興平こうへい2年(195年)7月、李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせた献帝けんていが、洛陽らくよう雒陽らくよう)を目指して司隷しれい弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけんに至るまでをまとめています。

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李傕と郭汜の和睦

李傕と郭汜の争い

初平しょへい3年(192年)4月、董卓とうたく呂布りょふ誅殺ちゅうさつされると、董卓とうたくの配下であった李傕りかく郭汜かくしらは、残党を糾合きゅうごうして長安ちょうあんを陥落させ、朝廷の実権を握りました。

ですが、彼らはみずからの功績をほこってゆずらず、李傕りかく天子てんし献帝けんてい)を、郭汜かくし公卿こうけい三公さんこう九卿きゅうけい)たちを人質に取り、権力を争うようになります。

李傕りかく郭汜かくしの争いは月を重ね、死者は1万人を数えました。

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張済ちょうせいの仲裁

興平こうへい2年(195年)6月、李傕りかく将軍しょうぐん楊奉ようほうと、軍官ぐんかん宋果そうからが李傕りかくの暗殺をくわだてますが、事前に計画がれたため、軍勢をひきいて謀反むほんを起こします。これにより、李傕りかくの勢力は次第におとろえました。


そしてちょうどこの頃、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯していた張済ちょうせい長安ちょうあんに到着し、李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせ、天子てんし献帝けんてい)をしばらく弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)させることを提案します。

天子てんし献帝けんてい)も常々つねづねから洛陽らくよう雒陽らくよう)に帰りたいと願っていたので、両者に使者を送って説得しました。

使者は両者の間を10回も往復し、「お互いに息子を人質に出す」ことで同意を取り付けますが、李傕りかくの妻が愛する息子を人質に出すことに反対したため、結局話はまとまりませんでした。


関連地図

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和睦わぼくの成立

そんな時、李傕りかくが味方につけていた羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)が省門しょうもんにやって来て、


天子てんし献帝けんてい)はこの中にいるのかっ!

李将軍りしょうぐん李傕りかく)は我らに宮女を与える約束をした。女たちはどこにいるのだっ!?」


と責め立てます。

これを聞いた天子てんし献帝けんてい)は、宣義将軍せんぎしょうぐん賈詡かく侍中じちゅう劉艾りゅうがいを派遣して、


けい(お前)は以前から公正で忠勤にはげんだからこそ、今の栄誉ある地位にあるのだ。

今、羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)がみちを満たして不満を言っている。この問題を解決する方法を考えよ」


と命じました。

すると賈詡かくは、羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)の大帥たいすいを宴席にまねき、封賞を与える約束をします。

その結果、羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)は李傕りかくの元を去って引きげたため、李傕りかくの勢力はまたおとろえました。


そんなところへまた和睦わぼくの使者が来ると、李傕りかくはこれに従って「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦わぼくに同意しました。


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献帝の東遷(とうせん)

出発

秋7月、天子てんし献帝けんてい)が東に向かうため宣平門せんぺいもん長安城ちょうあんじょう東面の北側第一門)を出て橋を渡ろうとした時、郭汜かくしの兵数百人がやって来て橋をさえぎり、


