孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。

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孫策の出陣

袁術と劉繇の争い

興平(こうへい)元年(194年)、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)を本拠地とする袁術(えんじゅつ)が、孫策(そんさく)に命じて廬江太守(ろこうたいしゅ)の陸康(りくこう)を攻撃させると、朝廷に任命された揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)は、これを「漢(かん)王朝に対して反逆の意思がある」とみて、袁術(えんじゅつ)によって任命された呉景(ごけい)と孫賁(そんふん)を揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))から強制的に追い出しました。

そして、呉景(ごけい)と孫賁(そんふん)が退(しりぞ)いた揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・歴陽県(れきようけん)の東方の横江津(おうこうしん)に樊能(はんのう)と于麋(うび)を、当利口(とうりこう)に張英(ちょうえい)を駐屯させて、袁術(えんじゅつ)の勢力拡大を阻止しようとします。


横江津と当利口

横江津(おうこうしん)と当利口(とうりこう)


これに袁術(えんじゅつ)は、故吏(こり )の恵衢(けいく)を勝手に揚州刺史(ようしゅうしし)に、呉景(ごけい)を督軍中郎将(とくぐんちゅうろうしょう)に任命して、孫賁(そんふん)と共に兵を率(ひき)いて張英(ちょうえい)らを攻撃させますが、これを撃ち破ることができず、両軍は長江(ちょうこう)を挟(はさ)んで対峙したまま膠着(こうちゃく)状態となり、1年以上が経過していました。

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孫策が出陣を願い出る

この頃、元は孫堅(そんけん)に仕え、孫策(そんさく)を盛り立てて補佐をしていた朱治(しゅち)は、袁術(えんじゅつ)の統治が「徳による教化の道から外れている」ことを見て取って、孫策(そんさく)に江東(こうとう)の地を平定するように勧めました。

そこで孫策(そんさく)は、袁術(えんじゅつ)に「呉景(ごけい)らを助けて江東(こうとう)を平定する」許可を求めに行きます。


「東には、私の家とかねてから恩義を結んでいる者たちがおります。どうか舅(おじ)(呉景(ごけい))を加勢して、横江津(おうこうしん)の敵を討つことをお許しください。

横江津(おうこうしん)を奪取できたならば、そこから故郷に戻って軍勢を募(つの)り、3万の兵士を得ることができるでしょう。

その軍勢でもって、明使君(あなたさま)(袁術(えんじゅつ))が漢(かん)の王室を立て直されることを援助させていただきたく思います」


袁術(えんじゅつ)はこれまで2度に渡って孫策(そんさく)との約束を破っていましたので、孫策(そんさく)が自分を恨(うら)んでいることを知っていました。

そのため孫策(そんさく)が力を持つことを危険視していましたが、この時、劉繇(りゅうよう)が揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)を占拠しており、会稽郡(かいけいぐん)には王朗(おうろう)もいるので、「孫策(そんさく)が江東(こうとう)を平定できるとは限らない」と判断してこの要求を認め、袁術(えんじゅつ)は上表して孫策(そんさく)を折衝校尉(せっしょうこうい)に任命します。


揚州の勢力図

揚州(ようしゅう)の勢力図


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孫策の快進撃

周瑜との再会

孫策(そんさく)の兵はわずか千余人、騎馬は数十頭、幕僚(ばくりょう)として願い出た者は数百人に過ぎませんでしたが、行軍しながら兵を募(つの)り、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・歴陽国(れきようこく)に到着する頃には、その軍勢は5、6千人になっていました。

そして歴陽国(れきようこく)に到着した孫策(そんさく)は、旧知の周瑜(しゅうゆ)に急ぎの使者を送ります。


ちょうどこの時、周瑜(しゅうゆ)は呉景(ごけい)に代わって丹楊太守(たんようたいしゅ)に任命された従父(おじ)の周尚(しゅうしょう)の元に来ていたので、すぐさま兵を率(ひき)いて孫策(そんさく)を出迎えました。

