建安5年(200年)、曹操と袁紹が官渡で戦いを繰り広げていた時のこと。曹操の背後に当たる汝南郡で起こった黄巾・劉辟らの反乱と、劉備・関羽の動向についてまとめています。
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目次
汝南黄巾・劉辟の反乱
建安5年(200年)の情勢
劉備が袁紹を頼る
建安5年(200年)春正月、曹操は徐州刺史・車冑を殺害して徐州で独立した劉備を征討するため自ら出陣します。
この時、冀州別駕の田豊は「曹操の背後を襲うように」と袁紹に進言しましたが、袁紹は「息子の病気」を理由にこれを拒絶し、出陣を許可しませんでした。
曹操に敗れた劉備は袁紹を頼って冀州に逃亡し、後方の徐州・下邳国・下邳県の守備を任されていた関羽は曹操に降伏します。
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白馬の戦いと延津の戦い
建安5年(200年)2月、ついに袁紹は許県攻撃に乗り出しますが、黄河を渡って白馬県を攻撃した顔良は関羽に斬られ、延津に曹操を追った文醜も討死。たった2度の戦闘で、袁紹軍は双璧とも言える2人の大将を失ってしまいました。
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孫策の死
ちょうど九江郡を除く揚州の平定を終えた孫策は、曹操と袁紹が官渡で戦いを繰り広げている隙に許都(許県)を襲撃しようと計画し、背後を脅かす広陵太守・陳登の討伐に出陣します。
ですがその途上、以前、私怨により処刑した許貢の食客による襲撃を受けた孫策は、その時受けた傷が元で命を落としてしまいました。建安5年(200年)4月のことです。
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劉辟の反乱と劉備の出陣
この頃、豫州(予州)・汝南郡の黄巾・劉辟*1らが曹操に反旗を翻し、袁紹に呼応しました。
すると袁紹は、劉備に軍兵を指揮させて、劉辟*1らと共に許都(許県)の周辺を荒らし回らせます。
豫州(予州)・汝南郡
また袁紹は、豫州(予州)の諸郡を味方につけようと誘いの手を伸ばし、多くの郡がその誘いを受け入れました。
脚注
*1『魏書』武帝紀では「汝南の降伏した賊将・劉辟」。また、建安元年(196年)2月、「太祖(曹操)は軍を進めて彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った」とあり、同名の別人の可能性もあるが、劉辟は斬られたのではなく降伏していたものと思われる。
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李通と趙儼
李通の忠義
袁紹は陽安都尉*2の李通にも使者を派遣して征南将軍に任命し、(袁紹と結んでいる)劉表もまた秘かに彼を誘いましたが、李通はどちらも拒絶しました。
これを知った李通の親戚や配下の者は涙を流して言いました。
「今、孤立し危険な状況の中で1人守備しており、強力な援助もありません。滅亡はたちまちのうちに訪れましょう。早く袁紹に従う方がよろしいと存じます」
すると李通は、剣の柄に手をかけて彼らを叱りつけると、
「曹公(曹操)は賢明な方で、必ず天下を平定される。袁紹は強力で威勢が良いが、任用がでたらめだ。最後は公(曹操)に捕らえられることになるだろう。儂は死んでも裏切らぬ」
と言って袁紹の使者を斬り、(袁紹が送った征南将軍の)印綬を曹操に送り届けました。
脚注
*2汝南郡から2県を分割して設置された陽安郡の太守代行。
趙儼の諫言
また李通は、曹操に対して二心がないことを示すため、徴収して得た綿・絹を送ろうと、戸調(家ごとに割り当てられた税)を取り立てます。
これを知った朗陵県長の趙儼は、李通に会って言いました。
「現在天下はまだ安定を見ず、諸郡はいずれも反逆しております。お味方として懐いている者たちからさらに綿や絹を取り立てるとなれば、小人は混乱を願い、遺恨を持たずにはいられないでしょう。遠近を問わず厄介事が多い現状、充分に気を配る必要があります」
これに李通が、
「公(曹操)は袁紹と対峙し、事態は差し迫って、近隣の郡県もすでに反逆している。
もし綿や絹を取り立てて送らなければ、周囲は我々が日和見をして形勢がはっきりするのを待っているのだと受け取るに違いない」
と答えると趙儼は、
「まことにあなたの心配される通りでしょう。ですが、それでも取り立てを緩和するべきです。私があなたの懸念を解消してみせましょう」
と言い、そこで荀彧に文書を送って言いました。
「今、陽安郡では綿や絹を送るべきところでありますが、道が険阻ですから被害を招くに違いありません。民衆は困窮し、近隣の城はすべて背いており、崩壊しやすい状況でございまして、まさに一方面の安危の分かれる時です。
その上、この郡の民衆は忠節を保持し、危険な状況下にあって二心を抱いておりません。わずかな善でも必ず誉めるならば、道義を行う者の励みになります。
国を立派に治める者は、国のために徴収するのではなく、民衆に所蔵させるものです。考えますに、国家は労りの心を示され、取り立てました綿と絹はすべて返還させるのがよろしいかと存じます」
趙儼の文書を受けた荀彧はすぐさま曹操に報告し、徴収された綿と絹は民衆に返還されました。その結果、陽安郡では上も下も歓喜し、郡内は安定しました。
その後李通は、郡にいる賊の瞿恭・江宮・沈成らを攻撃して徹底的に撃ち破り、淮水・汝水の地域を平定すると、彼らの首を曹操に送りました。
何夔の進言
またこの頃、曹操は初めて新しい条例を制定して州郡に下し、また租税と綿絹を取り立てました。
この時、長広太守*3の何夔は、郡が設けられたばかりであるし、出兵した後であることから、急に法律で取り締まるべきでないと考え、「3年ほどして民が各自の生業に落ち着いた頃を見計らい、改めて彼らを法律によって取り締まる」ように進言し、曹操はこれに従いました。
