官渡の戦いの前哨戦である「白馬の戦い」と「延津の戦い」についてまとめています。
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袁紹の出陣
曹操の徐州奪還
建安4年(199年)、勢力を維持できなくなった袁術は、袁紹と合流すべく北上を開始しました。これに曹操は、当時曹操を頼って豫州(予州)・潁川郡・許県にいた劉備に袁術討伐を命じます。
ですが、戦いが始まる前に袁術は病死。劉備は許県に還らず、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に入ると、徐州に侵攻して曹操が任命した徐州刺史・車冑を殺害し、関羽に下邳県を守備させて自分は沛県(小沛)に戻りました。
これに曹操は配下の劉岱と王忠を討伐に向かわせますが、徐州を奪還することはできず、建安5年(200年)春正月、曹操は自ら徐州征伐に出陣し、劉備を鄴県に敗走させ、下邳県の関羽を降伏させました。
徐州奪還戦関連地図
またこの時、冀州別駕の田豊は「これを機に曹操の背後を襲う」ように袁紹に進言しましたが、袁紹は「息子の病気」を理由にこれを拒絶し、出陣を許可しませんでした。
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袁紹の出陣
田豊を獄につなぐ
その後、袁紹が南進(許県を攻撃)しようとすると、田豊はこれを諫めて「すでに曹操が許県攻撃に備えている」ことを挙げ、「天下分け目の一戦」をするのではなく、袁紹陣営の国力を生かして持久戦に持ち込むこと」を勧めますが、袁紹はこれを聞き入れませんでした。
田豊の諫言全文
それでも田豊が必死になって諫言すると、袁紹は「兵の気勢を挫くつもりかっ!」と激怒して、田豊に枷をはめて牢獄に繋いでしまいます。
州郡に檄文を送る
その後袁紹は、州郡に「曹操の罪を数え上げて弾劾する檄文」を送りつけました。
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袁紹が陳琳に書かせた「曹操を弾劾する檄文(為袁紹檄豫州)」和訳
沮授の懸念
建安5年(200年)2月、ついに袁紹は冀州・魏郡・黎陽県に進軍します。
袁紹の出発に際し、都督・沮授はその一族を集め、彼らに財産を分け与えて言いました。
「そもそも勢いがあれば、その威光はあらゆるものに及ぶが、勢を失ったなら、哀しいかな一身を保つこともできない」
これに弟の沮宗が、
「曹操など我らの敵ではありません。兄者は何を懼れているのです?」
と尋ねると、沮授はまた言いました。
「曹兗州(曹操)は優れた方略があるばかりか、天子(献帝)を奉戴して己を正当化している。
我らは伯珪(公孫瓚の字)を滅ぼしたとはいえ、民衆・軍勢共に疲弊しているのにも拘わらず、ご主君は傲慢になり、将は贅沢に耽っている。我が軍の敗北はこの挙兵によって決まるのだ。
前漢の揚雄の言葉に『戦国時代の六国は分別がなくなって、嬴氏(秦)のために姫氏(周)を弱くしてやった』(『法言』重黎篇)とあるが、我らが曹氏のために漢を弱めている現在こそ、正にこれではないか」
この田豊と沮授は、以前袁紹陣営で行われた論戦の中で、曹操との決戦に反対し「今は農業に力を入れ、民衆を慰撫するべき」と主張した人物です。
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程昱の胆力
冀州・魏郡・黎陽県に入った袁紹軍が南に渡河する動きを見せた時、黄河の南岸の兗州・済陰郡・鄄城県は、振威将軍・程昱が7百の兵で守備しているだけでした。
そこで曹操は、人を遣って「兵2千人を増援しよう」と伝えたところ、程昱はこう答えました。
「袁紹は10万の軍勢を抱え、向かうところ敵なしと思い込んでおります。
今、私の兵が少ないのを見れば、必ずや軽く見て押し寄せて来ることはないでしょう。ですがもし私の兵を増やせば、通過の際に攻撃せずにはおかないでしょう。
攻撃して来れば必ず敵が勝ち、我が勢力を元の軍兵と援軍の両方とも、無駄に損なうことになります。どうか公(曹操)にはお疑いなされぬよう願います」
曹操は程昱の言葉に従い、はたして袁紹は「程昱の兵が少ない」と聞いて鄄城県を攻撃目標としなかったので、曹操は「程昱の胆は孟賁・夏育*1以上だな…」と賈詡に言いました。
黎陽県と鄄城県を
袁紹が駐屯する黎陽県から官渡または許県に進軍して攻撃する場合、鄄城県はその背後に当たります。鄄城県に増援が送られた場合、背後を襲われることを恐れた袁紹が、先に鄄城県を攻撃対象にする可能性がありました。
またこの時、兗州の黄河以北の地域はすでに袁紹の支配下にあり、鄄城県は最前線にあった可能性もあります。
脚注
*1孟賁と夏育は共に戦国時代、秦の武王に仕えた勇士。
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白馬の戦いと延津の戦い
白馬の戦い
沮授の諫言①
