曹操と袁紹それぞれの「官渡の戦い」の戦後処理についてまとめています。
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目次
官渡の戦いの終結
烏巣強襲
建安5年(200年)10月、袁紹の謀臣・許攸から「袁紹軍の食糧が烏巣に集められていること」を聞いた曹操は、自ら5千人の兵を率いて烏巣に向かいました。
曹操の動きを知った袁紹の将・張郃は、袁紹に「烏巣の救援」を進言しますが、袁紹は「本陣(官渡砦)を攻撃すれば曹操は引き返す筈だ」と、烏巣へは軽装の騎兵を派遣しただけで、張郃と高覧に官渡砦の攻撃を命じます。
官渡の戦いの終結
結果、烏巣は陥落。烏巣の陥落を知った張郃と高覧は曹操に降伏し、袁紹軍は総崩れとなって、袁紹と袁譚は軍を棄て黄河を渡って逃走しました。
曹操は袁紹と袁譚に追いつくことはできませんでしたが、袁紹軍の輜重(輸送物資)・図書・珍宝類をすべて没収してその部下を捕虜にし、袁紹の残りの軍兵のうち本心から降伏していない者8万人をすべて生き埋めにしました。
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戦勝を報告する
袁紹を敗走させた曹操は、朝廷に「袁紹の罪状と戦勝」を報告(上言)しました。
曹操の報告(上言)・全文
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曹操の戦後
張郃の処遇
張郃を得た曹操は大いに喜んで、
「昔、伍子胥は早く自覚しなかったため、自ら我が身を危険に陥れた。微子が殷を去り、韓信が漢に帰服したようなものであろうか」
と言い、張郃を偏将軍に任命し、都亭侯に取り立てました。
張郃と共に曹操に降伏した高覧については、降伏後の記述はありません。
沮授の処遇
袁紹配下の沮授は、渡河した袁紹に追いつけず、曹操軍に捕えられました。
捕えられた沮授は大声で、
「沮授は降参したのではない。軍兵に捕えられただけだっ!」
と叫びました。
曹操は沮授と昔なじみであったので、彼を迎え入れて言いました。
「別々の世界に住み、ついに音信不通となっていたが、今日君を捕虜にすることになろうとは、思いもよらなかった」
これに沮授が、
「冀州(袁紹)は策を間違ったために、北方に逃走する羽目になりました。私は智恵も武勇も供に尽きてしまった以上、捕虜にされても当たり前です」
と答えると曹操は、
「本初(袁紹の字)は智謀に欠け、君の計略を用いなかった。今、動乱が起こって12年以上にもなるのに、国家はまだ安定していない。君と一緒にこれを図りたいものだ」
と、配下に加わるように言いました。ですが沮授は、
「叔父も母も弟も袁氏(袁紹)に生命を託しております。もし公(曹操)の特別の思し召しを受けられますならば、早く私を死なせてください。それが幸福というものです」
と答えたので、曹操は、
「私がもっと早く君を味方にしていたら、天下の平定は考慮の余地もないほど簡単だったのに…」
と嘆息して言いました。
曹操は沮授を釈放して厚く遇しましたが、しばらくして袁氏(袁紹)の下に帰ろうと謀ったため、結局彼を殺すことになりました。
豆知識
沮授は、以前袁紹陣営で行われた論戦の中で曹操との決戦に反対し、袁紹の出陣に際し敗北を予見して一族に財産を分け与えていました。
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曹操が密通の証拠を焼く
戦後、曹操が没収した袁紹宛の書簡の中に、許都(許県)の城下と軍中の人からの書簡が入っていました。これらの書簡は、彼らが「袁紹と密通していた証拠」となります。
ですが曹操は、
「袁紹の強力な時には、儂ですらとても安全とは言えなかったのだ。まして彼らには当然のことだ」
と言い、(中身を見ずに)それらをすべて焼き捨てました。
その後、冀州の城邑の多くが曹操に降りました。
その昔、桓帝の時代に、黄色の星が楚・宋の分野に現れました*1。
幽州・遼東郡出身の殷馗は、
「50年後に真人[天子(皇帝)となるべき人物]が梁・宋の辺りの地域に出現するに違いなく、その鋭鋒(鋭い勢い)には敵対できぬ」
と予言しました。
それからおよそ50年が経過し、曹操が袁紹を撃ち破って「天下に敵なし」となりました。
脚注
*1「天の二十八宿(星座)」はそれぞれ中国の地域に相対する。その星座に異変があれば、対応する地上の区域に変化が現れるとされた。