「ここにおわすのは天子てんし献帝けんてい)であるか?」


と問いました。

車が進めなくなると、車を護衛していた李傕りかくの数百の兵は周囲を固めて大戟だいげきを構えます。

これを見た侍中じちゅう劉艾りゅうがいは、大声で「天子てんし献帝けんてい)さまだっ!」と答え、侍中じちゅう楊琦ようきに命じて車の御簾みすを高く上げさせました。


「お前たちは後ろへ下がりもせず、どうして至尊(天子てんし)の側近くまで迫って来るのかっ!」


天子てんし献帝けんてい)の言葉を聞いた郭汜かくしの兵たちはようやく道をけ、車が橋を渡りきると、将兵たちはみな「万歳ばんざい」をとなえました。


夜、天子てんし献帝けんてい)の車が長安ちょうあんの東の(司隷しれい京兆尹けいちょういん・)覇陵県はりょうけんに到着します。

この時、従者たちはみな腹を空かせていたので、張済ちょうせいは官位に応じて差をつけて食糧を分け与えました。

またこの頃、李傕りかく長安ちょうあんを出て封地の司隷しれい左馮翊さひょうよく池陽県ちようけんに駐屯します。


献帝の東遷経路1

献帝けんてい東遷とうせん経路1

献帝の人事

天子てんし献帝けんてい)は張済ちょうせい驃騎将軍ひょうきしょうぐんに任命して、三公さんこうと同様に独自の役所を開くことを許し、

  • 郭汜かくし車騎将軍しゃきしょうぐん
  • 楊定ようてい後将軍こうしょうぐん
  • 楊奉ようほう興義将軍こうぎしょうぐん

に任命してみな列侯れっこうに封じ、元牛輔ぎゅうほの配下であった董承とうしょう安集将軍あんしゅうしょうぐんとして天子てんし献帝けんてい)の側にはべらせました。


後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていぎには、

郭汜かくしみずか車騎将軍しゃきしょうぐんとなり、(中略)張済ちょうせい驃騎将軍ひょうきしょうぐんとなり、戻って陝県せんけんに駐屯した」

とありますが、資治通鑑しじつがんでは、張済ちょうせい陝県せんけんに戻っていません。

ここでは「献帝けんてい東遷とうせん」についてより詳細にしるされている資治通鑑しじつがんに従っています。

郭汜の失脚

郭汜かくしの陰謀

郭汜かくし天子てんし献帝けんてい)を司隷しれい左馮翊さひょうよく高陵県こうりょうけん行幸ぎょうこう(外出)させようとします。

ですが公卿こうけい三公さんこう九卿きゅうけい)や張済ちょうせいは、


「よろしく(司隷しれい弘農郡こうのうぐん・)弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)すべし」


と言い、一堂に会して議論しましたが、結論はでませんでした。


献帝の東遷経路2

献帝けんてい東遷とうせん経路2


そこで天子てんし献帝けんてい)は郭汜かくしに使者を送って、


弘農県こうのうけん郊廟こうびょうに近いのだ。いらぬ疑いを持たないでくれ」


さとしましたが郭汜かくしは納得しなかったので、天子てんし献帝けんてい)は終日食事をしませんでした。


そして郭汜かくしは、このことを聞いてもまだ、


「しばらく近くの県に行幸ぎょうこう(外出)するべきだ」


と言ってゆずりませんでした。

郭汜かくしが逃亡する

8月、天子てんし献帝けんてい)が司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけんに到着します。

この時郭汜かくしはまたもや陰謀をめぐらせ、「天子てんし献帝けんてい)をおどして連れ戻し、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに都を置かせよう」としました。


これを知った侍中じちゅう种輯ちゅうしゅうは、秘かに楊定ようてい董承とうしょう楊奉ようほうらに伝えて新豊県しんほうけんに集結させたので、郭汜かくしは自分の陰謀がれたと知って、軍をてて南山なんざん長安ちょうあんにある終南山しゅうなんざん)に逃亡しました。


献帝の東遷経路3

献帝けんてい東遷とうせん経路3

夏育と高碩の反乱

冬10月、郭汜かくしくみしていた夏育かいく高碩こうせき(・伍習ごしゅう)らが反乱を起こし、夜陰に乗じて天子てんし献帝けんてい)が滞在している学舍を焼いて、自分たちの陣営に来るように脅迫しました。

侍中じちゅう劉艾りゅうがいは、火の手がおさまらないのを見て、天子てんし献帝けんてい)に他の陣営に移って火を避けるようにいます。


この時、郭汜かくし夏育かいく高碩こうせき(・伍習ごしゅう)]・楊定ようてい董承とうしょう楊奉ようほうらがそれぞれ自分の陣営を構えていました。

劉艾りゅうがいは、自分が天子てんし献帝けんてい)の行き先を指示することを避け、どの陣営に行くかは天子てんし献帝けんてい)にゆだねたわけです。


そこへ、楊定ようてい董承とうしょうが兵をひきいて天子てんし献帝けんてい)をむかえにやってきて、楊奉ようほうの陣営に向かおうとします。

すると、夏育かいくらが兵を統率して天子てんし献帝けんてい)の行く手をはばんできたので、楊定ようてい楊奉ようほうが力戦してこれを破ったため、天子てんし献帝けんてい)は脱出することができました。


