劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししに任命された時、荊州けいしゅうは各地で民衆が蜂起ほうきし、劉表りゅうひょうを迎え入れる状態ではありませんでした。そのような中、劉表りゅうひょうはどのようにして荊州けいしゅうを平定したのでしょうか。

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劉表、荊州刺史に任命される

劉表

劉表の出自と経歴

劉表りゅうひょうあざな景升けいしょうと言い、兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平国こうへいこくの人で、前漢ぜんかん第6代皇帝・景帝けいていの第4子、魯恭王ろきょうおう劉餘りゅうよ劉余りゅうよ)の子孫にあたります。

身長は8尺(約184cm)を超え、温和だが威厳のある立派な容姿をしており、若い頃から清流派の党人とうじんの中でも名の知れた存在でした。

劉表りゅうひょうは、宦官による党人とうじんの弾圧をけて逃亡生活を送っていましたが、184年に「党錮とうこの禁」がかれると、大将軍だいしょうぐん何進かしんまねかれて北軍中候ほくぐんちゅうこうに任命されました。

荊州刺史に任命される

190年1月、朝廷で権力を握った董卓とうたくに反発する諸侯が反董卓とうたく連合を結成すると、それに呼応した長沙太守ちょうさたいしゅ孫堅そんけん董卓とうたく討伐をかかげて北上を開始。その途上孫堅そんけんは、荊州刺史けいしゅうしし王叡おうえいを自害に追い込み、南陽太守なんようたいしゅ張咨ちょうしを殺害してしまいます。

そして、孫堅そんけんによって自害に追い込まれた王叡おうえいの後任として、劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししに任命されました。

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劉表の荊州平定戦

荊州の情勢

孫堅そんけん南陽太守なんようたいしゅ張咨ちょうしを殺害すると、孫堅そんけんに恐れをなした南陽郡なんようぐんの多くは孫堅そんけんに従いましたが、一部は孫堅そんけんに味方していた江夏太守こうかたいしゅ劉祥りゅうしょうを攻撃し、劉祥りゅうしょうを殺害してしまいます。

その後、袁術えんじゅつと合流した孫堅そんけんは、南陽郡なんようぐんの支配権を袁術えんじゅつゆずりました。


劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししに任命された時、

南陽郡なんようぐん孫堅そんけんから支配権をゆずられた袁術えんじゅつに支配され、

江夏郡こうかぐん太守たいしゅ不在、

長江ちょうこう以南の長沙郡ちょうさぐん武陵郡ぶりょうぐん零陵郡れいりょうぐん桂陽郡けいようぐんでは、宗賊そうぞく*1の勢いが盛んになっており、長沙太守ちょうさたいしゅ蘇代そだい華容県長かようけんちょう貝羽ばいうなどは、軍勢を頼りに劉表りゅうひょうの命令に服しませんでした。



荊州の情勢

凡例

荊州けいしゅうの情勢

脚注

*1 江南(長江以南)の地方を荒らした一揆のこと。有力者を中心に結集して各地で反乱を起こした。


この時の長沙太守ちょうさたいしゅ蘇代そだいとなっていますが、この蘇代そだいについてはよく分かっていません。

孫堅そんけん南陽郡なんようぐんの支配権をゆずると、袁術えんじゅつ孫堅そんけん破虜将軍はりょしょうぐん豫州刺史よしゅうししを兼務させました。

蘇代そだいは、孫堅そんけん長沙郡ちょうさぐんに残してきた人物か、袁術えんじゅつによって新たに長沙太守ちょうさたいしゅに任命された人物かのどちらかだと思われ、どちらにせよ袁術えんじゅつ派の人物であると考えられます。

蒯良と蒯越の助言

劉表りゅうひょう荊州けいしゅうに赴任すると単身で南郡なんぐん宜城国ぎじょうこくに入り、荊州けいしゅう南郡なんぐん中廬国ちゅうろこくの人、蒯良かいりょう蒯越かいえつ荊州けいしゅう南郡なんぐん襄陽県じょうようけんの人、蔡瑁さいぼうまねきました。


荊州けいしゅうは今、宗賊そうぞくが起こって民衆は従わず、また袁術えんじゅつにもねらわれている危険な状態だ。軍勢を集めたいと思うが、このような状態で集まるだろうか?」

劉表りゅうひょうが相談すると、蒯良かいりょうがこれに答えました。


民衆が従わないのは、仁愛が不足しているからです。また、つき従いながら治まらないのは、信義が不足しているからです。

仁義の道が示されれば、おのずと民衆は身を寄せて来るでしょう。ご心配にはおよびません。


また蒯越かいえつは、

「平和な時代には仁愛と道義を第一とし、混乱の時代には策謀をもって第一とすべきです」

と言い、


袁術えんじゅつは大軍をようしていても決断力がなく、蘇代そだい貝羽ばいうなどは取るに足りません。

また、宗賊そうぞくの指導者たちは貪欲どんよくで乱暴な者が多く、部下は心服していません。彼らに利益をチラつかせれば、必ず手下を従えてやって来ます。

集まった者の中で、道に外れた者を処刑し、残った善良な者を登用すれば、殿とのの評判は広まって、きっと軍兵も集まり、民衆も従うはずです。

その上で、南は江陵こうりょうを占領し、北は襄陽じょうようを守れば、げきを飛ばして号令するだけで荊州けいしゅう全域が従うでしょう。そうなれば、袁術えんじゅつなど恐るるに足りません。


と、具体的な方策を示します。

これを聞いた劉表りゅうひょうは大いに喜び、蒯良かいりょう蒯越かいえつの進言に従うことにしました。

張虎と陳生

劉表りゅうひょうがさっそく蒯越かいえつに命じて宗賊そうぞくの指導者たちに誘いをかけたところ、55人の指導者たちがやって来ます。すると劉表りゅうひょうは、彼らを皆殺しにしてその軍勢を配下に取り込み、優秀な者を選び出してすぐさま軍兵を預けました。


ですが、ただ江夏こうかの賊・張虎ちょうこ陳生ちんせいだけは軍勢をようして襄陽じょうように立てこもり、抵抗を続けていました。

そこで劉表りゅうひょうは、蒯越かいえつ龐季ほうきを使者に立て、張虎ちょうこ陳生ちんせいを刺激しないよう兵をつけずに襄陽じょうようへ向かわせます。

その結果、蒯越かいえつ龐季ほうきの説得により張虎ちょうこ陳生ちんせいは降伏。これにより、江南こうなん長江ちょうこう以南)の諸郡はことごとく平定されました。


190年3月、董卓とうたく討伐のために起ち上がった孫堅そんけんが北上し、荊州刺史けいしゅうしし王叡おうえいを自害に追い込んだことで、その後任として劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししに任命されました。

魏書ぎしょ劉表伝りゅうひょうでんには「山東さんとうの諸侯が挙兵すると、劉表りゅうひょうもまた軍勢を集めて襄陽じょうように陣をいた」とありますが、これは董卓とうたく討伐のためではなく、むしろ反董卓とうたく連合の一員である袁術えんじゅつの南下を警戒した行動であると言えるでしょう。