建安5年(200年)10月、曹操が袁紹軍の食糧貯蔵地を襲った「烏巣急襲」と「官渡の戦い」の終結までをまとめています。
スポンサーリンク
官渡砦の攻防
許攸の諫言
建安5年(200年)8月、黄河を渡って司隷・河南尹・陽武県に入った袁紹は、陣営を連ねて少しずつ前進し、砂山に沿って東西数十里に渡る陣を敷きました。
この時許攸は、
「公(袁紹)、曹操と撃ち合いはなさいますな。急ぎ諸軍を分けて対峙しつつ、他の道を通って真っ直ぐに天子(献帝)を迎えられませ。そうすれば、たちどころに事は成功しましょう」
と進言しましたが、袁紹は、
「儂はどうあっても先に奴(曹操)を包囲してやっつけねばならぬ」
と言い、これもまた聞き入れなかったので、許攸は腹を立てました。
官渡砦の攻防
袁紹の進軍に対し、曹操は陣営を分けてこれを迎え撃ちますが、負け戦となって官渡の砦に引き返します。この時、曹操の兵は1万に満たないものでしたが、その2割〜3割が傷つきました。
袁紹は盛り土の上から曹操の陣営の内部に矢を射かけますが、曹操は発石車(霹靂車)で対抗。一方で奇襲部隊を派遣して袁紹の輸送車を襲撃させ、大いにこれを撃破してその食糧のことごとくを焼き払います。
その後曹操は袁紹と2ヶ月に渡って連戦してその将を斬りましたが、軍勢は少なく食糧は尽き、士卒の疲労はピークに達していました。
これを見た曹操は、輜重隊(輸送部隊)の者に向かって、
「あと15日でお前たちのために袁紹を撃ち破り、これ以上お前たちに苦労はかけぬ」
と言いました。
関連記事
スポンサーリンク
烏巣急襲
輸送隊の出発
冬10月、袁紹は再び輸送車を出して穀物を運搬することとし、淳于瓊ら5人に1万余人の兵を与えて護送させ、彼らは袁紹の営の北・40里(約17.2km)の烏巣に宿営しました。
烏巣
この時沮授は、
「彼らとは別に将軍・蔣奇(蒋奇)を派遣し、別働隊として外側から曹公(曹操)の略奪を防ぐべきです」
と進言しましたが、袁紹はまたこれを聞き入れませんでした。
前述の「許攸の進言」のタイミングは『魏書』武帝紀によります。『後漢書』袁紹伝では、ここで許攸が前述の進言をしています。
許攸の寝返り
ちょうどこの頃、袁紹の謀臣・許攸が曹操の下に身を寄せて来ました。
許攸は財貨に貪欲で、袁紹がその欲求を満足させることができなかったため、曹操の下にやって来たのです*1。
許攸がやって来たことを聞いた曹操は裸足で彼を出迎えると、手を叩いて笑いながら、
「子遠(許攸の字)よ、卿が遠くからやって来たのだから、我が事は成ったっ!」
と言いました。
中に入って座に着いた許攸は、曹操に向かって言いました。
「袁氏(袁紹)軍の勢いは盛んです。どのように対処するつもりですか?また、(曹操軍には)今はどれだけの食糧がありますかな?」
この質問に曹操が、
「まだ一年は支えることができる」
と答えると許攸は、
「そんなことはないでしょう。もう一度お答えください」
と、もう一度問い直します。そこで曹操がまた、
「半年は支えることができる」
と答えると、許攸はまた、
「足下は袁氏(袁紹)を撃ち破るおつもりではないのですか。どうして事実ではないことをおっしゃるのです?」
と言いました。すると曹操は、
「今までの言葉は冗談だ。実際はあと一月で食糧が尽きる。どうしたらよかろう?」
と答え、許攸に打開策を尋ねます。
これに許攸が、
「公(曹操)は孤軍で対峙しておられ、外部からの救援もない上に、食糧はすでに尽きているはずです。これぞまさに危急の時。
今、袁氏(袁紹)の輜重(輸送物資)・1万余台は故市・烏巣に置かれており、駐在の軍は厳重な防備をしておりません。
今、不意を突いて軽鋭の兵でこれを襲撃し、その貯蔵を焼き払えば、3日と待たずに袁氏(袁紹)は自ずから敗れましょう」
と答えると、曹操は大いに喜びました。
脚注
*1『魏書』武帝紀による。『後漢書』袁紹伝では、その理由を「たまたま許攸の家の者が法を犯し、審配がこれを捕らえて獄に繋いだため」としている。
烏巣急襲
烏巣強襲
曹操の側近の者は許攸の言葉に疑いを持っていましたが、荀攸と賈詡だけは「許攸の言葉を信じる」ように勧めました。
そこで曹操は、曹洪と荀攸に留守を守らせ、自ら5千人の歩兵・騎兵を指揮することにし、みな袁紹軍の旗や幟を用いさせ、枚(声を立てないためにくわえる木片)をくわえて馬の口を縛り、夜の間に間道から出発します。
1人1人薪の束を抱え、道の途中で質問されることがあれば、
「袁氏(袁紹)は曹操が輜重(輸送物資)を守る後軍を襲撃することを懸念され、兵を派遣して防備を増強されるのです」
