劉岱・王忠の敗北後、袁紹と対峙していた曹操が自ら出陣した「徐州奪還戦」についてまとめています。
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目次
劉備が謀叛し袁紹と結ぶ
劉備が徐州を奪う
建安4年(199年)、勢力を維持できなくなった袁術は、袁紹と合流するべく北上を開始します。
これに曹操は、劉備を「袁術討伐」に向かわせますが、揚州・九江郡・寿春県に引き返した袁術は、その途上で病死してしまいました。
ですが、その後劉備は許県には帰らず、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に入ると、徐州に侵攻して曹操が任命した徐州刺史・車冑を殺害し、関羽に下邳県を守備させて自分は沛県(小沛)に戻ります。
すると、徐州・東海郡の独立勢力・昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)がこれに呼応して反乱を起こし、郡県の多数が曹操に背いて劉備に味方しました。
そして数万の軍勢を擁するようになった劉備は、孫乾を派遣して袁紹と連合します。
劉備が背き、車冑を殺害して徐州を乗っ取ったことを知った曹操は、
- 司空長史の劉岱
- 中郎将の王忠
を派遣して劉備を攻撃させますが、徐州を奪い返すことはできませんでした。
建安4年(199年)12月の三国志群雄勢力図
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曹操誅殺計画の漏洩
建安5年(200年)春正月、董承らの「曹操誅殺」計画が漏洩し、この計画に参画した、
- 車騎将軍・董承
- 偏将軍・王子服(王服)
- 長水校尉・种輯
- 議郎・呉碩
らは曹操にことごとく誅殺され、三族を皆殺しにされました。
元々劉備もこの計画に参加していましたが、袁術討伐のため許県を出ていたことから誅殺を免れることができました。
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曹操の出陣と袁紹の反応
曹操の出陣
徐州に派遣した劉岱・王忠が敗れると、曹操は自ら劉備を征討しようとします。
すると諸将は、
「公(曹操)と天下を争っているのは袁紹です。今にも袁紹が攻め寄せて来ようとしているのに、それを放置して東(徐州)に向かわれるとは。袁紹がこの出陣につけ込んで背後から攻撃を仕掛けて来たら、一体どうなさるおつもりですか」
とこの出陣に反対します。すると曹操は、
「そもそも劉備は人傑だ。今攻撃しなければ、後の禍となるに違いない。袁紹は大きな志を持ってはいるが、機を見るに敏ではない。きっと行動は起こさないだろう」
と言いました。
豆知識
『魏書』郭嘉伝が注に引く『傅子』には、この時曹操が「劉備征討」について郭嘉に相談していたことが記されています。
「太祖(曹操)は早いうちに劉備を征伐したいと考えた。論議に参加した者たちは、出陣の後に袁紹がその背後を攻撃すれば、進んでは戦うことができず、退いては根拠地を失う結果を招くと心配した。太祖(曹操)はためらい、そのことを郭嘉に相談した。
郭嘉は太祖(曹操)に勧めて言った。
『袁紹の性格はグズで ためらい が多い男です。(攻めて)来るのは決して早くはないでしょう。劉備は兵を起こしたばかりで、人々の心をまだ心服させておりません。急遽、奴(劉備)を攻撃すれば、必ず(劉備は)敗れます。これは存亡の好機です。逃してはなりません』
太祖(曹操)は『もっともだ』と答え、東方に劉備を征伐した」
袁紹の反応
曹操が自ら劉備征討に出陣すると、冀州別駕の田豊が「曹操の背後を襲うように」と袁紹に進言しましたが、袁紹は「息子の病気」を理由にこれを拒絶し、出陣を許可しませんでした。
袁紹に進言を拒絶された田豊は、杖を振り上げ地面を叩いて、
「またとない機会に遭遇しながら、赤子の病気でその機会を逃すとは。なんと残念なことよっ!」
と悔しがりました。
豆知識
『魏書』于禁伝に、
「劉備が徐州を根拠に反逆すると、太祖(曹操)は彼の征討のため東へ行った。袁紹は于禁を攻撃したが、于禁は固守し、袁紹は陥落させることができなかった」
