建安5年(200年)4月の「孫策の死」と、孫権が呉(孫氏)を継承する過程についてまとめています。
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許貢の食客による孫策襲撃
孫策が許貢を処刑する
興平2年(195年)、孫策配下の丹陽都尉・朱治が、呉郡・銭唐県から呉県に進出しようとすると、呉郡太守・許貢が由拳県でその行く手を阻んで来ましたが、朱治はこれと戦って徹底的に撃ち破ります。
許貢は南に逃げて山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)の不服従民、厳白虎(厳虎)の元に身を寄せました。
呉郡の平定戦
その後許貢は、
「孫策は武芸に長けた英傑で、秦末に天下を争った項籍(項羽)と似ております。宜しく恩寵を加え、京邑に召し還されますように。もし詔を受ければ京邑に還らぬわけにはゆきますまい。もし地方に放置されますれば、必ずや世の患となりましょう」
という上表をしますが、孫策の斥候(偵察隊)がこの上表文を手に入れて、孫策に届けていました。
その後厳白虎を討伐して敗走させた孫策は、彼の元に身を寄せていた許貢に会見を申し入れ、この上表のことを責めました。
それでも許貢は「上表などしていない」と弁解するので、孫策はその場で力のある兵士に許貢を絞殺させました。
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許貢の食客による孫策襲撃
建安5年(200年)、曹操と袁紹が官渡で戦いを繰り広げている隙を突いて、孫策は許都(許県)襲撃を計画します。
そして孫策は、許都(許県)襲撃に先立って厳白虎(厳虎)の残党を煽動して江南の併合を目論む広陵太守・陳登の討伐に出陣し、揚州・呉郡・丹徒県まで進んだところで兵糧の到着を待つため軍を留めました。
揚州・呉郡・丹徒県
ですが、兵糧の到着を待つ間 趣味の狩猟に出た孫策は、そこで許貢の食客の襲撃を受け、頬に矢を受ける重傷を負ってしまいます。
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孫権が孫策の後を嗣ぐ
孫策の死
孫策を診察した医者は、「この傷は致命傷にはならないが、よく自分で気をつけて、100日の間は動いてはならない」と言いつけました。
ですが、鏡を手に取って自分の顔を映してみた孫策は、
「顔がこんな事になってしまって、それでも功を建て事を成し遂げることができようかっ!」
と叫び、几(前に置いて寄りかかる脇息の一種)を叩いて激昂したので、傷口がみな開いてしまいます。
重体となった孫策は、張昭たちを呼び寄せて言いました。
「今、中原の地は混乱の中にあるが、呉越の地の軍勢と三江*3の固い守りをもってすれば、成り行きを見守りつつ行動を起こすことができる。どうか俺の弟(孫権)をよく補佐してやってくれ」
その後孫策は、孫権を呼んで自分の印綬を佩びさせると、今度は孫権に向かって、
「江東の軍勢を総動員して敵と対峙しつつ、機を見て行動を起こし、天下の群雄たちと雌雄を決するといったことでは、お前はこの俺に及ばない。
しかし、賢者を取り立て能力ある者を任用し、彼らに喜んで仕事に力を尽くさせて江東を保ってゆくといったことでは、お前の方が俺よりも上手だ」
と言い遺し、その夜、孫策は亡くなりました。建安5年(200年)4月4日、享年26歳でした。
脚注
*3三江は元来『尚書』禹貢篇に出る語で長江下流域から銭塘江辺りまでの河川を言う。どの河川を三江に当てるかについては、古来たくさんの説が提出されて一致を見ない。
『資治通鑑』の胡三省注には、韋昭:呉松江、銭塘江、浦陽江、『呉地記』:婁江、東江、松江の2例が挙げられている。
道士・于吉
これより以前、孫策は自分よりも部下たちに信奉されている道士の于吉を罪もなく処刑したことがありました。
孫策は于吉を殺して以降、1人で座っていると、いつも側に于吉の姿がぼんやりと見えるような気がしてひどく心が苛立ち、常態を逸することが多くなりました。
後に傷がほとんど癒えかかった頃のこと。鏡を手に取って自分の顔を映してみたところ、鏡の中に于吉の姿が見えました。後ろを振り返っても誰もおらず、また鏡を覗き込んでみれば、やはりそこには于吉の姿があります。
孫策は思わず鏡を殴りつけて絶叫すると、傷口がみな裂けて、間もなく死んでしまいました。
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郭嘉の予言
『魏書』郭嘉伝に、「江東を平定した孫策が許都(許県)襲撃を計画していることを聞いて懼れる人々に、郭嘉が『孫策の死』を予言する」エピソードが記されています。