と答えました。質問した者は、みなこれを信じて平然としていたので、夜の明ける頃には烏巣に到達します。
淳于瓊らは曹操の兵が少数なのを見て営門の外に出て陣取りましたが、曹操が急遽これを攻撃すると、退いて陣営を守りました。
曹操はそのまま攻撃を続け、屯営を包囲して盛んに火を放ったので、営中は驚いて混乱します。
張郃と郭図の確執
「淳于瓊らが曹操の攻撃を受けた」ことを知った袁紹は、長子の袁譚に言いました。
「たとえ彼奴(曹操)が淳于瓊らを攻撃しても、我が軍が奴(曹操)の陣営を攻め落とせば、奴(曹操)は帰るところがなくなる」
すると、寧国中郎将の張郃は、
「曹公(曹操)の兵は精強ですから、淳于瓊らを撃ち破るに違いありません。淳于瓊らが敗れれば、将軍(袁紹)の事業はそれで終わってしまいます。急ぎ兵を引き連れ彼らを救援すべきです」
と進言しましたが、これに郭図が次のように反論します。
「張郃の計略は間違いです。敵の本陣(官渡)を攻撃する方が良策です。本陣を攻撃すれば、曹操は必ず引き返します。これこそ烏巣を救援しなくても、自然に解決する方法です」
それでも張郃は、
「曹公(曹操)の陣営は堅固ですから、それを攻撃しても陥とせないに違いありません。もし淳于瓊らが捕らえられでもすれば、我々はすべて捕虜となりましょう」
と烏巣の救援を主張しますが、袁紹はただ軽装の騎兵を派遣して淳于瓊を救援させただけで、張郃と高覧に重装の兵を与えて曹洪が守る曹操の陣営を攻撃させました。
烏巣の陥落
袁紹の救援軍が烏巣に向かっていることを知ると、曹操の側近の中には、
「賊(袁紹軍)の騎兵が次第に近づいております。兵を分けて彼らを防がれますように」
と進言する者がいましたが、曹操は大いに怒り、
「賊(袁紹軍)が背後に来れば申せっ!」
とだけ言って烏巣攻撃を続けたので、士卒たちはみな必死になって戦い、淳于瓊らを散々に撃ち破ってその糧穀宝貨をことごとく焼き払い、
- 督将の眭元進
- 騎督の韓莒子
- 騎督の呂威璜
- 騎督の趙叡
らの首を斬り、将軍・淳于仲簡(淳于瓊)の鼻を削ぎましたが、彼はまだ死にませんでした。
さらに士卒千余人を殺害して全員鼻を削ぎ取り、牛や馬は唇や下を切り取りって袁紹軍に誇示したので、袁紹の将兵はみな恐れ戦きました。
淳于瓊を斬る
その日の夜中になって、淳于仲簡(淳于瓊)を捕らえた者が本営に連れて来ると、曹操は、淳于仲簡(淳于瓊)に向かって、
「どうしてこうなったのだ?」
と問いました。すると淳于仲簡(淳于瓊)は、
「勝敗は当然天にある。どうして質問する必要があろう」
と答えました。
曹操は心中、彼を殺さないでおきたいと思っていましたが、許攸が、
「明朝、彼が鏡を見れば、それこそ絶対に我々に対する怨みを忘れませんぞ」
と言ったので、結局淳于仲簡(淳于瓊)を殺しました。
スポンサーリンク
官渡の戦いの終結
張郃と高覧の帰順
曹操が烏巣で淳于瓊を撃ち破ると、袁紹軍に戦慄が走ります。
すると郭図は自分の計略が失敗したことに恥じ入り、
「張郃は我が軍の敗北を喜び、不遜な言葉を吐いております」
と、張郃を讒言しました。
曹洪が守る曹操の陣営を攻撃していた張郃はこれを知ると身の危険を感じ、攻撃用の櫓を焼き払って高覧と共に曹操に降伏します。
張郃らがやって来ると、曹洪は疑惑を抱いて迎え入れようとしませんでしたが、荀攸が、
「張郃は自分の計略が採用されなかったのに腹を立ててやって来たのです。あなたはどうして疑うのですか?」
と言ったので、ようやく曹洪は彼らを迎え入れました。
袁紹の逃走
張郃と高覧が降伏すると袁紹の軍勢は総崩れとなり、袁紹と袁譚は軍を棄て黄河を渡って逃走。曹操はこれを追いましたが、追いつけませんでした。
その後曹操は、袁紹軍の輜重(輸送物資)・図書・珍宝類をすべて没収してその部下を捕虜にし、袁紹の残りの軍兵のうち本心から降伏していない者8万人をすべて生き埋めにしました。
曹操が官渡の砦で袁紹軍と対峙して2ヶ月が経過した建安5年(200年)10月、曹操の下に身を寄せて来た袁紹の謀臣・許攸によって「袁紹軍の食糧が集められた烏巣が手薄であること」を知った曹操は、自ら5千人の歩兵・騎兵を指揮して烏巣を強襲しました。
袁紹配下の張郃は「烏巣への救援」を進言しましたが、袁紹は烏巣に軽装の騎兵を派遣しただけで、張郃と高覧に曹操の本陣である官渡砦の攻撃を命じます。
その後、烏巣は陥落。これを知った張郃と高覧は曹操に降伏し、袁紹軍は総崩れとなって、袁紹と袁譚は軍を棄て黄河を渡って逃走しました。