兄・孫策の後を嗣いだ孫権の家臣団の変化と廬江太守・李術討伐についてまとめています。
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孫権が孫策の後を嗣ぐ
孫権が後を嗣ぐ
許貢の食客の襲撃を受けて重傷を負った孫策は、自分の後継者に弟の孫権を指名して亡くなりました。建安5年(200年)4月のことです。
孫策の遺言を受けた張昭は配下の城々に文書をまわして、中央や地方の部将とその副官たちに「孫策の時と変わらずそれぞれの職務に励むように」と命じ、張昭や周瑜たちは、孫権が共に大事を成すに足る人物だと見込んで、心を寄せて彼に仕えました。
会稽太守に任命される
孫策の死を知った曹操は、その混乱に乗じて呉を討とうと考えます。
この時、侍御史の張紘は、
「他人の死亡に乗ずるのは、古の掟に外れるのみならず、もし事が上手く行かなかった場合には、怨みを買い誼を棄てることになるのですから、むしろこれを機会に恩義を施しておいた方が良いでしょう」
と諫めました。
曹操はこの言葉に納得し、直ちに上表して孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守の職務を兼任させました。
会稽太守の任を受けた孫権は、揚州・呉郡・呉県に軍を留めて自分はそこを離れず、顧雍を郡丞に任命して会稽郡に行かせ、文書の処理にあたらせます。
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曹操が袁紹と対峙している間は、いくら好機とはいえ、曹操に呉を征伐する余裕はなかったでしょう。
以上は、曹操が袁紹に勝利した建安5年(200年)10月以降のことと思われます。
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孫権の家臣団の変化
孫権に仕えた人物
張紘
張紘の帰還
曹操は「孫権が自分の支配下に入るように」勧めさせようと考え、侍御史の張紘を地方に出して、会稽東部都尉に任命しました。
朝廷[豫州(予州)・潁川郡・許県]を出発した張紘は、揚州・呉郡・呉県の孫権の元に帰還します。
太夫人(孫権の母)は内外ともに多難であることから、まだ若い孫権のことを深く憂慮して、しばしば張紘に鄭重な内容の文書を下し、「よろしく孫権を補佐してやって欲しい」と願いました。
張紘はこうした書簡を受け取るごとに感謝の奏上をし、ひたすら孫権を補佐して時局を正しく読み取ることに心を注ぎ、孫権の方でも、新しい事態が起こって密かに方策を練る時や、上奏文の他、諸々の文書を記し、四方の勢力と友好関係を結ぶ時には、いつも張紘と張昭に命令を下してその文書の起草にあたらせました。
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張紘を任地に派遣する
張紘は、破虜将軍(孫堅)には「董卓を敗走させて漢の王室を支えた」という勲功があり、討逆将軍(孫策)は「江南の地を平定して大きな事業を打ち立てた」のだから、その公に尽くした正義の行動を顕彰するための記録があるべきだと考えて、その文章を自ら完成させて孫権に献上します。
それに目を通した孫権は心を深く動かされて、
「あなたは本当に我が家の来歴や功績についてよく知っていてくれる」
と言い、張紘を会稽東部都尉として派遣しました。
張紘が北(曹操)で官職を受けていることから「呉に長く留まる気持ちがないのではないか」と疑う者もいましたが、孫権はそれらの言葉を気に掛けることはありませんでした。
董襲
太妃(孫堅の夫人)は若くして孫策の後を嗣いだ孫権を心配して、張昭や董襲らを招くと、「江東の地は守りきってゆくことができるでしょうか?」と尋ねました。
これに董襲が、
