孫策そんさく江東こうとう平定の前半戦。袁術えんじゅつの下を離れた孫策そんさく劉繇りゅうようを破り、呉郡太守ごぐんたいしゅ許貢きょこうを逃亡させるまでについてまとめています。

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孫策の出陣

袁術と劉繇の争い

興平こうへい元年(194年)、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんを本拠地とする袁術えんじゅつが、孫策そんさくに命じて廬江太守ろこうたいしゅ陸康りくこうを攻撃させると、朝廷に任命された揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようは、これを「かん王朝に対して反逆の意思がある」とみて、袁術えんじゅつによって任命された呉景ごけい孫賁そんふん揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)から強制的に追い出しました。

そして、呉景ごけい孫賁そんふん退しりぞいた揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん歴陽県れきようけんの東方の横江津おうこうしん樊能はんのう于麋うびを、当利口とうりこう張英ちょうえいを駐屯させて、袁術えんじゅつの勢力拡大を阻止しようとします。


横江津と当利口

横江津おうこうしん当利口とうりこう


これに袁術えんじゅつは、故吏こり 恵衢けいくを勝手に揚州刺史ようしゅうししに、呉景ごけい督軍中郎将とくぐんちゅうろうしょうに任命して、孫賁そんふんと共に兵をひきいて張英ちょうえいらを攻撃させますが、これを撃ち破ることができず、両軍は長江ちょうこうはさんで対峙したまま膠着こうちゃく状態となり、1年以上が経過していました。

孫策が出陣を願い出る

この頃、元は孫堅そんけんに仕え、孫策そんさくを盛り立てて補佐をしていた朱治しゅちは、袁術えんじゅつの統治が「徳による教化の道から外れている」ことを見て取って、孫策そんさく江東こうとうの地を平定するように勧めました。

そこで孫策そんさくは、袁術えんじゅつに「呉景ごけいらを助けて江東こうとうを平定する」許可を求めに行きます。


「東には、私の家とかねてから恩義を結んでいる者たちがおります。どうかおじ呉景ごけい)を加勢して、横江津おうこうしんの敵を討つことをお許しください。

横江津おうこうしんを奪取できたならば、そこから故郷に戻って軍勢をつのり、3万の兵士を得ることができるでしょう。

その軍勢でもって、明使君あなたさま袁術えんじゅつ)がかんの王室を立て直されることを援助させていただきたく思います」


袁術えんじゅつはこれまで2度に渡って孫策そんさくとの約束を破っていましたので、孫策そんさくが自分をうらんでいることを知っていました。

そのため孫策そんさくが力を持つことを危険視していましたが、この時、劉繇りゅうよう揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんを占拠しており、会稽郡かいけいぐんには王朗おうろうもいるので、「孫策そんさく江東こうとうを平定できるとは限らない」と判断してこの要求を認め、袁術えんじゅつは上表して孫策そんさく折衝校尉せっしょうこういに任命します。

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揚州の勢力図

揚州ようしゅうの勢力図


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孫策の快進撃

周瑜との再会

孫策そんさくの兵はわずか千余人、騎馬は数十頭、幕僚ばくりょうとして願い出た者は数百人に過ぎませんでしたが、行軍しながら兵をつのり、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん歴陽国れきようこくに到着する頃には、その軍勢は5、6千人になっていました。

そして歴陽国れきようこくに到着した孫策そんさくは、旧知の周瑜しゅうゆに急ぎの使者を送ります。


ちょうどこの時、周瑜しゅうゆ呉景ごけいに代わって丹楊太守たんようたいしゅに任命された従父おじ周尚しゅうしょうの元に来ていたので、すぐさま兵をひきいて孫策そんさくを出迎えました。

周瑜しゅうゆの出迎えを受けた孫策そんさくは、


あなたる事ができて、思いがかなったっ!」


と大いに喜びました。


また孫策そんさくの母は、揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんからこの歴陽国れきようこくに移っていましたが、孫策そんさくは母を北の阜陵県ふりょうけんに移り住まわせます。


