬日磾ばびつてい劉虞りゅうぐ董卓とうたく黄琬こうえん
大司馬だいしば 劉虞りゅうぐ
光禄勲こうろくくん 荀爽じゅんそう(〜12月)
執金吾しつきんご 丁原ていげん(〜8月)
太中大夫たいちゅうたいふ 楊彪ようひょう(〜9月)
侍御史じぎょし 桓典かんてん
尚書しょうしょ 盧植ろしょく
大将軍だいしょうぐん 何進かしん
驃騎将軍ひょうきしょうぐん 董重とうちょう(〜5月)
車騎将軍しゃきしょうぐん 何苗かびょう(〜8月)
右車騎将軍ゆうしゃきしょうぐん 朱儁しゅしゅん
後将軍こうしょうぐん 袁隗えんかい(〜4月)→ 袁術えんじゅつ
左将軍さしょうぐん 皇甫嵩こうほすう
前将軍ぜんしょうぐん 董卓とうたく
中郎将ちゅうろうしょう 孟益もうえき
中軍校尉ちゅうぐんこうい 袁紹えんしょう(〜8月)
驍騎校尉ぎょうきこうい 曹操そうそう
降虜校尉こうりょこうい 公孫瓚こうそんさん

地方官

官職 人物
司隷校尉しれいこうい 袁紹えんしょう(〜8月)
河南尹かなんいん 何苗かびょう
幽州牧ゆうしゅうぼく 劉虞りゅうぐ
幷州牧へいしゅうぼく 董卓とうたく(〜9月)
冀州牧きしゅうぼく 韓馥かんふく(9月〜)
豫州牧よしゅうぼく 黄琬こうえん(〜9月)
益州牧えきしゅうぼく 劉焉りゅうえん
兗州刺史えんしゅうしし 劉岱りゅうたい
豫州刺史よしゅうしし 孔伷こうちゅう
荊州刺史けいしゅうしし 王敏おうびん
交阯刺史こうししし 賈琮かそう
玄菟太守げんとたいしゅ 公孫琙こうそんよく
勃海太守ぼっかいたいしゅ 袁紹えんしょう
陳留太守ちんりゅうたいしゅ 張邈ちょうばく
汝南太守じょなんたいしゅ 趙謙ちょうけん
南陽太守なんようたいしゅ 張咨ちょうし
長沙太守ちょうさたいしゅ 孫堅そんけん
丹陽太守たんようたいしゅ 陳夤ちんいん
廬江太守ろこうたいしゅ 陸康りくこう
巴郡太守えきしゅうたいしゅ 曹謙そうけん
益州太守えきしゅうたいしゅ 李顒りぎょう
鬱林太守うつりんたいしゅ 谷永こくえい