「江東の地勢は、山や川の固めがあります上に、討逆将軍(孫策)さまは民衆たちにご恩徳を敷かれました。討逆将軍(孫策)さまは、さらにその基を引き継がれて、臣下たちは身分の高い者も賤しい者もお役に立とうと願い、張昭が諸事を取りまとめ、我々は軍を率いて事にあたっております。
ただ今、地の利と人の和が得られておりますから、万に一つの心配もございません」
と答えると、人々はみな彼の言うところの気宇壮大(心意気が雄大であること)さに感心しました。
魯粛
周瑜が魯粛を推薦する
この頃、祖母の葬儀を終えた魯粛が揚州・呉郡・曲阿県に戻り、北に向けて出発しようとしましたが、これを知った周瑜は魯粛を説得して、
「魯粛の才は現在の時局を乗り切ってゆくのに十分役立つ者であり、彼と同様の才能を持った者を広く捜し求めて、事業の成功を計るべきであって、彼を他所に行かせてはなりません」
と、孫権に魯粛を推薦しました。
『魏書』魯粛伝には「魯粛が劉曄の誘いを受けて北に出発しようとした」とされていますが、劉曄の手紙では、その劉曄が自ら斬った「鄭宝の下に身を寄せよう」と言っており、内容に矛盾があります。
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魯粛の展望
周瑜の進言を受けた孫権は、すぐさま魯粛と会って語り合ってみたところ、大いに喜んで、他の賓客たちと一緒に退出しようとする魯粛を呼び戻して、榻*1をつき合わせ向かい合って酒を勧めました。
そこで孫権は、魯粛にこう尋ねます。
「今、漢の王室は傾き、四方は雲が涌くように乱れている。私は父や兄が遺した仕事を承け継ぎ、斉の桓公や晋の文公のような功績を挙げたいと願っている。あなたはわざわざ私の所に来てくださいましたが、どのようにして私を助けてくださるおつもりでしょうか?」
魯粛はこれに答えて言いました。
「すでに漢王室の再興は不可能であり、曹操もすぐには除き去ることはできません。
今は江東の地を足場に鼎峙しつつ、曹操が北の課題の処理に追われている間に黄祖と劉表を伐ち、長江流域をしっかりと保持した上で、帝王を名乗られて天下全体の支配へと歩を進められませ」
魯粛の返答・全文
これを聞いた孫権は、
「今は一地方にあって全力を尽くし、漢の朝廷にお力添えをしたいと願うのみだ。あなたの言われるようなことは、私の力の及ぶところではない」
と言いました。
張昭は「魯粛が些か傲慢なこと」を咎め、何度か彼を非難して、
「魯粛は歳が若く物事に精通していないから、まだ任用するのは早すぎる」
と意見しましたが、孫権はそういった言葉を気に掛けることもなく、いよいよ魯粛を尊重し、魯粛の母親に衣服や幃帳を贈り、住まいや調度の品々は、財産家であった元の生活で用いていたものと変わりありませんでした。
脚注
*1貴人が座る低い足のついた小さな牀(寝台)。座布団のようなもの。
呂蒙
孫権は、群小の部将たちの中で、率いる兵が少なく、あまり役に立つ働きをしていない者たちの軍団を点検して、併合してしまおうと考えました。
別部司馬の呂蒙は、秘かに「つけ払い」で自分の兵士たちに赤い衣服と脚絆(脛に巻く布)を支給していたので、検閲の際に整列した呂蒙の軍勢はよく目立ちます。
また、呂蒙の兵士たちはよく訓練されていたので、孫権は大いに喜び、呂蒙の兵士を増やしてやりました。
駱統
孫権は、袁術に殺害された駱俊の子・駱統が揚州・呉郡・烏程県で治績を挙げたことを喜び、召し寄せて功曹に任命し、騎都尉の職務に当たらせると共に、従兄の孫輔の娘を彼に嫁がせました。
駱統は孫権の施策の不足部分を補い正すことに心を注ぎ、何か見聞きしたことがあると、夜中でも構わず上言し、孫権に勧めて、
- 賢者を尊重し立派な人物と親しく交わって、彼らの批判を積極的に求めるように。
- 臣下たちを饗される時には、1人1人を別々に御前に呼ばれ、彼らの生活の様子を尋ね、親密な気持ちで対して、彼らが思うところを存分に述べるようにいざなわれるように。