九江郡の領城

九江郡きゅうこうぐんの領城


周瑜しゅうゆを配下に加えた孫策そんさくは、横江津おうこうしん樊能はんのう于麋うび)と当利口とうりこう張英ちょうえい)を攻撃して陥落させ、樊能はんのう張英ちょうえいらを敗走させました。

薛礼を破る

その後長江ちょうこうを渡った孫策そんさくは、劉繇りゅうよう牛渚ぎゅうしょの軍営を攻め、邸閣ていかく(食糧貯蔵庫)にあった兵糧と武器をすべて奪い取ります。

この時、(徐州じょしゅう彭城相ほうじょうしょう薛礼せつれいと(徐州じょしゅう下邳相かひしょう笮融さくゆう劉繇りゅうようを頼っており、薛礼せつれい揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・秣陵県ばつりょうけんに本拠を置き、笮融さくゆうはその南部に軍営を置いていました。

孫策そんさくがまず笮融さくゆうを攻めると、笮融さくゆうは兵を出して戦いをまじえてきましたが、孫策そんさくの軍が500余の首級しゅきゅうを斬ると、すぐさま軍営の門を閉じてまったく動きを見せなくなります。

そこで長江ちょうこうを下って薛礼せつれいを攻めると、薛礼せつれいは包囲を破って逃走しました。


孫策の侵攻経路1

孫策そんさくの侵攻経路1

曲阿県に迫る

一方この時、横江津おうこうしん孫策そんさくに敗れた樊能はんのう于麋うびらが軍勢を集め直し、牛渚ぎゅうしょの軍営を襲って奪い取ります。

これを聞いた孫策そんさくは、兵をかえして樊能はんのうらを撃ち破り、男女1万人を生け捕りにしました。


その後孫策そんさくは、再び長江ちょうこうを下って笮融さくゆうを攻めますが、流れ矢が当たってももを負傷したため馬に乗れなくなり、輿こしかつがれて牛渚ぎゅうしょの軍営に戻ります。

この時、孫策そんさくの軍から逃亡した者があり、笮融さくゆうに言いました。


孫郎そんろう孫策そんさく)は矢に当たって死んでしまいました」


これを聞いた笮融さくゆうは大いに喜び、すぐさま部将の于茲うじを出撃させ、孫策そんさくの軍に打ち入らせます。

これに孫策そんさくは、歩騎数百に戦いをいどませると共に背後に伏兵をもうけ、笮融さくゆうの軍が攻め寄せて来ると、歩騎数百はやいばも合わせぬうちにわざと敗走し、敵がそれを追って伏兵の中に入ったところで徹底的に撃ち破り、首級しゅきゅう千余級をげました。

そしてそのまま笮融さくゆうの軍営まで軍を進めた孫策そんさくは、左右の者に「孫郎そんろう孫策そんさく)は健在だっ!」と叫ばせます。

これを見た敵兵は恐れおののき、その夜の間に逃走してしまいました。


笮融さくゆうは「孫策そんさくが生きている」と聞き、さらに堀を深くとりでを高くして防御を固めます。

孫策そんさくは、笮融さくゆうが軍営を置いている場所の地勢が堅固だったため、これをそのままにして去りました。


その後孫策そんさくは、劉繇りゅうようの別将(別働隊の部将)を徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん海陵県かいりょうけんで破り、矛先を転じて揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・湖熟国こじゅくこく江乗県こうじょうけんを攻めてみな降伏させました。

そしてついに孫策そんさくは、劉繇りゅうようがいる揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに侵攻します。


孫策の侵攻経路2

孫策そんさくの侵攻経路2

東萊郡の太史慈

この時、劉繇りゅうようと同郡出身の太史慈たいしじが、青州せいしゅう東萊郡とうらいぐんから劉繇りゅうようたずねて揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに来ていました。

孫策そんさく軍が曲阿県きょくあけんに至ると、劉繇りゅうように対し「太史慈たいしじ大将軍だいしょうぐんに任命すれば良い」と勧める者がありましたが、劉繇りゅうようは、