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189年の主な出来事

出来事
2月
  • 左将軍さしょうぐん皇甫嵩こうほすう陳倉県ちんそうけんを救援して王国おうこくを大破する。
3月
  • 幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐ張純ちょうじゅんを斬る。
  • 下軍校尉かぐんこうい鮑鴻ほうこうが獄死する。
4月
  • 日食があった。
  • 太尉たいい馬日磾ばびつてい罷免ひめんされ、幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐ太尉たいいに任命される。
  • 南宮の嘉徳殿かとくでん霊帝れいていが崩御する。
  • 皇子おうじ劉辯りゅうべんが天子に即位する。(少帝しょうてい
  • 何皇后かこうごう皇太后こうたいごうに立てられる。
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 光熹こうき」に改元する。
  • 少帝しょうていの弟・劉協りゅうきょう勃海王ぼっかいおうに封じられる。
  • 後将軍こうしょうぐん袁隗えんかい太傅たいふに任命される。
  • 大将軍だいしょうぐん何進かしん袁隗えんかい録尚書事ろくしょうしょじが加えられる。
  • 上軍校尉じょうぐんこうい蹇碩けんせきが獄死する。
5月
  • 驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうちょうが獄死する。
6月
  • 董太后とうたいごうが亡くなる。
  • 霊帝れいてい文陵ぶんりょうに埋葬される。
7月
  • 甘陵王かんりょうおう劉忠りゅうちゅうが亡くなる。
  • 董太后とうたいごう慎陵しんりょうに埋葬される。
  • 勃海王ぼっかいおう劉協りゅうきょう陳留王ちんりゅうおう転封てんぽうされる。
  • 司徒しと丁宮ていきゅう罷免ひめんされる。
8月
  • 中常侍ちゅうじょうじ張讓ちょうじょう段珪だんけいらが大将軍だいしょうぐん何進かしんを殺害する。
  • 虎賁中郎将こほんちゅうろうしょう袁術えんじゅつが東西の宮殿に火をかける。
  • 何進かしん配下の呉匡ごきょう車騎将軍しゃきしょうぐん何苗かびょうを斬る。
  • 司隷校尉しれいこうい袁紹えんしょうが2,000人に及ぶ宦官を斬る。
  • 張讓ちょうじょう段珪だんけいらが、少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおうを連れて小平津しょうへいしんに逃亡する。
  • 尚書しょうしょ盧植ろしょくがこれを追い、張讓ちょうじょう段珪だんけいらは河に身を投げて自害する。
  • 幷州牧へいしゅうぼく董卓とうたくに保護されて少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおう洛陽らくように戻る。
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 昭寧しょうねい」と改元する。
  • 董卓とうたく執金吾しつきんご丁原ていげんを殺害する。
  • 司空しくう劉弘りゅうこう罷免ひめんされ、董卓とうたくみずか司空しくうに就任する。
9月
  • 袁紹えんしょう洛陽らくようを脱出する。
  • 袁紹えんしょう勃海太守ぼっかいたいしゅに任命される。
  • 董卓とうたく少帝しょうていを廃位して弘農王こうのうおうに封じる。
  • 陳留王ちんりゅうおう劉協りゅうきょうが天子に即位する。(献帝けんてい
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 永漢えいかん」と改元する。
  • 曹操そうそう洛陽らくようを脱出する。
  • 董卓とうたく何太后かたいごうを殺害する。
  • 太尉たいい劉虞りゅうぐ大司馬だいしばに任命される。
  • 董卓とうたくみずか太尉たいいに就任する。鈇鉞ふえつ斧鉞ふえつ)と虎賁兵こほんへいを与えられる。
  • 太中大夫たいちゅうたいふ楊彪ようひょう司空しくうに任命される。
  • 豫州牧よしゅうぼく黄琬こうえん司徒しとに任命される。
  • 太傅たいふ陳蕃ちんはん、元大将軍竇武とうぶらをまつる。
10月
  • 何太后かたいごうの葬儀を行う。
  • 白波賊はくはぞく河東郡かとうぐんに侵攻したため、董卓とうたく牛輔ぎゅうほを派遣して鎮圧する。
11月
  • 董卓とうたくみずか相国しょうこくに就任する。
12月
  • 司徒しと黄琬こうえん太尉たいいに任命される。
  • 司空しくう楊彪ようひょう司徒しとに任命される。
  • 光禄勲こうろくくん荀爽じゅんそう司空しくうに任命される。
  • 扶風都尉ふふうといを廃止して、漢安都護かんあんとごを設置する。
  • 光熹こうき昭寧しょうねい永漢えいかんの年号を廃止して、この年を中平ちゅうへい6年とする。
  • 袁術えんじゅつ洛陽らくようを脱出する。
  • 曹操そうそう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけんで旗揚げする。

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189年の三国志群雄勢力図

189年の三国志群雄勢力図

凡例

中平ちゅうへい6年(189年)の三国志群雄勢力図

189年の情勢

涼州りょうしゅう

霊帝れいてい崩御後の混乱により、朝廷は韓遂かんすい馬騰ばとう涼州りょうしゅうの反乱勢力を討伐する余裕がなくなり、韓遂かんすい馬騰ばとう宋建そうけんらは群雄として涼州りょうしゅうに割拠することになります。

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冀州きしゅう

董卓とうたくに天子の廃立を相談された袁紹えんしょうは、「叔父おじ太傅たいふ袁隗えんかいに相談します」と言ってその場を退出すると、そのまま冀州きしゅうに向けて出奔しゅっぽんしてしまいました。

これを受け、袁紹えんしょうの元に反対勢力が結集するのを恐れた董卓とうたくは、侍中じちゅう周毖しゅうひ城門校尉じょうもんこうい伍瓊ごけい議郎ぎろう何顒かぎょうらの進言を聞き入れて、袁紹えんしょう勃海太守ぼっかいたいしゅに任命しました。

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荊州けいしゅう

董卓とうたくから後将軍こうしょうぐんに任命された袁術えんじゅつも、洛陽らくようから逃亡して荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに向かいました。

この時、南陽郡なんようぐんには董卓とうたくが任命した南陽太守なんようたいしゅ張咨ちょうしがいたため、袁術えんじゅつ南陽郡なんようぐん全域を支配することはできず、魯陽県ろようけんを拠点としました。