と、袁紹が延津を守備する于禁を攻撃していたことが記されています。
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劉備の敗走と関羽の降伏
沛県(小沛)の陥落
東に向かった曹操は、劉備を攻撃してこれを破り、その将・夏侯博を生け捕りにします。その後劉備は袁紹の下に逃亡し、劉備の妻子は曹操に捕らえられました。
豆知識
以上は『魏書』武帝紀を基にしていますが、『蜀書』先主伝が注に引く『魏書』に、この戦いについて詳しく記されています。
「曹公(曹操)は官渡にいて(袁紹と対峙しているため)手を離せない状態だったが、諸将を官渡の各陣営に留め置き、自分は精鋭を率いて劉備征伐に赴いた。
当初劉備は『曹公(曹操)は大敵(袁紹)と対峙しているのだから東征できるはずがない』と思っていた。
ところが、突然斥候(偵察隊)の騎兵がやって来て『曹公(曹操)が自ら来る』と報告した。
これに大いに驚いた劉備はどうしても信じられず、数十騎を従えて陣の外に出ると自ら曹操の軍勢を偵察した。
軍勢の中に『曹操本人がいることを示す旗』を確認した劉備は、たちまち兵士を見棄てて青州に逃走した」
ですが、この記述について『資治通鑑』の胡三省注は、
「思うに劉備がこのようなことをするはずがない。(王沈の)『魏書』には嘘偽りが多い」
と言っています。
前に曹操が派遣した劉岱・王忠の軍を撃退した際、劉備は彼らに向かって、
「お前たちが百人来たとしても儂をどうすることもできぬ。曹公(曹操)が自身で来るなら、どうなるか分からぬがなっ!」
と言い放っており、これは劉備が「曹操が自ら攻めて来ることはない」と高を括っていたことの表れであると言えます。
曹操が自ら攻めて来たことが、劉備にとって大誤算であったことは間違いありませんが、それでも劉備が「一戦も交えずに自分だけ逃走した」ということはないでしょう。
劉備が袁紹を頼る
青州刺史の袁譚は、劉備によって茂才(秀才)に推薦された恩があるので、歩兵・騎兵を率いて劉備を出迎えて青州・平原国・平原国に迎え入れます。
その後袁譚の報告を受けた袁紹は、先に将軍を派遣して護衛につけ、自身は冀州・魏郡・鄴県から200里(約86km)の地点まで出迎えると、袁紹父子は劉備を心から敬い重んじました。
関羽の降伏
豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)を陥落させた曹操は、さらに徐州・下邳国・下邳県に軍を進めて関羽を降伏させると、劉備に味方した昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)を攻撃してこれを撃ち破り、瞬く間に徐州を奪還します。
その後曹操は官渡に帰還しましたが、その間袁紹が出撃してくることはありませんでした。
また、劉備が袁紹の下に身を寄せて1ヶ月余り、元劉備軍として戦った逃亡兵たちが、次第に劉備の下に集まって来ました。
徐州奪還戦関連地図
豆知識
関羽が曹操に降伏する際、「張遼の説得を受けて3つの条件を出した」というのは『三国志演義』の創作で、各種史料には、
- 関羽は(曹操に)降伏した
- (曹操が)関羽を捕虜にした
とあるのみで、降伏する際の詳細は記されていません。
またこの時『三国志演義』では、張飛も劉備と離れ離れとなってしまいますが、こちらも史料に記述はなく、おそらく劉備と共に袁紹の下に身を寄せていたものと思われます。
建安5年(200年)春、「袁紹は動かない」と判断した曹操は、諸将を官渡の各陣営に留め置き、自分は精鋭を率いて劉備征伐に赴きます。
この動きを察知した田豊は「曹操の背後を襲うように」と袁紹に進言しましたが、袁紹は「息子の病気」を理由にこれを拒絶。絶好の機会を逃してしまいました。
そして、袁紹の救援も受けられず曹操に敗れた劉備は袁紹の下に身を寄せ、曹操は劉備に奪われた徐州を奪還し、関羽を捕虜にします。
これにより曹操は、後顧の憂いをなくし、全身全霊を挙げて袁紹と対峙することができるようになりました。