周瑜(しゅうゆ)の出迎えを受けた孫策(そんさく)は、


「卿(あなた)を得(え)る事ができて、思いがかなったっ!」


と大いに喜びました。


また孫策(そんさく)の母は、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)からこの歴陽国(れきようこく)に移っていましたが、孫策(そんさく)は母を北の阜陵県(ふりょうけん)に移り住まわせます。


九江郡の領城

九江郡(きゅうこうぐん)の領城


周瑜(しゅうゆ)を配下に加えた孫策(そんさく)は、横江津(おうこうしん)(樊能(はんのう)・于麋(うび))と当利口(とうりこう)(張英(ちょうえい))を攻撃して陥落させ、樊能(はんのう)・張英(ちょうえい)らを敗走させました。

薛礼を破る

その後長江(ちょうこう)を渡った孫策(そんさく)は、劉繇(りゅうよう)の牛渚(ぎゅうしょ)の軍営を攻め、邸閣(ていかく)(食糧貯蔵庫)にあった兵糧と武器をすべて奪い取ります。

この時、(徐州(じょしゅう))彭城相(ほうじょうしょう)の薛礼(せつれい)と(徐州(じょしゅう))下邳相(かひしょう)の笮融(さくゆう)は劉繇(りゅうよう)を頼っており、薛礼(せつれい)は揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・秣陵県(ばつりょうけん)に本拠を置き、笮融(さくゆう)はその南部に軍営を置いていました。

孫策(そんさく)がまず笮融(さくゆう)を攻めると、笮融(さくゆう)は兵を出して戦いを交(まじ)えてきましたが、孫策(そんさく)の軍が500余の首級(しゅきゅう)を斬ると、すぐさま軍営の門を閉じてまったく動きを見せなくなります。

そこで長江(ちょうこう)を下って薛礼(せつれい)を攻めると、薛礼(せつれい)は包囲を破って逃走しました。


孫策の侵攻経路1

孫策(そんさく)の侵攻経路1

曲阿県に迫る

一方この時、横江津(おうこうしん)で孫策(そんさく)に敗れた樊能(はんのう)・于麋(うび)らが軍勢を集め直し、牛渚(ぎゅうしょ)の軍営を襲って奪い取ります。

これを聞いた孫策(そんさく)は、兵を還(かえ)して樊能(はんのう)らを撃ち破り、男女1万人を生け捕りにしました。


その後孫策(そんさく)は、再び長江(ちょうこう)を下って笮融(さくゆう)を攻めますが、流れ矢が当たって股(もも)を負傷したため馬に乗れなくなり、輿(こし)で担(かつ)がれて牛渚(ぎゅうしょ)の軍営に戻ります。

この時、孫策(そんさく)の軍から逃亡した者があり、笮融(さくゆう)に言いました。


「孫郎(そんろう)(孫策(そんさく))は矢に当たって死んでしまいました」


これを聞いた笮融(さくゆう)は大いに喜び、すぐさま部将の于茲(うじ)を出撃させ、孫策(そんさく)の軍に打ち入らせます。

これに孫策(そんさく)は、歩騎数百に戦いを挑(いど)ませると共に背後に伏兵を設(もう)け、笮融(さくゆう)の軍が攻め寄せて来ると、歩騎数百は刃(やいば)も合わせぬうちにわざと敗走し、敵がそれを追って伏兵の中に入ったところで徹底的に撃ち破り、首級(しゅきゅう)千余級を挙(あ)げました。

