「官渡の戦い」の主戦場となった「官渡砦の攻防」と、袁紹と曹操の兵力差についてまとめています。
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目次
白馬の戦いと延津の戦い
袁紹が顔良・文醜を失う
建安5年(200年)2月、ついに袁紹は許県攻撃に乗り出しますが、黄河を渡って白馬県を攻撃した顔良は関羽に斬られ、延津に曹操を追った文醜も討死。たった2度の戦闘で、袁紹軍は双璧とも言える2人の大将を失ってしまいました。
その後、曹操は官渡に軍を返し、袁紹は軍を進めて司隷・河南尹・陽武県を守ります。
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沮授の諫言
延津で文醜が敗れると、沮授が袁紹を諫めて言いました。
「北方(袁紹)の軍勢は数は多いのですが、勇猛果敢さでは南方(曹操)に及びません。ですが、南方(曹操)の食糧はもはや残っておらず、経済面では北方(袁紹)に及びません。
南方(曹操)は短期決戦を有利とし、北方(袁紹)は持久戦を有利とします。ゆっくりと持ちこたえ、月日を引き延ばすのがよろしいでしょう」
ですが、袁紹はこれを聞き入れませんでした。
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官渡砦の攻防
許攸の進言
8月、袁紹は陣営を連ねて少しずつ前進し、砂山に沿って東西数十里に渡る陣を敷きました。
この時許攸は、
「公(袁紹)、曹操と撃ち合いはなさいますな。急ぎ諸軍を分けて対峙しつつ、他の道を通って真っ直ぐに天子(献帝)を迎えられませ。そうすれば、たちどころに事は成功しましょう」
と進言しましたが、袁紹は、
「儂はどうあっても先に奴(曹操)を包囲してやっつけねばならぬ」
と言い、これもまた聞き入れなかったので、許攸は腹を立てました。
官渡の攻防
袁紹が陣営を連ねて前進を開始すると、曹操もまた陣営を分けて合戦に及びましたが負け戦となり、官渡の砦に引き返します。
この時、曹操の兵は1万に満たないものでしたが、その2割〜3割が傷つきました。
袁紹は高い物見櫓を築き、盛り土の上から曹操の陣営の内部に矢を射かけたので、陣中にいた者たちはみな恐れ戦いて、楯を被って雨のように降り注ぐ矢を避けます。
これに曹操は「発石車(投石車)」を作って袁紹軍の櫓を目がけて発射し、それらをことごとく打ち砕いてしまったので、袁紹の軍勢はこれを「霹靂車*1」と呼んで恐れました。
そこで袁紹は、今度は地下道を掘って曹操の陣営を襲撃しようとしましたが、これに曹操はすぐさま陣内から長い塹壕を掘ってこれに対抗しました。
豆知識
この時、黄河を渡って司隷・河内郡・獲嘉国を攻撃していた楽進も帰還して力の限り戦い、曹操に帰順した張繡も力戦奮闘して手柄を立てたため、破羌将軍に昇進しています。
脚注
*1「霹靂」は急に雷が激しく鳴ること。石を発する時の音が激しく地を震わせたためこう呼ばれた。『范蠡兵法』によると「重さ12斤(約3kg)の石を3百歩(約210m)先まで飛ばすことができた」と言う。
荀彧の手紙
曹操が長期に渡って袁紹と対峙し続けたため、人々は疲弊しきり、多くの者が謀反を起こして袁紹に寝返り、兵糧も欠乏してきました。
事ここに至り、「許都(許県)に帰還したい」と考え始めた曹操は、荀彧に手紙を送って相談します。
すると荀彧は、返書を送って言いました。
「袁紹は官渡に全軍を集結させ、公(曹操)と勝敗を決しようとしております。公(曹操)は至弱をもって至強と戦っておられるのです。
もし制圧することができないならば、必ずつけこまれることになります。これこそ天下分け目の時です。
それに袁紹は、ただの一平民の豪傑に過ぎず、人を集めることはできても用いることはできません。そもそも公(曹操)は神のごとき武勇と英智がある上に、それを支えるものとして天子(献帝)を奉戴しているという大きな正義をお持ちです。成功できないはずがありません。
ただ今、我が軍の兵糧は乏しいとは申しましても、まだ楚(項羽)と漢(劉邦)が滎陽と成皐(成皋)の辺りで睨み合っていた時ほどではございません。この時、劉邦と項羽はどちらも先に退こうとはいたしませんでした。先に引き退いた方が屈服を余儀なくされるからです。