南陽郡魯陽県

南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけん

兗州えんしゅう

洛陽らくようから逃亡した曹操そうそうは、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけん衛茲えいじの援助を受け、5,000の兵を集めて挙兵しました。


曹操の逃走経路

曹操そうそうの逃走経路

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特記事項

右扶風ゆうふふうを保つ

陳倉県の救援

昨年の11月、涼州りょうしゅうの反乱軍・王国おうこく韓遂かんすい馬騰ばとうらがが三輔さんぽ地方に侵攻し、司隷しれい右扶風ゆうふふう陳倉県ちんそうけんを包囲しました。

朝廷は皇甫嵩こうほすう左将軍さしょうぐん董卓とうたく前将軍ぜんしょうぐんに任命して討伐に向かわせますが、すぐに陳倉県ちんそうけんを救援するべきだと主張する董卓とうたくと、敵が疲弊ひへいするのを待って救援に向かうべきとする皇甫嵩こうほすうの間で意見が対立し、皇甫嵩こうほすう董卓とうたくの意見を退しりぞけます。


2月、陳倉県ちんそうけんの包囲は80日を超え、疲弊ひへいした王国おうこくらがついに撤退を始めると、この時を待っていた皇甫嵩こうほすうは追撃を命じました。

ですが董卓とうたくは「兵法にも『窮寇きゅうこうせまることなかれ』『帰師きしにはとどむることなかれ』とあります」と追撃に反対します。


皇甫嵩こうほすうは「私がすぐに攻撃を仕掛けなかったのは、敵が疲弊ひへいするのを待っていたのだ。今の敵は窮寇きゅうこうでも帰師きしでもない」と言って単独で王国おうこくらを追撃し、1万を超える敵兵を討ち取りました。

このことがあってから、董卓とうたく皇甫嵩こうほすうを逆恨みして恨むようになりました。


董卓とうたくが引用した言葉は、孫子そんし軍争篇ぐんそうへんにあります。

高地に布陣した敵を攻めてはいけない、丘を背に勢いよく攻めてくる敵を迎え撃ってはいけない、わざと逃げる敵を追ってはいけない、戦意が高い敵を攻めてはいけない、おとりの兵に飛びついてはいけない、母国に帰ろうとする敵を引き止めてはいけない、包囲した敵には必ず逃げ道を開けておき、追い詰められた敵を攻めてはいけない。 これが用兵の原則である。

王国が追放される

皇甫嵩こうほすうに敗北すると、韓遂かんすい馬騰ばとう王国おうこくを追放し、過去に冀州きしゅう安平国あんぺいこく信都県しんとけん県令けんれいを務めていた閻忠えんちゅうの身柄を拘束して車騎将軍しゃきしょうぐんあがめたて、自分たちの大将に祭り上げようとします。

ですが、これを恥じた閻忠えんちゅうは怒りのあまりやまいを発して亡くなってしまいました。これ以降、韓遂かんすい馬騰ばとうは主導権をめぐって互いに争うようになります。


韓遂かんすい馬騰ばとうが大将に祭り上げようとした閻忠えんちゅうは、皇甫嵩こうほすう冀州牧きしゅうぼくを務めていた時、皇甫嵩こうほすうに漢王朝に代わって天下を治めるように進言した人物です。

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張純ちょうじゅんの乱の鎮圧

烏桓族うがんぞくの間でも人望が厚かった劉虞りゅうぐ幽州牧ゆうしゅうぼくに任命されると、烏桓族うがんぞく大人たいじん丘力居きゅうりききょは戦わずして帰順し、孤立した張純ちょうじゅん張挙ちょうきょ鮮卑族せんぴぞくを頼って国外に逃亡しました。

そこで劉虞りゅうぐ鮮卑族せんぴぞくに使者を送り、張純ちょうじゅん張挙ちょうきょを差し出せば恩賞を与えることを約束すると、右北平ゆうほくへい公孫瓚こうそんさんの歩騎1万を残して軍を解散します。


3月、張純ちょうじゅんの食客であった王政おうせい張純ちょうじゅんの首を持って投降してきたので「張純ちょうじゅんの乱」は鎮圧されました。張挙ちょうきょ行方ゆくえは記録されていません。


張純ちょうじゅんの乱」は鎮圧されましたが、恩徳によって異民族を懐柔かいじゅうしようとする劉虞りゅうぐと、武力によって異民族を平定しようとする公孫瓚こうそんさんの間にわだかまりが残りました。