そしてそのまま笮融(さくゆう)の軍営まで軍を進めた孫策(そんさく)は、左右の者に「孫郎(そんろう)(孫策(そんさく))は健在だっ!」と叫ばせます。

これを見た敵兵は恐れおののき、その夜の間に逃走してしまいました。


笮融(さくゆう)は「孫策(そんさく)が生きている」と聞き、さらに堀を深く塁(とりで)を高くして防御を固めます。

孫策(そんさく)は、笮融(さくゆう)が軍営を置いている場所の地勢が堅固だったため、これをそのままにして去りました。


その後孫策(そんさく)は、劉繇(りゅうよう)の別将(別働隊の部将)を徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)・海陵県(かいりょうけん)で破り、矛先を転じて揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・湖熟国(こじゅくこく)や江乗県(こうじょうけん)を攻めてみな降伏させました。

そしてついに孫策(そんさく)は、劉繇(りゅうよう)がいる揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に侵攻します。


孫策の侵攻経路2

孫策(そんさく)の侵攻経路2

東萊郡の太史慈

この時、劉繇(りゅうよう)と同郡出身の太史慈(たいしじ)が、青州(せいしゅう)・東萊郡(とうらいぐん)から劉繇(りゅうよう)を訪(たず)ねて揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に来ていました。

孫策(そんさく)軍が曲阿県(きょくあけん)に至ると、劉繇(りゅうよう)に対し「太史慈(たいしじ)を大将軍(だいしょうぐん)に任命すれば良い」と勧める者がありましたが、劉繇(りゅうよう)は、


「子義(しぎ)(太史慈(たいしじ)の字(あざな))どのを使ったりすれば、許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))どのが俺のことを笑ったりされないだろうか」


と言い、太史慈(たいしじ)に偵察の任務だけを与えました。


太史慈(たいしじ)には、東萊郡(とうらいぐん)の使者として洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に赴(おもむ)いた際、対立する青州(せいしゅう)の役人を騙(だま)して目的を達成し、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に逃亡していた過去がありました。

おそらく劉繇(りゅうよう)は、このことをもって「太史慈(たいしじ)は大将軍(だいしょうぐん)に相応(ふさわ)しくない」と判断したのだと思われます。

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孫策と太史慈の一騎打ち

太史慈(たいしじ)が騎兵1人だけを従えて神亭(しんてい)に敵情を偵察に出た時、たまたま孫策(そんさく)と出くわしてしまいました。しかも、孫策(そんさく)の方は騎兵13人を従え、それらはみな韓当(かんとう)・宋謙(そうけん)・黄蓋(こうがい)といった勇猛の士ばかりです。

ですが太史慈(たいしじ)は、何のためらいもなく前に突き進んで戦いを挑(いど)み、孫策(そんさく)と正面から渡り合いました。

孫策(そんさく)は太史慈(たいしじ)の馬を突き刺して、太史慈(たいしじ)が首の後ろに携(たずさ)えていた手戟(しゅげき)を奪い取り、太史慈(たいしじ)の方でも孫策(そんさく)の兜(かぶと)を奪います。

ちょうどその時、敵味方双方の歩兵や騎兵が駆け集まって来たので、2人は戦いを中断して左右に分かれました。


その後劉繇(りゅうよう)は、孫策(そんさく)の攻撃が厳しくなったため、その軍勢を棄(す)てて揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・丹徒県(たんとけん)に逃亡し、郡守(ぐんしゅ)たちもみな城郭(まち)を棄(す)てて他所に逃亡しました。


劉繇の逃亡経路1

劉繇(りゅうよう)の逃亡経路1


孫策(そんさく)の配下はこの時すでに数万にふくれ上がっていましたので、孫策(そんさく)は周瑜(しゅうゆ)に、


「これだけの軍勢があれば、私1人で呉郡(ごぐん)・会稽郡(かいけいぐん)を手中に収(おさ)め、山越(さんえつ)(揚州(ようしゅう)の山岳地帯に住む異民族)を平定するのに十分だ。