公(曹操)は、敵の1/10の兵力をもって境界を設けてそれを守るだけ、敵の喉元を締めつけていながら、前進することができないままもう半年にもなります。
内情が露わになり、勢いが尽き果てれば、必ず事変が起こるでありましょう。今こそ奇策を用いる時です。これを逃してはなりません」
これを受け曹操は、許都(許県)への帰還を思い止まりました。
袁紹の輜重を焼く
その後、荀攸は曹操に向かって言いました。
「袁紹の輸送車が今にも到着します。その大将の韓𦳣*2は、負けん気が強くて敵を軽く見る男です。攻撃すれば撃ち破ることができましょう」
そして曹操が「誰を派遣すれば良いだろう?」と尋ねると、荀攸は徐晃を勧めます。
そこで曹操は、徐晃と史渙を派遣してこれを迎え撃たせ、韓𦳣*2を撃破・敗走させて、その輜重(輸送物資)を焼き払いました。
脚注
*2別名:韓荀・韓猛・韓若
顔良・文醜を討たれた袁紹は、ついに自ら黄河を渡って陽武県に入ると、陣営を連ねて少しずつ前進を開始します。
ですが、曹操との直接対決に固執する袁紹は、曹操が籠もる官渡の砦を攻撃しましたが、曹操の頑強な抵抗に遭い、砦を落とす事ができないまま2ヶ月が経ちました。
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袁紹と曹操の兵力差について
この「官渡の砦の攻防戦」において、曹操の兵は「1万に満たない」とあり、この袁紹と曹操の兵力差について裴松之は「(曹操の)兵がこんなに少なかったはずはない」と言っています。
裴松之の分析
魏の武帝(曹操)は最初に兵を挙げた時、すでに5千の軍勢を持っていた。以後、百戦百勝、負けたことは10回に2、3回に過ぎぬ。
また、ただ1度黄巾を破っただけで降兵30余万を受け入れており、その他併呑したものは記しきれぬ程である。征伐・戦闘によって損傷したとしても、これ程少ないはずがない。そもそも陣営を築いて対峙し合うのは、鋒を交えて決戦するのとは異なる。
『魏書』武帝紀に「袁紹の軍勢は十余万、陣営は東西数十里に渡っていた」と言っている。魏の太祖(曹操)がいかに機に臨み変に応じ、不世出の才略を持っていたとしても、どうして数千の兵をもって長期に渡って抵抗することが可能であろうか。論理的に言っても、そうでなかったと密かに考える。
袁紹は数十里に渡って屯営を作り、公(曹操)は陣営を受けてそれと相対することができた。これが『兵が余り少なかったはずはない』という理由の第1である。
袁紹がもし、10倍の軍勢を持っていたならば、道理からして当然全力を挙げて包囲陣を固め、出入りを断ち切らせるに違いない。それなのに公(曹操)は徐晃らにその輸送車を攻撃させているし、公(曹操)もまた自身で出陣して淳于瓊らを攻撃し、軍旗を翻しながら往復しても、まったく抵抗や妨害に遭っていない。明らかに袁紹の力では制御できなかったのだ。これが『兵が余り少なかったはずはない』という理由の第2である。
諸事にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は8万だったとか、或いは7万だったとか言っている*3。そもそも8万人が逃げ散ったなら、8千人でよく捕縛し得るものではないのに、袁紹の軍勢はみな、手を拱いて捕らえられた。これが『兵が余り少なかったはずはない』という理由の第3である。
記述する者が数の少なさによって見事さを示したいと考えたのであって、事実を記録したものではない。
『魏書』鍾繇伝を調べると「公(曹操)が袁紹と対峙している時、鍾繇は司隷校尉であったが、2千余頭の馬を送って軍に補給した」と言っている。『魏書』武帝紀と『世語』ではいずれも、公(曹操)はその時「6百頭の騎馬を持っていた」と言っているが、鍾繇の送った馬はどこに行ってしまったのか。
脚注
*3『後漢書』袁紹伝に「兵士たちは袁紹の健在を聞き、徐々にまた集まって来た。残りの兵士たちは偽って曹操に降ったが、曹操は彼らをすべて穴埋めにし、およそ8万人を殺した」とある。
裴松之の分析について
裴松之はいくつか例を挙げて「曹操の兵が1万に満たなかったはずはない」と言っていますが、裴松之は、今回の「官渡の砦の攻防戦」と、いわゆる「官渡の戦い」全体の戦力差を混同しているように見受けられます。
では、「官渡の戦い」全体、および「官渡の砦の攻防戦」における「袁紹と曹操と兵力差」は、どのようなものだったのでしょうか。