2月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して、兗州・東郡・白馬県にいる東郡太守・劉延を攻撃させようとします。
この時沮授はまた、
「顔良は促狭な(悪ふざけをする)性格で、武勇に優れてはいるものの、彼1人に任せてはいけません」
と諫めましたが、袁紹は聞き入れませんでした。
荀攸の献策
夏4月、白馬県を包囲した袁紹軍に対し曹操は、張遼と関羽を先鋒として劉延の救援に向かわせようとします。
この時荀攸は「袁紹軍は大軍なので、白馬県の西の延津から渡河する素振りを見せて袁紹軍をおびき寄せ、敵を分散させてから軽鋭兵(機動力に優れた軽装備の精兵)をもって白馬県の救援に向かう」ように進言し、曹操は荀攸の策に従うことにしました。
荀攸の進言全文
関羽が顔良を斬る
「曹操軍が延津から渡河しようとしている」という報告を受けた袁紹は即座に兵を分け、西に向かわせてこれに対応しました。
そこで曹操は軍を率いて通常の倍の速度で白馬県に進軍し、10余里手前まで来たところで曹操軍を発見した顔良は、驚き焦って迎撃に出ます。
白馬の戦い
張遼と共に先鋒となった関羽は、戦いの中で顔良の旗印と麾蓋*2を見つけ、馬に鞭打ってこれに迫ったかと思うと、大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬り取って帰って来ました。
袁紹の諸将の中に張遼・関羽の相手になれる者はおらず、大将を斬られた袁紹軍は白馬県の包囲を解いて撤退しました。
脚注
*2大将が乗る戎車(戦車)には、幢麾(「儀礼用の矛」と「軍隊の指揮に用いた指図旗」)を立てて蓋(傘)が張られていた。
延津の戦い
沮授の諫言②
袁紹の白馬県攻撃部隊を撤退させた曹操は、燕県と白馬県の民*3を移住させると、黄河に沿って西に向かいます。
袁紹が曹操を追って黄河を渡ろうとした時、沮授が諫めて言いました。
「勝負はどう転ぶか分からないものです。充分に考慮なさらなければいけません。
今、延津に軍営を留めつつ、兵を分けて官渡に派遣なさるのが適当と存じます。もし勝ち戦となりますれば、その上で延津に留まっている大軍を迎えにやっても遅くはありません。
全軍を官渡に進めて、万一思い通りにいかなかったならば、帰還することができなくなってしまいます」
ですが袁紹はこれを聞き入れなかったので、沮授は渡河に際して、
「上の者は野心を満たすことにあくせくし、下の者は手柄を立てることに専心している。悠々と流れる黄河よ、儂は生きて還ることができるだろうかっ!」
と大いに嘆くと、病気を理由に辞去してしまいます。
すると袁紹はこれを怨みに思い、沮授が統括していた軍を廃止して郭図に所属させました。
曹操の罠
結局袁紹は黄河を渡って曹操の軍を追い、延津の南岸に到達します。
一方曹操は南阪*4の下に兵を留め、陣営を築いて塁に登って見張りをさせたところ、「5、6百騎ばかり見えます」との報告があり、またしばらくして「騎兵の数が次第に多くなり、歩兵は数えきれません」との報告が届きました。
すると曹操は「もう報告せずとも良い」と言い、騎兵に「鞍を外して馬を放つ」ように命じます。
ちょうどこの時、白馬県からの輜重隊(輸送部隊)が通過していることもあり、諸将は「敵の騎兵が多いので、引き返して陣営を守る方が良い」と主張しました。
これに荀攸が「あれは敵を釣る餌ですよ。どうして引き揚げたりするものですか」と言うのを聞いた曹操は、荀攸を振り返ってニヤリと笑い、兵を伏せるように命じました。
文醜を斬る
そこへ、袁紹の騎将・文醜が劉備と共に5〜6千の騎兵を率いてやって来ました。
これを見た諸将は口々に「馬に乗った方が良いと思いますが…」と言いますが、曹操は「まだだ…」とこれを制止しました。
しばらくすると袁紹軍の騎兵はいよいよ多くなり、解き放たれた馬や輜重(物資)を漁り始めます。
これを見た曹操が「よしっ!」と一声発すると、みな一斉に馬に跨がって攻撃を開始。その数は6百人足らずでしたが、散々に袁紹軍を撃ち破り、文醜を斬りました。
延津の戦い
顔良と文醜はいずれも袁紹配下の名将でしたが、たった2度の戦闘で両人を失ってしまったので、袁紹軍は震え戦きました。
脚注
*3『魏書』武帝紀では「その民」と記されているだけだが、『魏書』蔣済伝にある曹操の言葉に「昔、儂は袁本初(袁紹)と官渡で対峙していた時、燕と白馬の民衆を移住させたが(以下略)」とある。
*4『資治通鑑』の胡三省が注に引く『開山図』に「所謂白馬山なり。南阪は山の南にあり。この時、曹操の軍は黄河に沿って酸棗県の県域に入っていた」とある。
建安5年(200年)2月、ついに許県攻撃に乗り出した袁紹ですが、黄河を渡って白馬県を攻撃した顔良は関羽に斬られ、延津に曹操を追った文醜も討死。たった2度の戦闘で、袁紹軍は双璧とも言える2人の大将を失ってしまいました。
またこの頃、袁紹が手厚く扱っていた閻柔が曹操に使者を送って烏丸校尉に任命され、公孫瓚と幽州を二分していた鮮于輔が自ら官渡に赴いて曹操と会見します。曹操は彼を右度遼将軍に任命し、幽州6郡を都督させました。