建安5年(200年)から建安6年(201年)にかけて益州で起こった、張魯の離反と五斗米道、益州の大官・趙韙の反乱と、劉璋と龐羲の確執についてまとめています。
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目次
張魯の離反
張魯と劉焉・劉璋との関係
劉焉が益州牧に着任した翌年の中平6年(189年)、劉焉は張魯を督義司馬、張脩を別部司馬に任命して漢中郡に侵攻させました。
以降張魯は、朝廷と益州の連絡を遮断して益州牧・劉焉への朝廷の干渉を妨害する役割を果たし、裏では劉焉と通じながら、表向きは独立勢力として漢中を治めるようになります。
この関係は、興平元年(194年)に益州牧が劉璋に代替わりした後も続いていました。
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張魯の離反
建安5年(200年)、この年、益州・漢中郡の張魯が驕って劉璋に従うことを承知しなくなったので、劉璋は張魯の母と弟を殺害し、龐羲らを派遣して度々張魯を攻撃しましたが、逆に撃ち破られてしまいます。
また、張魯の私兵の多くが益州・巴西郡に集結していたため、龐羲を巴西太守に任命して、軍を率いて張魯を防がせました。
張魯の漢中支配(五斗米道)
五斗米道の組織
張魯はそのまま漢中郡を占領し、妖術によって住民を導くと、自ら「師君」と号し、「道術を習いに訪れた者」を「鬼卒」、本格的に道術を授けられ、信心するようになった者を「祭酒」と呼び、祭酒たちはそれぞれ一団の信者を支配し、団の人数が多い祭酒を特に治頭大祭酒と呼びました。
また、長吏(県の長官)を置かず、すべて祭酒によって治めさせたので、庶民も蛮民もその統治を喜び、漢中郡、巴郡の地域をおさえて覇を唱えました。
五斗米道の教え
張魯は、「誠実であれ」「人を騙すな」と教え、病気にかかった者がいると、その者に犯した過失を告白させましたが、これらは概ね黄巾(太平道)と同じでした。
祭酒たちはみな義舎を作りましたが、それは今の亭伝(駅舎)と似たようなものでした。
義舎には、「義援のための米や肉」をぶら下げておき、旅人の空腹度合いに応じて満腹するだけのものを取らせましたが、もし必要以上に取った場合には、妖術でたちどころに病気をもたらすとされていました。
また、規則に違反した者は3度まで許され、その後はじめて刑罰を受けました。
張魯と玉印
朝廷には張魯を征伐する力がなかったので、彼の元に使者を派遣して鎮民中郎将に任命し、漢寧太守の官につけて、貢物を献上する義務だけを課すという恩寵を与えました。
この頃、住民の中に地中から玉印を手に入れて張魯に献上した者があり、部下たちは張魯が漢寧王の尊号を名乗ることを望みました。
ですが、張魯の功曹で巴西郡出身の閻圃が諫めて、
「漢川の住民は10万戸を越え、財力は豊か、土壌は肥沃、四方は堅固な地勢によって守られておりますので、うまく天子をお助けできれば(春秋時代の覇者である)斉の桓公や晋の文公のようになれましょうし、それが駄目でも(後漢の初め光武帝に帰服した)竇融となって、富貴の身分を失うことはないでしょう。
今、独断で処置できる権限を与えられて刑罰を断行するに充分な勢力を持たれており、わざわざ王になる必要はありません。どうかしばらくは王と名乗られることなく、真っ先に災厄を受ける羽目に陥ることのないようになさってください」
と言ったので、張魯はこの意見に従いました。
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益州の大官・趙韙の反乱
東州兵への不満
これより以前、戦乱が続く荊州・南陽郡や三輔地方(司隷の西3郡)の人々が数万家族も益州に流れ込んでいましたが、劉焉はそれらの人々を集めて兵士とし、「東州兵」と名づけていました。
劉焉の後を継いだ劉璋は優柔不断で威厳がなく、東州人が古くから益州に住んでいる民衆を侵害しても取り締まることができず、政令でも対応できないことが多かったので、益州の住民の不満は怨みに変わっていきます。