郭嘉の予言(全文)
ですが、裴松之はこれを、
「郭嘉が孫策の軽はずみな性格から、必ず匹夫の手にかかって死ぬと予測したことを述べているが、まことに物事の判断が明晰であったと言える。しかしながら、最高の智者でない限りは、その人の死が何年であるかを予知できるはずがない。今、ちょうど許都(許県)を襲撃する年に死んだのは、それこそ偶然の符合であろう」
と言っています。
この時孫策には、子にまだ幼い孫紹がいましたが、孫策は当時19歳であった孫権を後継者に選び、孫権が皇帝を名乗るようになると、孫紹は呉侯に封ぜられ、後に上虞侯に改封されました。
『魏氏春秋』・『雑記』などを著した孫盛は、
「このようにすることによって、国家が人々の意向を無視して勝手なことをしたという非難を浴びることもなく、後嗣ぎたちもいらぬ疑惑にかかることなく、人々の心の中からあるまじき議論をぬぐい去り、不満を抱く連中のあわよくばという心を抑え塞ぐことができたのである。
心情として忍びないところがあり、やり方としては十全でないとは言え、遠い将来を見通して計画をまとめ、永くその領土を保ってゆくという点から言えば、事の起こらぬ先に手を打ち、乱れぬ先に治めたものだと言えるのである」
と評価しています。
孫権への継承
孫策の遺言を受けた張昭は百官たちを取りまとめ、孫権を呉の主君として立てると、自らはその補佐にあたることになり、漢の王室に「孫権が孫策の後を嗣いだこと」を上表して知らせると共に、配下の城々に文書をまわして、中央や地方の部将とその副官たちに「孫策の時と変わらずそれぞれの職務に励むように」と命じました。
ですが当の孫権は、孫策の死に心を痛めてすぐには政治を執りませんでした。
孫策の長史であった張昭は、そんな孫権に向かって言いました。
「孝廉(孫権)さま、今はお兄さまを想って泣いておられるような時でしょうか。
周公が服喪の掟を定めたのに、その子の伯禽がそれに従わなかったという例もございます。父に背こうとしたのではありません。当時の情況がそれを許さなかったのです。
ましてや今は悪巧みが内からも外からも競い起こり、豺狼*4どもが道々にあふれております。こうした時、近親者の死を哀痛し『礼の定め』を守ろうとされますことは、門を開けて盗賊たちにどうぞお入り下さいと会釈するようなもので、仁ある行いとは申せません」
そう言うと孫権の喪服を脱がせ、手を貸して馬に乗せると、外に出て軍陣を巡察させました。
またこの時、揚州・廬陵郡・巴丘県に駐屯していた中護軍の周瑜は、兵を引き連れて葬儀に駆けつけるとそのまま呉県に留まり、長史の張昭と共にすべての事務を取り仕切りました。
当時、呉(孫氏)がおさえていたのは、揚州の、
- 会稽郡
- 呉郡
- 丹楊郡(丹陽郡)
- 豫章郡
- 廬江郡
- 廬陵郡
だけで、しかもこれらの諸郡の中でも奥地の険阻な地域はすべてが服従しているわけではありませんでした。
建安5年(200年)4月の群雄勢力図
加えて、天下に名のある英雄豪傑たちが各地の州や郡におり、その下に賓客となり世話になっている人物たちも、情勢の安危を見て身を寄せるべき主を物色していて、まだ主君と臣下の関係が固まっているわけではありません。
張昭や周瑜たちは、孫権が共に大事を成すに足る人物だと見込んで、心を寄せて彼に仕えました。
脚注
*4ヤマイヌとオオカミ。転じて残酷で欲深い人。
孫権の人事
孫権が孫策の後を嗣いだことを受け、曹操は上表して孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守の職務を兼任させました。
これに孫権は揚州・呉郡・呉県に軍を留め、郡丞(太守の次官)を会稽郡に派遣して文書の処理に当たらせると、
張昭を師傅(助言役)として礼遇し、
- 周瑜
- 程普
- 呂範
らを軍の指揮官に任命しました。
また、優れた人物を招き寄せ、名士たちを鄭重な礼で呼び寄せたので、
- 魯粛
- 諸葛瑾
たちがこの時に賓客となりました。
また、部将たちを各地に派遣して山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)を鎮撫し、命令に従わない者たちを討伐させました。
建安5年(200年)、曹操と袁紹が官渡で戦いを繰り広げている隙を突いて、許都(許県)襲撃を計画した孫策は、前年の黄祖討伐の際に陳登から後方攪乱工作を受けたことから、先に陳登討伐に出陣しましたが、その途上、以前孫策が処刑した許貢の食客の襲撃を受け、重傷を負ってしまいます。
自分の死を悟った孫策は、弟の孫権を後継者に選んで張昭らに後事を託して亡くなり、長史の張昭、中護軍の周瑜らが新当主・孫権を支える体勢ができあがりました。