霊帝れいていの崩御

4月、霊帝れいていが崩御したことで、宦官と外戚の対立が表面化します。


霊帝れいていには劉辯りゅうべん劉協りゅうきょうの2人の皇子がいました。

上軍校尉じょうぐんこうい蹇碩けんせきは、霊帝れいてい遺詔ゆいしょうに従って劉協りゅうきょうを天子に即位させるべく、劉辯りゅうべん伯父おじである大将軍だいしょうぐん何進かしんの暗殺をくわだてます。

ですが、このくわだては司馬しば潘隠はんいんによって何進かしんの知るところとなり、何進かしんは難を逃れて劉辯りゅうべん少帝しょうてい)が天子に即位しました。その後蹇碩けんせき中常侍ちゅうじょうじ郭勝かくしょうの密告によって捕らえられ、処刑されました。

2人の皇太后こうたいごうの対立

少帝しょうていの即位によって何皇后かこうごう皇太后こうたいごうとなりましたが、これまで劉協りゅうきょうを養育してきた董太后とうたいごう劉協りゅうきょうを天子に即位させることをあきらめず、何太后かたいごうと対立します。

これを危惧きぐした何進かしんは、驃騎府ひょうきふを包囲して董太后とうたいごうの後ろ盾となっていた 驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうちょうを自害に追い込むと、董太后とうたいごう洛陽らくようから追放しました。

宦官一掃計画

何進かしんの側近となっていた袁紹えんしょうは、蹇碩けんせき誅殺ちゅうさつを機に宦官を一掃することを進言します。

これを承諾した何進かしん何皇后かこうごうに宦官一掃の許可を求めますが、何皇后かこうごうはこれを認めません。

そのため、再び袁紹えんしょうの献策によって、各地の豪族の軍勢を洛陽らくように集結させ、その軍事力によって何皇后かこうごうおどす作戦に出ます。

この時召集しょうしゅうされた豪族の1人が董卓とうたくだったのです。

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何進かしんの死

何進かしんが宦官の一掃を計画していることを察知した中常侍ちゅうじょうじ張讓ちょうじょうは、偽のみことのりで宮中に何進かしんを呼び出して殺害してしまいます。

これを知った袁紹えんしょう袁術えんじゅつ呉匡ごきょうらは、兵をひきいて宮中に突入し、2,000人を超える宦官を誅殺ちゅうさつしますが、少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおう張讓ちょうじょう段珪だんけいらに連れられて洛陽らくようを脱出してしまいました。

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董卓とうたくの入洛

張讓ちょうじょう段珪だんけいらを追った尚書しょうしょ盧植ろしょく河南中部掾かなんちゅうぶえん閔貢びんこう少帝しょうていの一行に追いついて数人を斬ると、張讓ちょうじょう段珪だんけいら残りの宦官たちはみな黄河に身を投げました。

何進かしんの召集を受けて洛陽らくよう西の顕陽苑けんようえんに駐屯していた董卓とうたくは、少帝しょうていの一行が洛陽らくようの北にいるという報告を受けると精鋭を率いて急行し、少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおうを保護して洛陽らくように入りました。


洛陽らくように到着した時の董卓とうたくの兵は、3,000人に過ぎませんでした。

そこでまず、董卓とうたくは所属不明となっていた何進かしん何苗かびょうの兵を次々と自軍に取り込みます。

そして、自分と同じように洛陽らくように入った執金吾しつきんご丁原ていげん配下の呂布りょふを調略して丁原ていげんを殺害させると、董卓とうたく洛陽らくようにおける軍事権のすべてを手に入れることになりました。

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董卓とうたく献帝けんてい擁立ようりつする

朝廷で権力を握った董卓とうたくは、亡き大将軍だいしょうぐん何進かしんが即位させた少帝しょうていを廃位し、新たに献帝けんていを即位させました。

これに反発した曹操そうそう袁術えんじゅつ洛陽らくようから逃亡し、曹操そうそう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけんで挙兵します。

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この年、霊帝れいていの崩御に端を発して、宦官による大将軍だいしょうぐん何進かしんの暗殺や、その報復として起こった袁紹えんしょうによる宦官の一掃などで、洛陽らくようは大混乱におちいります。

そして、何進かしんによって召集された豪族の1人である董卓とうたくは、洛陽らくように到着すると瞬く間に軍権を掌握し、その軍事力を背景に朝廷の実権を掌握しました。

ですが、これに反発する袁紹えんしょう袁術えんじゅつ曹操そうそうらは洛陽らくようから逃亡。各地で反董卓とうたくの機運が高まっていくようになります。

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