子義しぎ太史慈たいしじあざな)どのを使ったりすれば、許子将きょししょう許劭きょしょう)どのが俺のことを笑ったりされないだろうか」


と言い、太史慈たいしじに偵察の任務だけを与えました。


太史慈たいしじには、東萊郡とうらいぐんの使者として洛陽らくよう雒陽らくよう)におもむいた際、対立する青州せいしゅうの役人をだまして目的を達成し、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡していた過去がありました。

おそらく劉繇りゅうようは、このことをもって「太史慈たいしじ大将軍だいしょうぐん相応ふさわしくない」と判断したのだと思われます。

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孫策と太史慈の一騎打ち

太史慈たいしじが騎兵を1人だけを従えて敵情を偵察に出た時、たまたま孫策そんさくと出くわしてしまいます。

しかも、孫策そんさくの方は騎兵13人を従え、それらはみな韓当かんとう宋謙そうけん黄蓋こうがいといった勇猛の士ばかりです。

ですが太史慈たいしじは、何のためらいもなく前に突き進んで戦いをいどみ、孫策そんさくと正面から渡り合いました。

孫策そんさく太史慈たいしじの馬を突き刺して、太史慈たいしじが首の後ろにたずさえていた手戟しゅげきを奪い取り、太史慈たいしじの方でも孫策そんさくかぶとを奪います。

ちょうどその時、敵味方双方の歩兵や騎兵が駆け集まって来たので、2人は戦いを中断して左右に分かれました。


その後劉繇りゅうようは、孫策そんさくの攻撃が厳しくなったため、その軍勢をてて揚州ようしゅう呉郡ごぐん丹徒県たんとけんに逃亡し、郡守ぐんしゅたちもみな城郭まちてて他所に逃亡しました。


劉繇の逃亡経路1

劉繇りゅうようの逃亡経路1


孫策そんさくの配下はこの時すでに数万にふくれ上がっていましたので、孫策そんさく周瑜しゅうゆに、


「これだけの軍勢があれば、私1人で呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんを手中におさめ、山越さんえつ揚州ようしゅうの山岳地帯に住む異民族)を平定するのに十分だ。

あなたには戻って丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)を固めて欲しい」


と言い、周瑜しゅうゆ揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に戻りました。

豆知識

孫郎がやって来る

孫策そんさくはすでに官位や称号を持っていましたが、当時まだ歳が若かったので、士人や民衆たちは彼を孫郎そんろう孫家そんけの若君)と呼んでいました。


民衆たちは、「孫郎そんろう孫策そんさく)がやって来る」と聞くとみなきもつぶし、主立おもだった役人たちは城郭まちてて、みな山野にひそみ隠れました。

ですが実際に孫策そんさくがやって来ると、兵士たちは命令を守って略奪などしようとはせず、家畜や作物にも指一本触れることがありませんでした。

民衆たちはこれを知って大いに喜び、きそって牛や酒を持って軍営にやって来て、孫策そんさくねぎらいました。


また、孫策そんさくの人となりは、ひいでた容姿をそなえて談笑を好み、性格は闊達かったつで他人の意見をよくき入れ、適材適所に人をもちいました。

そのため孫策そんさくに会ったことのある者は、役人・民衆を問わず、みな誠心誠意命をけて彼のために働きたいと願いました。


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統治の確立

敗残兵を糾合する

劉繇りゅうよう丹徒県たんとけんに逃亡すると、孫策そんさく揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんまちに入って部将や士卒たちに恩賞を与えてねぎらい、部将の陳宝ちんほう揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん阜陵県ふりょうけんに派遣して、母親と弟を迎えて曲阿県きょくあけんに移住させました。

また孫策そんさくは、


劉繇りゅうよう笮融さくゆうらの子飼いの部下でも、降伏して来た者には一切罪を問うてはならない。

その中に従軍を願う者がいるなら、1人が軍役に出た時、その家全体の賦役ふえきを免除するように。

従軍を願わぬ者に対しては、強制をしてはならない」


という寛大な布令を出して領内の諸県に告げ知らせます。

すると、10日ほどの間に四方から雲のくように人が集まり、2万余人の現役兵と千余頭の馬が手に入り、孫策そんさくの威光と人望は江東こうとうに響き渡り、その勢力はますます盛んとなりました。