- また彼らが願っているところを察知し、みなが君恩に感謝し主君との関係を大切にし、心からご恩返しをしたいと願わせるようにされねばならない。
と説き、孫権はこの意見を納れて実行に移しました。
孫権から離れた人物
華歆
官渡で袁紹と対峙していた曹操は、上奏して華歆を召し出しました。
孫権は行かせまいとしましたが、華歆が、
「将軍(孫権)は王命をかしこみ曹公(曹操)と誼を通じたばかりで、お互いの交情もまだ固まっておりません。僕(華歆)が将軍(孫権)のために心を尽くせるようにしてくだされば有益かと思います。
今、空しく僕(華歆)を引き止めておられますが、それは役に立たぬ者を養っていることで、将軍(孫権)にとって良計ではありますまい」
と言うと孫権は喜んで、やっと華歆を行かせることにしました。
華歆を見送る賓客・旧友たちは千余人、餞別は数百金にのぼりましたが、華歆はすべて拒絶することなく受け取って、秘かにそれぞれ印をつけておきます。
そして出発の時になると、華歆は贈られた物をすべて集め、
「君たちの気持ちを拒みたくなかったので、受け取った物が結局多くなってしまった。1台の車で遠く旅することを思うと、財宝を持っていることが災難となるかもしれない」
と言い、それぞれ贈られた物を返したので、人々は彼の徳義に感服しました。
到着した華歆は、議郎に任命され、司空の軍事に参与しました。
孫輔
廬陵太守の孫輔は「孫権には江東の地を保持することできない」と心配して、孫権が揚州・会稽郡・東部国(東冶国)に行っている隙に、曹操に手紙を送って挨拶を通じようとしましたが、その使者が孫権に報告してしまいます。
孫権は東部国(東冶国)から戻ると、何知らぬ顔をして張昭と一緒に孫輔に会いました。
その場で孫権は、
「兄は私に愛想を尽かされたのか。どうして他人(曹操)に挨拶を通じたりされるのか?」
と尋ねます。
これに孫輔が「そんなことはありもしないことだ」と白を切ると、孫権は張昭に手紙を投げ与え、張昭がそれを孫輔に示しました。それを見た孫輔は、恥じ入って弁解の言葉もありませんでした。
そこで孫権は、孫輔の側近たちをすべて斬罪にし、部曲(配下の私兵)を分割して諸将に配属させ、孫輔は東方に強制移住させます。また、孫輔はそれから数年で亡くなりましたが、彼の息子の孫興、孫昭、孫偉、孫昕はそれぞれにしかるべき地位につきました。
李術
かつて孫策は、上表して李術を廬江太守に任命していましたが、孫策が死ぬと、李術は孫権の命令に従わず、同じく孫権に従わない呉からの亡命者を多数受け入れました。
孫権は廬江郡に公式の文書を送って亡命者の返還を求めましたが、これに李術は、
「徳のある者は人々から頼られ、徳のない者は人々に叛かれるのであります。返還するわけにはまいりません」
という返事をよこしました。
これに大いに腹を立てた孫権は、「李術が救援を求めて来ても応じない」ように曹操に手紙を送ると、この年、兵を動員して晥城(揚州・廬江郡・晥県)の李術を攻撃します。
孫権の手紙
すると李術は、城門を閉ざして守りを固め、案の定曹操に救援を求めますが、曹操は救援軍を出しませんでした。
晥城では食糧が尽き果て、婦女たちの中には泥を丸めて呑んで腹を満たす者もいる有り様で、しばらくして陥落します。孫権は李術を晒し首にし、その部下の兵士たち3万余人を強制移住させました。
孫権が兄・孫策の後を嗣いだ頃、華歆が議郎に任命されて朝廷に召し出されましたが、会稽東部都尉に任命された張紘が呉に帰還しました。
また孫権は、魯粛、呂蒙、董襲、駱統らを抜擢しますが、代替わりに不安を覚えた従兄の孫輔が曹操と内通。孫策が任命した廬江太守・李術も孫権の「亡命者の返還命令」を無視したため、孫権はこれを攻めて李術を晒し首にしました。