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袁紹の戦後
蔣義渠を頼る
袁紹軍が総崩れとなると、袁紹は袁譚らと供に頭巾をかぶって馬に乗り、わずか8百騎で黄河を渡って冀州・魏郡・黎陽県の北岸に到着すると、麾下の将軍・蔣義渠(蒋義渠)の陣営に入ります。
蔣義渠(蒋義渠)と面会した袁紹は彼の手を取って、
「孤はこの首をそなた(あなた)に預けよう」
と言いました。
蔣義渠(蒋義渠)は陣屋を袁紹に譲ります。
袁紹が蔣義渠(蒋義渠)の陣屋から命令を宣布すると、兵士たちは「袁紹の健在」を聞き、徐々にまた集まって来ました。
田豊を処刑する
田豊の覚悟
袁紹の謀臣・田豊は、出兵に反対したため獄に繋がれていました。
袁紹軍が敗北した後、ある者が田豊に「(あなたの言葉通りになったので)あなたは必ず尊重されるでしょう」と言いました。
すると田豊は、
「公(袁紹)は見た目こそ寛容だが内面は陰険で、儂の真心を認めず、さらに儂はしばしば直言により逆らうこともあった。もし戦に勝利して喜んでいるならば、きっと儂を赦すだろうが、敗戦して恨めしく思っていれば、内面の陰険さが表に出るだろう。
もし出兵して勝利していれば、儂も生命をまっとうできたに違いないが、今すでに敗れたからには、儂にはもはや生きる望みはない」
と言いました。
逢紀の讒言
敗戦を受け、袁紹の兵士たちはみな胸を叩いて泣き、
「もし田豊がここにいたら、こんなことにはならなかっただろうに…」
と言いました。
そして袁紹もまた逢紀に向かって、
「冀州の人々は、我が軍の敗北を知れば、みな儂のことを案じてくれるに違いない。ただ田別駕(田豊)だけは以前儂を諫め、一般の者と違っていた。儂は彼と顔を合わせるのが恥ずかしい」
とこぼします。すると、田豊のことを煙たがっていた逢紀は、
「田豊は将軍(袁紹)の退却を聞いて、手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したのを喜んでいました」
と言いました。袁紹は、
「儂は田豊の言葉を用いなかったために、果たして笑われることになってしまった」
と言い、田豊を殺害してしまいました。
豆知識
はじめ曹操は「田豊が戦役(官渡の戦い)について来なかった」と聞くと喜んで、
「袁紹は必ず敗北するだろう」
と言い、袁紹が遁走した時になってまた、
「もし袁紹が田別駕(田豊)の計略を採用していたなら、どうなったか分からない」
と言いました。
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審配の処遇
孟岱・蔣奇(蒋奇)の讒言
「官渡の戦い」の敗戦により、審配の2人の子が曹操に捕えられました。
審配と仲が悪かった孟岱は、蔣奇(蒋奇)に働きかけて、
「審配はその位にあって政治を専断し、一族は大きく兵は強く、しかも2人の子が南(曹操)にいれば、必ずや叛意を抱くでしょう」
と袁紹に説かせると、郭図と辛評もまたこれに同調しました。
審配と逢紀
これを受け袁紹は、孟岱を監軍に任命して「審配に代わって孟岱に冀州・魏郡・鄴県を守らせよう」と考え、護軍の逢紀に相談します。
すると逢紀は、
「審配は生来気性が激しい上に真っ直ぐな性格で、その言動は常に古人の節を慕っております。2人の子が南(曹操)にいるからといって不義をなすことはありません。彼をお疑いなさいませんように」
と答えました。この答えに袁紹が、
「君(逢紀)は彼(審配)を憎んでいたのではなかったか?」
と尋ねると逢紀は、
「以前に彼と争ったことは私情であり、今述べたことは国事です」
と答えたので、袁紹は審配を罷免することをやめ、審配と逢紀は改めて協力し合うようになりました。
豆知識
逢紀は私情を忘れて国事のために審配を救いましたが、前述のように田豊に対しては国事より私情を優先させて処刑に追い込んでいます。
田豊も袁紹陣営にとって重要な人物でしたが、田豊と審配にどのような違いがあるのでしょうか。この時、逢紀が審配を救った理由が「国事のため」ということには疑問が残ります。
袁紹は、表面上は寛容で優雅、大きな度量があり、憂喜(憂いと喜び)を表情に出すことはありませんでした。
ですが、その性格は驕慢(おごりたかぶること)かつ頑固で尊大であり、配下の優れた策に従うことができなかったため、曹操に敗れることになりました。