あなたには戻って丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))を固めて欲しい」


と言い、周瑜(しゅうゆ)は揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))に戻りました。

豆知識

孫郎がやって来る

孫策(そんさく)はすでに官位や称号を持っていましたが、当時まだ歳が若かったので、士人や民衆たちは彼を孫郎(そんろう)(孫家(そんけ)の若君)と呼んでいました。


民衆たちは、「孫郎(そんろう)(孫策(そんさく))がやって来る」と聞くとみな肝(きも)を潰(つぶ)し、主立(おもだ)った役人たちは城郭(まち)を棄(す)てて、みな山野に潜(ひそ)み隠れました。

ですが実際に孫策(そんさく)がやって来ると、兵士たちは命令を守って略奪などしようとはせず、家畜や作物にも指一本触れることがありませんでした。

民衆たちはこれを知って大いに喜び、競(きそ)って牛や酒を持って軍営にやって来て、孫策(そんさく)を労(ねぎら)いました。


また、孫策(そんさく)の人となりは、秀(ひい)でた容姿を備(そな)えて談笑を好み、性格は闊達(かったつ)で他人の意見をよく聴(き)き入れ、適材適所に人を用(もち)いました。

そのため孫策(そんさく)に会ったことのある者は、役人・民衆を問わず、みな誠心誠意命を賭(か)けて彼のために働きたいと願いました。


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統治の確立

敗残兵を糾合する

劉繇(りゅうよう)が丹徒県(たんとけん)に逃亡すると、孫策(そんさく)は揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)の城(まち)に入って部将や士卒たちに恩賞を与えて労(ねぎら)い、部将の陳宝(ちんほう)を揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・阜陵県(ふりょうけん)に派遣して、母親と弟を迎えて曲阿県(きょくあけん)に移住させました。

また孫策(そんさく)は、


「劉繇(りゅうよう)・笮融(さくゆう)らの子飼いの部下でも、降伏して来た者には一切罪を問うてはならない。

その中に従軍を願う者がいるなら、1人が軍役に出た時、その家全体の賦役(ふえき)を免除するように。

従軍を願わぬ者に対しては、強制をしてはならない」


という寛大な布令を出して領内の諸県に告げ知らせます。

すると、10日ほどの間に四方から雲の湧(わ)くように人が集まり、2万余人の現役兵と千余頭の馬が手に入り、孫策(そんさく)の威光と人望は江東(こうとう)に響き渡り、その勢力はますます盛んとなりました。

その後、袁術(えんじゅつ)は上表して孫策(そんさく)を行殄寇将軍(こうてんこうしょうぐん)に任命します。

呂範を都督に任命する

孫策(そんさく)が呂範(りょはん)と2人きりで碁(ご)を打っていた時、呂範(りょはん)が言いました。


「ただ今、将軍(しょうぐん)(孫策(そんさく))さまは日ごとに事業を広げられ、軍勢も増強されておりますが、私はお手元を離れた地方にあって、ご政道の大綱(たいこう)(事柄の根本となる骨組み)に なお整っておらぬところがあるとの風聞を耳にいたしました。

どうか、私にしばらく都督(ととく)の仕事をお任せくださり、将軍(しょうぐん)(孫策(そんさく))さまにご助力して事の処理に当たらせてくださいますように」


すると孫策(そんさく)は、


「子衡(しこう)(呂範(りょはん)の字(あざな))どの、あなたはすでに立派な地位にあるだけでなく、大勢の部下の者たちを率(ひき)いて、地方にあって勲功(くんこう)を立てておられる。

どうして今さら都督(ととく)などという小さな職務に当たっていただき、軍中の細々(こまごま)としたことの処理をお願いするなどということがあって良いものだろうか」


と答えましたが、呂範(りょはん)はまた続けて言いました。


「そうではございません。

ただ今、故郷を棄(す)てて将軍(しょうぐん)(孫策(そんさく))さまに身を寄せておりますのは、妻子たちの幸福を求めてのことではないのです。

現在(いま)の世の急務に対して為(な)すことあらんと志す者たちは、ちょうど1つの船で大海を渡らんとしているようなものであって、もし1箇所でも弱い所があれば、諸共(もろとも)に沈没の憂(う)き目を見るのでございます。