趙韙の反乱
そこで劉璋は、かねてから人々の心を掴んでいた益州の大官・趙韙にこの問題を任せました。
ですが、その趙韙は民衆の怨嗟を利用して謀反を企み、荊州に手厚い賄賂を送って和睦を請うと共に、秘かに州内の豪族と手を結んで彼らと共に兵を挙げ、引き返して劉璋を攻撃します。
また、益州の蜀郡、広漢郡、犍為郡らはみな趙韙に呼応したので、劉璋は成都に籠もって城を固守しました。
益州の大官・趙韙は、劉焉の死後、劉璋を益州刺史とするよう朝廷に上書した人物です。
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龐羲と劉璋の確執
趙韙の死
建安6年(201年)に入り、趙韙は成都を包囲していましたが、趙韙を恐れた東州人はみな心を1つに力を合わせて劉璋を助け、誰も彼もが必死になって戦った結果、反逆者を撃破して進軍し、逆に江州にいる趙韙を攻撃します。
事ここに至ると、趙韙配下の龐楽と李異らは劉璋に寝返って趙韙の兵を殺害し、趙韙を斬殺してしまいました。
漢の朝廷では「益州が乱れている」と聞いて、五官中郎将の牛亶を益州刺史に任命し、劉璋を召し寄せて卿にしようとしましたが、劉璋はお召しに応じませんでした。
劉璋と龐羲の確執
龐羲と劉璋は昔なじみである上に、龐羲は劉璋の子供たちを危難から救ったことがありました。そのため劉璋は、龐羲に厚く恩を感じて彼を巴西太守に任命しました。
巴西太守に任命された龐羲は「郡にも守備兵が必要だ」と考え、盛んに私兵を招き集めていました。ですが、これを劉璋に讒訴(他人を陥れるために、目上の人や主人にありもしない事を告げること)する者がいて「龐羲には反逆の陰謀がある」と説いたため、劉璋は内心、龐羲を疑うようになります。
そのことを伝え聞いた龐羲は非常に恐れ、守りを固めることを計画し、程畿の子の程郁を派遣して、程畿に命令を伝えさせ、兵士*1を要求して救援させようとしました。
すると程畿は龐羲に、
「郡が私兵を集めたのは、本来反逆するためではないはずです。讒言を受けたとはいっても、肝心なのは誠意を尽くすことです。もし、心配でならないからといって異心を抱くならば、私の与り知らぬことですぞ」
と言い、また子の程郁を戒めて、
「儂は州の恩誼を受けており、州牧に対して忠誠を尽くすのが当然である。お前は郡吏なのだから、太守のために力を尽くさねばならぬ。儂のために二心を抱いてはならぬ」
と言いました。すると龐羲はまた程畿に人を遣って、
「お前の子は郡にいるのだ。太守に従わない場合は、一家に禍が及ぶであろう」
と脅しますが、程畿はこれにも屈せず、
「昔(戦国の初め)、楽羊は魏の将となって(中山を攻めた時、中山の君が殺して送って寄越した)我が子の肉の羹(肉・野菜を入れた熱い吸い物)を飲みました。
父子の情愛がなかったからではありません。大義がそうさせたのです。今、また我が子の肉を羹とされましょうとも、私は必ずそれを飲むでしょう」
と言いました。
ついに龐羲は「程畿が自分の味方をすることは絶対にない」と悟り、劉璋に深く陳謝したので、処罰を受けずに済みました。
また、この経緯を聞き知った劉璋は、程畿を江陽太守に任命しました。
脚注
*1益州・巴西郡・閬中県の人・程畿(字:季然)は、劉璋の時代に益州・巴西郡・漢昌県の県長に任命された。県には賨族が住んでおり、獰猛な種族で、昔、漢の高祖(劉邦)は彼らを利用して関中を平定した。
建安5年(200年)、益州・漢中郡の張魯が益州牧・劉璋に叛旗を翻し、益州の大官・趙韙が反乱を起こして、蜀郡、広漢郡、犍為郡がこれに呼応しましたが、翌年の建安6年(201年)、趙韙配下の龐楽と李異の寝返りにより趙韙は斬殺されました。
また劉璋は、張魯への抑えとして巴西太守に任命した龐羲を疑うようになり、身の危険を感じた龐羲は反乱を企てますが、味方に引き入れようとした程畿の反対にあい断念。劉璋に深く陳謝して、事なきを得ました。