その後、袁術えんじゅつは上表して孫策そんさく行殄寇将軍こうてんこうしょうぐんに任命します。

呂範を都督に任命する

孫策そんさく呂範りょはんと2人きりでを打っていた時、呂範りょはんが言いました。


「ただ今、将軍しょうぐん孫策そんさく)さまは日ごとに事業を広げられ、軍勢も増強されておりますが、私はお手元を離れた地方にあって、ご政道の大綱たいこう(事柄の根本となる骨組み)に なお整っておらぬところがあるとの風聞を耳にいたしました。

どうか、私にしばらく都督ととくの仕事をお任せくださり、将軍しょうぐん孫策そんさく)さまにご助力して事の処理に当たらせてくださいますように」


すると孫策そんさくは、


子衡しこう呂範りょはんあざな)どの、あなたはすでに立派な地位にあるだけでなく、大勢の部下の者たちをひきいて、地方にあって勲功くんこうを立てておられる。

どうして今さら都督ととくなどという小さな職務に当たっていただき、軍中の細々こまごまとしたことの処理をお願いするなどということがあって良いものだろうか」


と答えましたが、呂範りょはんはまた続けて言いました。


「そうではございません。

ただ今、故郷をてて将軍しょうぐん孫策そんさく)さまに身を寄せておりますのは、妻子たちの幸福を求めてのことではないのです。

現在いまの世の急務に対してすことあらんと志す者たちは、ちょうど1つの船で大海を渡らんとしているようなものであって、もし1箇所でも弱い所があれば、諸共もろともに沈没のき目を見るのでございます。

私が都督ととくの任に当たろうといたしますのは、私自身の将来を考えての計でもあって、将軍しょうぐん孫策そんさく)さまのためだけを考えたものではございません」


これに孫策そんさくは、ただ笑うだけで何も答えられませんでした。


呂範りょはんは退出すると、こう(礼服)を脱いで袴褶こしゅう(乗馬服)に着替えると、むちを手に持ち、宮門の所に来て言上し、みずか都督ととくの任を預かっていると称します。

孫策そんさくは、そこでやむを得ずでんわりふ)をさずけて、諸事の処理をすべて呂範りょはんに任せました。

これ以降、軍の内部は引き締まって心を1つにし、威厳と禁令とがよく行き渡るようになります。

張紘と張昭

孫策そんさくは、張紘ちょうこう正議校尉せいぎこういに、徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく出身の張昭ちょうしょう長史ちょうし撫軍中郎将ぶぐんちゅうろうしょうに任命しました。

2人は孫策そんさく参謀さんぼうつとめ、孫策そんさくはいつも2人のうちの1人に留守を守らせ、もう1人を征伐に連れて行きます。

また、徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん出身の秦松しんしょう陳端ちんたんらも参謀さんぼうに加わりました。

豆知識

張昭への手紙

孫策そんさくは、張昭ちょうしょうの家におもむいて彼の母親に挨拶をするなど、同年配どうねんぱいの旧友のようにまじわり、文事武事の一切を張昭ちょうしょうゆだねました。


張昭ちょうしょうが北方の(他勢力の)士大夫したいふたちから手紙を貰うと、いつも彼の手柄をめるものばかりでした。

張昭ちょうしょうは、こうした手紙のことを黙って知らせずにいれば、北方の人々とひそかに連絡を取っていることになるのが心配であり、これを公表すれば自慢をすることになってしまうので、どうすれば良いか考えあぐねていました。

このことを聞いた孫策そんさく愉快気ゆかいげに笑って、


「昔、管仲かんちゅうせい宰相さいしょうであった時、一にも仲父ちゅうほ管仲かんちゅう)、二にも仲父ちゅうほ管仲かんちゅうにすべてをゆだねたため、桓公かんこうは霸者のもとじめとなった。