私が都督(ととく)の任に当たろうといたしますのは、私自身の将来を考えての計でもあって、将軍(しょうぐん)(孫策(そんさく))さまのためだけを考えたものではございません」


これに孫策(そんさく)は、ただ笑うだけで何も答えられませんでした。


呂範(りょはん)は退出すると、褠(こう)(礼服)を脱いで袴褶(こしゅう)(乗馬服)に着替えると、鞭(むち)を手に持ち、宮門の所に来て言上し、自(みずか)ら都督(ととく)の任を預かっていると称します。

孫策(そんさく)は、そこでやむを得ず伝(でん)(符(わりふ))を授(さず)けて、諸事の処理をすべて呂範(りょはん)に任せました。

これ以降、軍の内部は引き締まって心を1つにし、威厳と禁令とがよく行き渡るようになります。

張紘と張昭

孫策(そんさく)は、張紘(ちょうこう)を正議校尉(せいぎこうい)に、徐州(じょしゅう)・彭城国(ほうじょうこく)出身の張昭(ちょうしょう)を長史(ちょうし)・撫軍中郎将(ぶぐんちゅうろうしょう)に任命しました。

2人は孫策(そんさく)の参謀(さんぼう)を務(つと)め、孫策(そんさく)はいつも2人のうちの1人に留守を守らせ、もう1人を征伐に連れて行きます。

また、徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)出身の秦松(しんしょう)、陳端(ちんたん)らも参謀(さんぼうに加わりました。

豆知識

張昭への手紙

孫策(そんさく)は、張昭(ちょうしょう)の家に赴(おもむ)いて彼の母親に挨拶をするなど、同年配(どうねんぱい)の旧友のように交(まじ)わり、文事武事の一切を張昭(ちょうしょう)に委(ゆだ)ねました。


張昭(ちょうしょう)が北方の(他勢力の)士大夫(したいふ)たちから手紙を貰うと、いつも彼の手柄を褒(ほ)めるものばかりでした。

張昭(ちょうしょう)は、こうした手紙のことを黙って知らせずにいれば、北方の人々と秘(ひそ)かに連絡を取っていることになるのが心配であり、これを公表すれば自慢をすることになってしまうので、どうすれば良いか考えあぐねていました。

このことを聞いた孫策(そんさく)は愉快気(ゆかいげ)に笑って、


「昔、管仲(かんちゅう)が斉(せい)の宰相(さいしょうであった時、一にも仲父(ちゅうほ)(管仲(かんちゅう))、二にも仲父(ちゅうほ)と管仲(かんちゅう)にすべてを委(ゆだ)ねたため、桓公(かんこう)は覇者の宗(もとじめ)となった。

今、子布(しふ)(張昭(ちょうしょう)の字(あざな))どのには賢才があって、私はあなたを用(もち)いている。桓公(かんこう)と同様の功業と名声が、私にも得られぬはずがなかろう」


と言いました。

周瑜

この頃、袁術(えんじゅつ)が従弟(いとこ)の袁胤(えんいん)を丹陽太守(たんようたいしゅとして送り込みました。

そのため元の丹陽太守(たんようたいしゅ・周尚(しゅうしょう)と周瑜(しゅうゆ)は、袁術(えんじゅつ)の本拠地である揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)に呼び戻され、周瑜(しゅうゆ)はこれに従いました。


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太史慈の独立と笮融の謀反

太史慈の独立

許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))の助言

揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・丹徒県(たんとけん)にいた劉繇(りゅうよう)が、揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)に逃亡しようとすると、許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))が言いました。


「会稽郡(かいけいぐん)は豊かな土地なので、孫策(そんさく)が狙っております。また、海が迫(せま)った逃げ場のない土地ですから、行かれてはなりません。

それに対し豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))は、北は豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))につながり、西は荊州(けいしゅう)に接しておりますから、そちらへ行かれる方がよろしいでしょう。