何夔の進言・全文
脚注
*3『資治通鑑』胡三省注に「青州・東萊郡・長広県。当時、曹操は楽進を青州に侵入させ、長広県を収めて郡とした」とある。
*4千里四方の王畿を中心に、その外を五百里ごとに1服とした九つの区域のこと。中心から侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服の9つとし、それぞれ税を異にさせた。『周礼』職方氏にみえる。
*5新しくできた国は軽典(軽い法律)、平和に続いている国は中典(通常の法律)、クーデターや反逆が起こった国は重典(重い法律)を用い、その国の状況に応じて3つの法律を使い分けたこと。『周礼』大司寇にみえる。
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関羽の帰還
関羽の降伏
これより以前のこと。
建安5年(200年)春正月、自ら出陣して豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)の劉備を敗走させた曹操は、そのまま徐州・下邳国・下邳県に侵攻。劉備に下邳県の守備を任されていた関羽を捕虜にして帰り、偏将軍に任命して大変手厚く礼遇しました。
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曹操の徐州奪還戦。劉備が袁紹の下に逃亡し、関羽が曹操に降伏する
関羽の忠義
曹操は関羽の立派な人柄を高く評価していましたが、関羽の心に「長く留まる意思がない」ことを察して張遼を呼び、
「個人的に彼(関羽)の気持ちを聞いてみてはくれまいか」
と頼みました。
これを受け、張遼がそれとなく関羽に尋ねてみると、関羽は嘆息して、
「曹公(曹操)が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし、私は劉将軍(劉備)から厚い恩誼を受けており、一緒に死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。
私は絶対に留まりませんが、私は必ず手柄を立てて、曹公(曹操)に恩返ししてから去るつもりです」
と言いました。
張遼は関羽の言葉を曹操に報告しようとしましたが、曹操が思い通りにならない関羽を殺すのではないかと恐れ、また一方で、報告しなかったならば「君臣の道」に背くことになることを恐れました。
結局張遼は「曹公(曹操)君であり父であり、関羽は兄弟に過ぎぬ」と曹操に報告したところ、曹操は、「君主に仕えてその根本を忘れないのは、天下の義士である」と言い、「いつ頃立ち去ると思うか?」と尋ねたので、張遼は、
「関羽は公(曹操)のご恩を受けておりますゆえ、必ず手柄を立てて公(曹操)に恩返しをしてから立ち去るでありましょう」
と答えました。
関羽の帰還
「白馬の戦い」で関羽が顔良を斬ると、曹操は彼が去ってしまうのではないかと思い、即刻上表して関羽を漢寿亭侯に封じ、重い恩賞を与えました。
ですが関羽は、それらの贈り物にことごとく封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、言葉通り袁紹の軍にいる劉備の下に逃げ帰ってしまいます。
側近の家来たちは関羽を追跡しようとしましたが、曹操は、
「彼は彼なりに主君のために尽くしているのだ。追ってはならない」
と言い、その志を嘉し(良しとする。誉める)、立ち去っても追っ手を差し向けず、その道義を成就させました。
『三国志演義』では許昌(許都)から鄴県を目指した関羽ですが、おそらくこの時関羽は曹操と供に官渡におり、劉辟らと許都(許県)の周辺を荒らし回っていた劉備の下に帰ったものと思われます。
また、5つの関所で6人の守将を斬って劉備の下に帰ったというエピソードは、『三国志演義』の創作になります。
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汝南郡の攻防
曹仁が劉備を破る
劉備が汝南郡・㶏彊国を攻め取ると、多くの県が挙兵してこれに呼応しました。そのため、許都(許県)以南の官民は動揺し、曹操はこれを憂慮しました。
豫州(予州)・汝南郡・㶏彊国
そこへ曹仁が、
「南方では『我が大軍は目前の急務があるから救援できない情勢にある』と判断しております。そこを劉備が強力な軍隊を擁して向かって来たのですから、彼らが叛旗を翻すのも当然です。
ですが、劉備は袁紹の軍隊を率いてから日も浅く、まだ思いのままに動かせるまでにはなっておりませんから、今これを攻撃すれば撃ち破ることができます」
と進み出ると、曹操はもっともだと頷いて、曹仁に騎兵を率いて劉備を攻撃させ、これを敗走させました。
その後曹仁は、叛旗を翻した諸県をすべて取り戻して帰還します。
劉備が蔡陽を斬る
曹仁に敗れた劉備は袁紹の軍営に帰りつきましたが、秘かに袁紹の下から離れたいと思うようになり、袁紹に「南方の荊州牧・劉表と連合するように」と進言します。
これを受け、袁紹が劉備に本来の部下たちを指揮させて再び汝南郡に向かわせると、劉備は賊軍の龔都らと合流し、その軍勢は数千人になります。
曹操は蔡陽(蔡楊・蔡揚)を派遣してこれを攻撃させましたが、蔡陽(蔡楊・蔡揚)は劉備によって殺されました。
建安5年(200年)、豫州(予州)・汝南郡の黄巾・劉辟らが曹操に反旗を翻して袁紹に呼応すると、袁紹は劉備を派遣して、劉辟らと供に許都(許県)の周辺を荒らし回らせました。
この時、曹操に降っていた関羽が曹操の下を去り、劉備と合流しています。
その後曹仁に敗れた劉備は「袁紹の下から離れたい」と思うようになり、再度汝南郡の賊・龔都らと合流して、曹操が討伐に派遣した蔡陽(蔡楊)を斬りました。
建安5年(200年)4月から7月頃のことです。