今、子布しふ張昭ちょうしょうあざな)どのには賢才があって、私はあなたをもちいている。桓公かんこうと同様の功業と名声が、私にも得られぬはずがなかろう」


と言いました。

袁術と周瑜

この頃袁術えんじゅつが、従弟いとこ袁胤えんいん丹陽太守たんようたいしゅとして送り込みました。このため元の丹陽太守たんようたいしゅ周尚しゅうしょう周瑜しゅうゆは、袁術えんじゅつの本拠地である揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに呼び戻されます。

そこで袁術えんじゅつ周瑜しゅうゆを部将として自分の配下につけようとしますが、周瑜しゅうゆは「袁術えんじゅつが結局は失敗するだろう」と考え、揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん居巣県きょそうけん居巣国きょそうこく)の県長けんちょう侯国相こうこくしょう)になりたいと願い出て、そこから東方のに身を寄せようと考えました。


揚州・廬江郡・居巣県(居巣国)

揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん居巣県きょそうけん居巣国きょそうこく


袁術えんじゅつがこの願いを聞き入れたので、周瑜しゅうゆ居巣県きょそうけん居巣国きょそうこく)に行き、建安けんあん2年(197年)に孫策そんさくの下)に戻ることになります。


太史慈の独立と笮融の謀反

太史慈の独立

許子将きょししょう許劭きょしょう)の助言

揚州ようしゅう呉郡ごぐん丹徒県たんとけんにいた劉繇りゅうようが、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんに逃亡しようとすると、許子将きょししょう許劭きょしょう)が言いました。


会稽郡かいけいぐんは豊かな土地なので、孫策そんさくが狙っております。また、海がせまった逃げ場のない土地ですから、行かれてはなりません。

それに対し豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)は、北は豫州よしゅう予州よしゅう)につながり、西は荊州けいしゅうに接しておりますから、そちらへ行かれる方がよろしいでしょう。

もし豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)にあって役人や民衆たちを1つにまとめ、使者を派遣して朝貢をし、曹兗州そうえんしゅう曹操そうそう)どのと連絡をつけられれば、袁公路えんこうろ袁術えんじゅつ)が間をへだててはいても、彼の人となりは豺狼さいろうやまいぬおおかみ。転じて残酷で欲深い人)であるから、長く勢力を保つことはできません。

あなたさまは、かんの王朝からめいを受けておられますから、孟徳もうとく曹操そうそうあざな)さまや景升けいしょう劉表りゅうひょうあざな)さまからも、必ずや援助がありましょう」


劉繇りゅうようは、この許子将きょししょう許劭きょしょう)の意見に従い豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に向かうことにしました。

太史慈たいしじの独立

この時太史慈たいしじは、劉繇りゅうようと共に豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に逃亡しようとしていましたが、その途中、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・蕪湖県ぶこけんで姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹陽太守たんようたいしゅを名乗ります。

この時孫策そんさくは、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・宣城県せんじょうけんより東の地域の平定を終わり、涇県けいけんより西の6県だけがまだ彼に服していませんでした。


丹楊郡(丹陽郡)の勢力図

丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の勢力図

青:孫策そんさく
赤:太史慈たいしじ

涇県けいけんより西の6県は明示されていませんので推測です。


こうした情勢を見た太史慈たいしじは、涇県けいけんまで出てそこにとどまり、屯府とんふ(軍事的な行政機関)を立てたところ、多数の山越さんけつ揚州ようしゅうの山岳地帯に住む異民族)たちが集まってきました。

笮融の謀反

これより以前、豫章太守よしょうたいしゅ周術しゅうじゅつが病死したため、豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)は荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが任命した豫章太守よしょうたいしゅ諸葛玄しょかつげん諸葛亮しょかつりょう従父おじ)が治めていました。

また一方で朝廷は、周術しゅうじゅつの後任として朱皓しゅこう朱儁しゅしゅんの子)を後任として派遣します。


呉郡ごぐん丹徒県たんとけんから長江ちょうこうさかのぼって南に進み、豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・彭澤県ほうたくけんに軍営を置いた劉繇りゅうようは、笮融さくゆう朱皓しゅこうに加勢するように命じ、劉表りゅうひょうが任命した豫章太守よしょうたいしゅ諸葛玄しょかつげんを討伐させました。