資治通鑑しじつがんでは、この夏育かいくらの反乱の前に郭汜かくし南山なんざんに逃亡していますが、

後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていぎには、

楊定ようてい楊奉ようほう郭汜かくしと戦いこれを破った」

とあり、魏書ぎしょ董卓伝とうたくでんには、

楊奉ようほう郭汜かくしを攻撃して撃ち破った。郭汜かくし南山なんざんに逃走し〜」

とあります。

郭汜かくし南山なんざんに逃走した時期については、どちらが正しいのかは分かりません。


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楊定と段煨の対立

寧輯将軍・段煨

その後天子てんし献帝けんてい)は、司隷しれい弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけん行幸ぎょうこう(外出)しました。


献帝の東遷経路4

献帝けんてい東遷とうせん経路4


この時、華陰県かいんけんに駐屯していた寧輯将軍ねいしゅうしょうぐん段煨だんわいは、天子てんし献帝けんてい)と公卿こうけい三公さんこう九卿きゅうけい)の服や身の回りの物を準備して、天子てんし献帝けんてい)に自分の陣営に行幸ぎょうこう(外出)するように勧めます。


ですが、段煨だんわい楊定ようていと対立していたので、楊定ようてい派の种輯ちゅうしゅう左霊されいは、


段煨だんわい謀反むほんを計画している」


と言って反対しますが、

  • 太尉たいい楊彪ようひょう
  • 司徒しと趙温ちょうおん
  • 侍中じちゅう劉艾りゅうがい
  • 尚書しょうしょ梁紹りょうしょう

らはそろって、


段煨だんわい謀反むほんなどするはずがありません。臣らはえて死をもって保証します」


と言って、段煨だんわいの陣営に行幸ぎょうこう(外出)することを勧めました。

ところが、董承とうしょう楊定ようていが裏で弘農郡こうのうぐん督郵とくゆうを脅して、


郭汜かくしが来てすでに段煨だんわいの陣営にいる」


と証言させたので、天子てんし献帝けんてい)は疑いをいだいて、道の南側に野宿することにしました。

献帝の意志

楊奉ようほう董承とうしょう楊定ようていが、段煨だんわいを攻撃するため种輯ちゅうしゅう左霊されいを派遣して、天子てんし献帝けんてい)にみことのりを下すよことを求めました。

ですが天子てんし献帝けんてい)は、


段煨だんわいの罪がまだ明らかではないのに、楊奉ようほうらはこれを攻めようとして、ちん(私)にみことのりを求めるのかっ!」


と言い、种輯ちゅうしゅうが夜中まで説得しましたが、ついに同意しませんでした。

楊奉らが段煨を攻める

結局楊奉ようほうらは、みことのりを待たずに段煨だんわいの陣営への攻撃を始めましたが、十余日っても攻め落とすことができずにいました。

しかもその間にも段煨だんわいは、天子てんし献帝けんてい)の御膳ごぜん(食事)を用意し、百官にも食糧を与えるなど、二心ふたごころがあるような様子はありません。


そこで天子てんし献帝けんてい)はみことのりを下し、侍中じちゅう尚書しょうしょを派遣して楊定ようていらをさとし聞かせ、段煨だんわいと和解させようとします。

すると楊定ようていらは、みことのりを受け入れてそれぞれの陣営に戻りました。


興平こうへい2年(195年)6月、李傕りかく将軍しょうぐん楊奉ようほうらの謀反むほんによって李傕りかくの勢力がおとろえると、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯していた張済ちょうせいの仲裁により、李傕りかく郭汜かくし和睦わぼく

天子てんし献帝けんてい)は弘農郡こうのうぐん行幸ぎょうこう(外出)することになりました。

李傕りかく長安ちょうあんを出て封地の司隷しれい左馮翊さひょうよく池陽県ちようけんに駐屯し、郭汜かくし天子てんし献帝けんてい)と共に東に向かいましたが、天子てんし献帝けんてい)の行き先をめぐる対立に敗れて、軍をてて南山なんざん長安ちょうあんにある終南山しゅうなんざん)に逃亡します。

そして、天子てんし献帝けんてい)の一行が司隷しれい弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけんに到達すると、またもや華陰県かいんけんに駐屯していた段煨だんわい楊定ようていらが対立して戦いに至りますが、天子てんし献帝けんてい)はみことのりを下して争いをおさめました。