劉虞を処刑して幽州の実権を握った公孫瓚を、鮮于輔・麴義(袁紹)らが破った「鮑丘の戦い」についてまとめています。
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目次
公孫瓚が幽州を領有する
劉虞の挙兵
中平5年(188年)3月、北方異民族に対する姿勢をめぐって、新たに幽州牧に任命された劉虞と、これまで北方異民族と戦ってきた公孫瓚の間に対立が起こります。
そして初平4年(193年)冬、ついに劉虞は公孫瓚討伐のために10万の兵を挙げますが、
「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪(公孫瓚の字)のみを殺せ」
という劉虞の命令のおかげで劉虞の兵は手を出すことができず、公孫瓚に大敗してしまいました。
劉虞の死
劉虞を捕らえた公孫瓚は、劉虞にこれまで通り幽州の文書を処理させていましたが、朝廷から使者の段訓がやってくると、
「以前劉虞が袁紹らと共に帝号を僭称しようとした」
と誣告(事実を偽って告げること)して劉虞を処刑し、上表して朝廷の使者であった段訓を幽州刺史に任命します。
劉虞を殺害して以降、公孫瓚は事実上幽州を領有し、その勢いは益々盛んになりました。
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易京に拠点を移す
これより以前、次のような童謠が流行っていました。
燕の南の果て、趙の北の果てに、
中央が裂けた大きな砥石のような場所がある
この中だけが、世の中から身を隠すことができる
公孫瓚は、「易の地」こそがこの歌にうたわれている場所だと考え、その地に土山を築いて防御を固めます。
易京は、冀州・河間国・易県の西、45里(約19km)の地につくられました。
易京
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鮑丘の戦い
閻柔の挙兵
元劉虞の従事で幽州・漁陽郡出身の鮮于輔、斉周、騎都尉の鮮于銀らは、燕国の閻柔が かねてから人々に恵みを施し、信頼されていたことから、共同して閻柔を烏桓司馬(烏丸司馬)に推し立てて、幽州の軍勢を率いて公孫瓚に復讐しようと考えました。
閻柔は烏桓族(烏丸族)と鮮卑族に誘いをかけて、異民族・漢人合わせて数万の軍勢を手に入れ、公孫瓚が配置していた漁陽太守の鄒丹と漁陽郡・潞県の北で交戦し、散々にこれを撃ち破って、鄒丹以下4千人を斬首します。
幽州・漁陽郡・潞県
鮑丘の戦い
その後、烏桓族(烏丸族)の峭王(蘇僕延)は、烏桓(烏丸)・鮮卑7千騎を率いて鮮于輔に従い、南に向かって袁紹の元にいる劉虞の子・劉和を迎えに行きます。
すると袁紹は、劉和と麴義に兵を与え、鮮于輔らと共に合計10万の兵で公孫瓚を攻撃して鮑丘(川の名前:鮑丘水・路水)で破り、2万余人を斬首しました。
興平2年(195年)のことです。
緑線:鮑丘(路水)
「鮑丘の戦い」の戦場は詳しく記されていませんが、おそらく鮑丘水の潞県周辺で行われたものと思われます。
麴義を撃退する
鮑丘で敗れた公孫瓚は易京に立て籠もると、屯田を開置して ようやく自軍を支えるだけの収入を得ることができるようになりました。
公孫瓚を追った麴義軍と対峙すること1年余り、ここに至って麴義軍の兵糧が尽き、士卒たちは飢えに苦しんで、数千人が逃げ出してしまいます。
この様子を見た公孫瓚は出撃して麴義軍を撃ち破り、その輜重(軍需物資)をすべて奪い取りました。
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易京に立て籠もる
4郡を失う
この時、日照りと蝗の災害があって穀物の値段が高騰し、民衆は互いに食らい合うような有り様となります。
公孫瓚は自分自身だけを恃みにして人々を労らず、人の過ちを記し、善行は忘れ、睨む程度の怨恨にも必ず報復し、役人の子弟の中でも名声が高い者に対しては、必ず法を利用して危害を加えました。
ある人がその理由を尋ねると、
「今、役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、みな自分がそのような官職に就くのは当然だと考えて、儂が取り立ててやったことに対して感謝しないだろう」
と答え、公孫瓚が特別に目をかけて、やりたい放題にさせている者たちは、みな凡庸な者ばかりでした。
中でも、
- 元占い師の劉緯台
- 絹商人の李移子
- 商人の楽何当
ら3人とは義兄弟の契りを結び、自分は「伯」(兄弟の1番上)と称し、3人を「仲」(同2番目)・「淑」(同3番目)・「季」(同4番目)と呼んでいました。
また、3人とも巨万の富を有した大金持ちであったため、彼らの娘を自分の息子の嫁にして、つねづね彼らを前漢の曲周侯(鄜商・もとは身分が卑しかった)や潁陰侯(灌嬰・もとは絹商人だった)の仲間に例えていました。
彼らは至る所で乱暴を加えたので、民は公孫瓚に怨みを持つようになります。
ここに至ると、
- 代郡
- 広陽郡
- 上谷郡
- 右北平郡
の各郡では、各々公孫瓚が任命した長吏を殺害し、鮮于輔や劉和の軍に合流しました。
公孫瓚に反した諸郡
以降、公孫瓚軍は敗北を重ねました。
易京の防備を強化する
公孫瓚は非常事態が起こることを恐れ、易京に10重の塹壕をめぐらし、その塹壕の内側に高さ5〜6丈(約11.5m〜13.8m)の土山を築いてその上に物見の楼閣を建てました。
中でも中心の塹壕には、特別に高さ10丈(約23m)の土山をつくって、公孫瓚はそこに居住します。諸将もそれぞれ高い楼閣を築いたため、楼閣は4桁の数にのぼりました。
公孫瓚は鉄製の門をつくって7歳以上の男子は易京の門に入れなくし、側近の臣下を遠ざけて、下女や側室をそばに侍らせ、文書や帳簿などはみな、水を汲むように縄で吊り上げさせます。
また、婦人に数百歩離れた所にも聞こえるような大声を出す訓練をし、それによって教令を伝えました。
このように公孫瓚は、賓客を疎んじ、遠ざけて深く信用しなくなったので、謀臣や猛将は、次第に離れて行きました。
公孫瓚の思惑
これ以降、ほとんど攻戦しなくなったので、ある人がその理由を公孫瓚に尋ねると、
「儂は昔、反乱を起こした異民族を塞外(塞の外・国外)に追い出し、黄巾を孟津に掃討したが、その時儂は、天下のことを指で指し示しながら平定できると思っていた。
だが、今日に至っては戦いはすでに始まっており、これを見ると儂がどうこうできるものではない。兵を休めて農耕に励み、不作の年を補うことが最良であろう。
兵法に百の楼城は攻めないとある。今、我が諸営の楼城は数十重もあり、穀物は3百万斛もあり、これを食べ尽くすだけの時間があれば、天下の変化を待つのに充分なはずだ」
と答えました。
その後、袁紹は大将を差し向けて公孫瓚を攻撃させましたが、何年経っても陥落させることができませんでした。
初平4年(193年)冬、幽州牧・劉虞を処刑した公孫瓚は、事実上幽州を領有して隆盛を極めましたが、興平2年(195年)に鮮于輔らが兵を挙げると、潞県の北に続いて鮑丘でも敗北。易京に引き籠もるようになります。
その後、麴義を撃退した公孫瓚ですが、失政により民の怨みを買って4つの郡が離反する中、易京の防備をさらに固め、敢えて動かず情勢の変化を待つことにしたのでした。