袁紹と曹操の兵力差
「官渡の戦い」における「袁紹と曹操と兵力差」について明記されている史料はありませんので、多くの部分が推測になります。
袁紹軍
「官渡の戦い」の兵力
『魏書』武帝紀には、
「袁紹は公孫瓚を併合して4州[冀州・青州・幽州・幷州(并州)]の地を合わせ十余万の軍勢を持っており、軍を進めて許都(許県)を攻撃しようとしていた」
とあり、『魏書』袁紹伝には「軍勢数十万」とあります。
また『魏書』袁紹伝が注に引く孫盛の評に「後に冀州の戸籍を調査した曹操は、冀州だけで『30万の軍勢を手に入れることができる』と言った」とありますが、袁紹の出兵に反対した沮授と田豊が、
「これまで何年も出兵が続き、民衆は疲れ切っており、倉庫に貯えはなく、役務(労役)が盛んに行われております。これこそ我が国にとっての大きな心配事です」
と言っていることから、対曹操のために総動員をかけたとしても、20万程度だったと思われます。
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「官渡砦の攻防戦」の兵力
『魏書』袁紹伝に、
「軍勢数十万、審配と逢紀に事務を統括させ、田豊・荀諶・許攸を参謀に、顔良と文醜を将軍に任命し、精鋭の兵10万、騎兵1万騎を選り抜いて許都(許県)を攻撃しようとした」
とあり、『魏書』袁紹伝にが注に引く『世語』(『魏晋世語』)では、歩兵5万、騎兵8千騎。同・孫盛の評では、前述の曹操の言葉を挙げ、
「まして幽州・幷州(并州)、それに青州まで合わせればどうなるか。袁紹の一大軍事行動である以上、必ずや軍勢を総動員して起ち上がったに相違なく、10万というのは実数にちかいであろう」
と言っています。
おそらく袁紹は、精鋭兵10万、騎兵1万騎を率いて許都(許県)攻撃に向かい、残りの9万程度を黄河流域に配置していたものと思われます。
曹操軍
「官渡の戦い」の兵力
まず、裴松之の誤解について。曹操は「黄巾の降兵30余万人の中から、精鋭を選んで『青州兵』として編成した」のであって、降兵30余万人すべてを兵として受け入れたわけではありません。
その実数も史料に明記されていませんが、当時の国力から考えても10万人程度だと思われます。
つまり、袁紹が出陣した時点での兵力差は「袁紹軍:20万人 対 曹操軍:10万人」となり、この戦力差であれば張繡や関中の諸将が曹操に帰順したのも頷けます。
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「官渡砦の攻防戦」の兵力
ですが、幽州の公孫瓚を併合して全兵力を曹操に向けることができた袁紹と違い、曹操は、
- 袁紹と領土を接する黄河流域
- 袁紹と手を結んだ荊州の劉表
- 本拠地・許都(許県)の守備
- 政情不安定な徐州
などに兵を割く必要がありました。
また、汝南郡では黄巾・劉辟らの反乱を許して豫州(予州)の諸郡が袁紹に帰順し、再度劉備が侵攻して来た際にはわずかな兵で汝南郡を奪われていることから、上記以外の地域は手薄であったことが窺えます。
ですがそれでも、陣営を連ねて南下して来た袁紹軍を迎え撃てる軍勢(官渡周辺の軍勢)は、せいぜい3〜4万人程度だと思われます。
そして曹操は、陣を分けて袁紹軍を迎え撃ちましたが敗北。『魏書』武帝紀の記述が「敗北して官渡の砦に入った曹操が『直接率いていた兵』が1万人に満たなかった」と言っていると解釈すれば、矛盾しません。
その後、他陣の部隊が合流、または外部から連携していたとすれば、官渡の砦を持ちこたえることも可能でしょう。
つまり、「官渡の砦の攻防戦」における袁紹と曹操と兵力差は、「袁紹軍:11万人 対 曹操軍:3〜4万人」であったと推測できます。
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袁紹と曹操の兵力差
「官渡の戦い」の兵力差
袁紹軍:20万人 対 曹操軍:10万人
「官渡砦の攻防戦」の兵力差
袁紹軍:11万人 対 曹操軍:3〜4万人
「官渡の戦い」における袁紹と曹操と兵力については、袁紹軍:10万前後に対し、曹操軍については「1万に満たなかった」「1〜2万」「4万」「3〜5万」「7〜8万」など諸説あります。
ちなみに『三国志演義』では、「袁紹軍:70余万 対 10万」とされています。