もし豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))にあって役人や民衆たちを1つにまとめ、使者を派遣して朝貢をし、曹兗州(そうえんしゅう)(曹操(そうそう))どのと連絡をつけられれば、袁公路(えんこうろ)(袁術(えんじゅつ))が間を隔(へだ)ててはいても、彼の人となりは豺狼(さいろう)(豺(やまいぬ)と狼(おおかみ)。転じて残酷で欲深い人)であるから、長く勢力を保つことはできません。

あなたさまは、漢(かん)の王朝から命(めい)を受けておられますから、孟徳(もうとく)(曹操(そうそう)の字(あざな))さまや景升(けいしょう)(劉表(りゅうひょう)の字(あざな))さまからも、必ずや援助がありましょう」


劉繇(りゅうよう)は、この許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))の意見に従い豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に向かうことにしました。

太史慈(たいしじ)の独立

この時太史慈(たいしじ)は、劉繇(りゅうよう)と共に豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に逃亡しようとしていましたが、その途中、揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・蕪湖県(ぶこけん)で姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹陽太守(たんようたいしゅを名乗ります。

この時孫策(そんさく)は、丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・宣城県(せんじょうけん)より東の地域の平定を終わり、涇県(けいけん)より西の6県だけがまだ彼に服していませんでした。


丹楊郡(丹陽郡)の勢力図

丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の勢力図

青:孫策(そんさく)領
赤:太史慈(たいしじ)領

※ 涇県(けいけん)より西の6県は明示されていませんので推測です。


こうした情勢を見た太史慈(たいしじ)は、涇県(けいけん)まで出てそこに留(とど)まり、屯府(とんふ)(軍事的な行政機関)を立てたところ、多数の山越(さんえつ)(揚州(ようしゅう)の山岳地帯に住む異民族)たちが集まってきました。

笮融の謀反

これより以前、豫章太守(よしょうたいしゅ)の周術(しゅうじゅつ)が病死したため、豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))は荊州牧(けいしゅうぼく)・劉表(りゅうひょう)が任命した豫章太守(よしょうたいしゅ)・諸葛玄(しょかつげん)(諸葛亮(しょかつりょう)の従父(おじ))が治めていました。

また一方で朝廷は、周術(しゅうじゅつ)の後任として朱皓(しゅこう)(朱儁(しゅしゅん)の子)を後任として派遣します。


呉郡(ごぐん)・丹徒県(たんとけん)から長江(ちょうこう)を遡(さかのぼ)って南に進み、豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))・彭澤県(ほうたくけん)に軍営を置いた劉繇(りゅうよう)は、笮融(さくゆう)に朱皓(しゅこう)に加勢するように命じ、劉表(りゅうひょう)が任命した豫章太守(よしょうたいしゅ)・諸葛玄(しょかつげん)を討伐させました。

この時、許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))が劉繇(りゅうよう)に言いました。


「笮融(さくゆう)が軍を率(ひき)いて行きましたが、彼は大義名分などに目もくれぬ男です。

朱文明(しゅぶんめい)(朱皓(しゅこう))どのは、誠実で人を疑ったりせぬお方ですので、秘(ひそ)かに笮融(さくゆう)には気をつけるように知らせたほうがよろしゅうございます」


その後、諸葛玄(しょかつげん)は撤退して西城(せいじょう)に駐屯し、朱皓(しゅこう)が郡治所である南昌県(なんしょうけん)に入りましたが、許子将(きょししょう)(許劭(きょしょう))の言う通り、笮融(さくゆう)は朱皓(しゅこう)を謀殺して、自分が豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の支配権を握りました。


劉繇の逃亡経路2

劉繇(りゅうよう)の逃亡経路2

※ 諸葛玄(しょかつげん)が駐屯した西城(せいじょう)の位置は不明です。


以上は『蜀書(しょくしょ)』諸葛亮伝(しょかつりょうでん)・『呉書(ごしょ)』劉繇伝(りゅうようでん)の注に引かれている『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』に基づいていますが、『蜀書(しょくしょ)』諸葛亮伝(しょかつりょうでん)の本文では、