この時、許子将きょししょう許劭きょしょう)が劉繇りゅうように言いました。


笮融さくゆうが軍をひきいて行きましたが、彼は大義名分などに目もくれぬ男です。

朱文明しゅぶんめい朱皓しゅこう)どのは、誠実で人を疑ったりせぬお方ですので、ひそかに笮融さくゆうには気をつけるように知らせたほうがよろしゅうございます」


その後、諸葛玄しょかつげんは撤退して西城せいじょうに駐屯し、朱皓しゅこうが郡治所である南昌県なんしょうけんに入りましたが、許子将きょししょう許劭きょしょう)の言う通り、笮融さくゆう朱皓しゅこうを謀殺して、自分が豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)の支配権を握りました。


劉繇の逃亡経路2

劉繇りゅうようの逃亡経路2

諸葛玄しょかつげんが駐屯した西城せいじょうの位置は不明です。


以上は蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでん呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでんの注に引かれている献帝春秋けんていしゅんじゅうに基づいていますが、蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでんの本文では、


従父おじ諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつの任命によって豫章太守よしょうたいしゅとなり、諸葛亮しょかつりょうと弟の諸葛均しょかつきんを連れて赴任した。

ちょうどその時、かん朝では朱皓しゅこうを選出して諸葛玄しょかつげんと代わらせた。諸葛玄しょかつげんはかねてから荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうと旧知の間柄だったので、彼のもとに身を寄せた」


とあり、諸葛玄しょかつげん豫章太守よしょうたいしゅに任命したのは袁術えんじゅつとなっています。

劉繇の死

劉繇りゅうようは軍を進めて笮融さくゆうを討とうとしましたが、逆に笮融さくゆうに撃ち破られ、再度支配下の県から兵を集めて、ついに笮融さくゆうを撃ち破りました。

そして、敗れた笮融さくゆうは山中に逃げ込みますが、付近の住民に殺害されてしまいます。


ですが、その後まもなく劉繇りゅうようも病気のために42歳で亡くなり、朝廷は元太傅掾たいふえん華歆かきん豫章太守よしょうたいしゅに任命しました。


蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでんの注に引かれている献帝春秋けんていしゅんじゅうには、


建安けんあん2年(197年)正月、西城せいじょうの民衆が反乱して諸葛玄しょかつげんを殺害し、その首を劉繇りゅうように送り届けた」


とあり、これに従うと、劉繇りゅうようは少なくとも建安けんあん2年(197年)正月まで生きていたことになります。

許貢を敗走させる

孫策そんさく配下の丹陽都尉たんようとい朱治しゅちが、呉郡ごぐん銭唐県せんとうけんから呉県ごけんに進出しようとすると、呉郡太守ごぐんたいしゅ許貢きょこう由拳県ゆうけんけんでその行く手をはばんで来ましたが、朱治しゅちはこれと戦って徹底的に撃ち破ります。

許貢きょこうは南に逃げて山越さんけつ揚州ようしゅうの山岳地帯に住む異民族)の不服従民、厳白虎げんはくこ厳虎げんこ)の元に身を寄せました。


呉郡の平定戦

呉郡ごぐんの平定戦


袁術えんじゅつの下を離れ、江東こうとうに地盤を築くべく出陣した孫策そんさくは快進撃を続け、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・宣城県せんじょうけんより東の諸県を平定すると、呉郡ごぐんに侵攻して曲阿県きょくあけん劉繇りゅうようを追い出しました。

一方、曲阿県きょくあけんを追われ、長江ちょうこうさかのぼって豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に逃亡した劉繇りゅうようですが、途中、太史慈たいしじ丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)で独立し、先行して豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に派遣した笮融さくゆう劉繇りゅうよう謀反むほん。その後笮融さくゆうを討ったものの、まもなく劉繇りゅうようも病気のために亡くなってしまいました。

その後、呉県ごけん許貢きょこう厳白虎げんはくこ厳虎げんこ)の元に逃亡させた孫策そんさくは、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)で独立した太史慈たいしじ厳白虎げんはくこ厳虎げんこ)を捨て置き、次の目標を会稽郡かいけいぐんに定めます。