「従父(おじ)の諸葛玄(しょかつげん)は袁術(えんじゅつ)の任命によって豫章太守(よしょうたいしゅ)となり、諸葛亮(しょかつりょう)と弟の諸葛均(しょかつきん)を連れて赴任した。

ちょうどその時、漢(かん)朝では朱皓(しゅこう)を選出して諸葛玄(しょかつげん)と代わらせた。諸葛玄(しょかつげん)はかねてから荊州牧(けいしゅうぼく)・劉表(りゅうひょう)と旧知の間柄だったので、彼のもとに身を寄せた」


とあり、諸葛玄(しょかつげん)を豫章太守(よしょうたいしゅ)に任命したのは袁術(えんじゅつ)となっています。

劉繇の死

劉繇(りゅうよう)は軍を進めて笮融(さくゆう)を討とうとしましたが、逆に笮融(さくゆう)に撃ち破られ、再度支配下の県から兵を集めて、ついに笮融(さくゆう)を撃ち破りました。

そして、敗れた笮融(さくゆう)は山中に逃げ込みますが、付近の住民に殺害されてしまいます。


ですが、その後まもなく劉繇(りゅうよう)も病気のために42歳で亡くなり、朝廷は元太傅掾(たいふえん)の華歆(かきん)を豫章太守(よしょうたいしゅ)に任命しました。


『蜀書(しょくしょ)』諸葛亮伝(しょかつりょうでん)の注に引かれている『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』には、


「建安(けんあん)2年(197年)正月、西城(せいじょう)の民衆が反乱して諸葛玄(しょかつげん)を殺害し、その首を劉繇(りゅうよう)に送り届けた」


とあり、これに従うと、劉繇(りゅうよう)は少なくとも建安(けんあん)2年(197年)正月まで生きていたことになります。

許貢を敗走させる

孫策(そんさく)配下の丹陽都尉(たんようとい)・朱治(しゅち)が、呉郡(ごぐん)・銭唐県(せんとうけん)から呉県(ごけん)に進出しようとすると、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)が由拳県(ゆうけんけん)でその行く手を阻(はば)んで来ましたが、朱治(しゅち)はこれと戦って徹底的に撃ち破ります。

許貢(きょこう)は南に逃げて山越(さんえつ)(揚州(ようしゅう)の山岳地帯に住む異民族)の不服従民、厳白虎(げんはくこ)(厳虎(げんこ))の元に身を寄せました。


呉郡の平定戦

呉郡(ごぐん)の平定戦


袁術(えんじゅつ)の下を離れ、江東(こうとう)に地盤を築くべく出陣した孫策(そんさく)は快進撃を続け、丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・宣城県(せんじょうけん)より東の諸県を平定すると、呉郡(ごぐん)に侵攻して曲阿県(きょくあけん)の劉繇(りゅうよう)を追い出しました。

一方、曲阿県(きょくあけん)を追われ、長江(ちょうこう)を遡(さかのぼ)って豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に逃亡した劉繇(りゅうよう)ですが、途中、太史慈(たいしじ)が丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))で独立し、先行して豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に派遣した笮融(さくゆう)は劉繇(りゅうよう)に謀反(むほん)。その後笮融(さくゆう)を討ったものの、まもなく劉繇(りゅうよう)も病気のために亡くなってしまいました。

その後、呉県(ごけん)の許貢(きょこう)を厳白虎(げんはくこ)(厳虎(げんこ))の元に逃亡させた孫策(そんさく)は、丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))で独立した太史慈(たいしじ)と厳白虎(げんはくこ)(厳虎(げんこ))を捨て置き、次の目標を会稽郡(かいけいぐん)に定めます。