長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至った献帝が、李傕らの追撃を受けながら、司隷・河東郡・安邑県に到着し、都に定めるまでをまとめています。
スポンサーリンク
目次
李傕と郭汜が再び手を結ぶ
献帝の東遷(とうせん)
郭汜の失脚
興平2年(195年)6月、李傕と郭汜の争いが激化すると、司隷・弘農郡・陝県に駐屯していた張済が長安にやって来ました。
張済は李傕と郭汜を和睦させると、天子(献帝)をしばらく弘農郡・弘農県に行幸(外出)させることを認めさせました。
その後、李傕は長安を出て封地の司隷・左馮翊・池陽県に駐屯。
郭汜は天子(献帝)の東遷に同行していましたが、行幸(外出)先をめぐって楊定・董承・楊奉らと対立し、軍を棄てて南山(長安にある終南山)に逃亡します。
楊定と段煨の対立
天子(献帝)が司隷・弘農郡・華陰県に到着すると、華陰県に駐屯していた寧輯将軍・段煨が出迎えました。
献帝の東遷経路
すると、もともと段煨と対立していた楊定らは、「段煨は謀反を計画している」と言い、段煨の陣営に攻め込みます。
ですが、段煨に二心がないことを見て取った天子(献帝)は、詔を下して楊定らを諭し聞かせ、楊定と段煨を和解させました。
関連記事
【027】逆襲の孫堅!袁術の陰謀と劉表を攻めた孫堅の怒濤の快進撃
李傕・郭汜・張済の連合
李傕と郭汜は、天子(献帝)を東に向かわせたことを後悔していました。
そんな時、楊定が段煨を攻撃したと聞いた2人は、お互いに誘い合い、「段煨を救援する」という名目で華陰県に行き、天子(献帝)を脅迫して西(長安)に連れ帰ろうと計画します。
李傕と郭汜がやって来たことを知った楊定は、南の司隷・京兆尹・藍田県に還ろうとしましたが、郭汜に遮られたため、単騎荊州に逃亡してしまいました。
司隷・京兆尹・藍田県
またこの時、楊奉・董承らと折り合いが悪かった張済は、再び李傕・郭汜と合流します。
スポンサーリンク
李傕・郭汜らの追撃
東澗の戦い
11月、天子(献帝)が司隷・弘農郡・弘農県に到着しました。
張済・李傕・郭汜は天子(献帝)を追撃し、弘農県の東澗(渓谷)で董承・楊奉らと激しい戦闘になります。
天子の軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物(服飾や器物)や符策(符節や命令書)、典籍は棄てられました。
司隷・弘農郡・弘農県
豆知識
この戦いの最中、董承・楊奉軍の射声校尉・沮儁が負傷して落馬してしまいます。
そこへ通りかかった李傕が、左右の者に「まだ助かるか?」と尋ねると、沮儁は李傕を罵って言いました。
「お前たちは天子(献帝)を脅迫し、公卿に害を加え、宮人を流浪させた凶悪な逆賊だっ!
これまで乱臣・賊子は数多いたが、いまだかつてお前たちほどの者はいなかったっ!」
これを聞いた李傕は、沮儁を殺害しました。
『後漢書』孝献帝紀では、この戦いで射声校尉・沮儁の他に、
- 光禄勲・鄧泉
- 衛尉・士孫瑞
- 廷尉・宣播
- 大長秋・苗祀
- 歩兵校尉・魏桀
- 侍中・朱展
が戦死したと記されていますが、『資治通鑑』では彼らが殺害されるのはまだ先のこととされ、苗祀・魏桀・朱展については記されていません。
援軍が李傕らを破る
天子(献帝)は司隷・弘農郡・弘農県の曹陽澗(渓谷)で野宿しました。
この時董承と楊奉は、偽って李傕らと手を組んだ振りをして秘かに司隷・河東郡に密使を送り、
- 元白波賊の帥・李楽
- 韓暹
- 胡才
- 南匈奴の右賢王・去卑(『後漢書』孝献帝紀では左賢王)
らを招きます。
すると李楽らは合わせて数千騎の兵を率いて駆けつけたかと思うと、董承・楊奉と共に李傕らを大いに撃ち破り、斬首した数は数千級にのぼりました。
天子(献帝)を西(長安)に連れ帰ろうとする李傕らを破ったことで、董承はまた「東[洛陽(雒陽)]に帰る」ことを考えます。
李傕らの逆襲
12月、天子(献帝)が弘農県の曹陽澗(渓谷)から出発しました。
董承と李楽が天子(献帝)の車の左右を護衛し、胡才、楊奉、韓暹、去卑が後ろに続いて敵に備えます。
ですが、また李傕らの襲撃を受けた楊奉らは大いに敗れ、その死者は「東澗の戦い」を大きく上回るものとなりました。
「事は急を要します。陛下(献帝)は馬に乗ってお逃げくだされっ!」
事ここに至って、李楽は天子(献帝)に先に逃げるように言上しますが、天子(献帝)は、
「百官を捨てて逃げることはできない。彼らに罪はないのだ」
と言って聞き入れませんでした。
天子(献帝)の一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷・弘農郡・陝県に着いて陣営を構えた時には、虎賁兵・羽林兵合わせて100人にも満ちませんでした。
司隷・弘農郡・陝県
この戦いで、
- 光禄勲・鄧淵
- 廷尉・宣播
- 少府・田芬
- 大司農・張義
が戦死。また、
- 司徒・趙温
- 太常・王絳
- 衛尉・周忠
- 司隸校尉・管郃
らが捕らえられ、李傕は彼らを処刑しようとしましたが、賈詡が、
「彼らはみな大臣です。卿(あなた)はどうして彼らを殺そうとなさるのですか」
と言って止めたので、処刑を取りやめました。
陣営を棄て河を渡る
天子(献帝)の乗船
李傕と郭汜が天子(献帝)の陣営を包囲して兵に大声で叫ばせると、官吏や兵士たちはみな青ざめて逃走を考えるようになりました。
もはや支えきれないと思った李楽は、天子(献帝)を船に乗せ、砥柱(司隷・弘農郡・陝県の東北、黄河の急流にある柱状の岩山)を通って孟津に出ることを提案します。
砥柱と孟津に
ですが、太尉の楊彪は、
「私は弘農郡の出身です。ここから東には36の早瀬があり、とても天子(献帝)が通られるべき場所ではありません」
と言い、劉艾も、
「私は以前、陝令(陝県の県令)をしておりましたので、その危険さを知っております。
案内がいても転覆することがありますのに、まして今は案内もいない。太尉(楊彪)の判断は正しい」
と言ったので、黄河を下るのではなく、黄河を渡って北の司隷・河東郡・大陽県に向かうことにし、李楽に命じて夜の間に秘かに船を調達させました。
李楽が火を挙げて合図をすると、天子(献帝)は公卿と共に陣営を出て徒歩で河岸に向かいますが、河岸の岸壁が高くて下りられません。
そこで董承らは馬の手綱を結び合わせて、天子(献帝)の腰にくくりつけようとします。
この時、皇后(伏皇后)の兄で中宮僕の伏徳は皇后(伏皇后)を助けていましたが、片方の手に10匹の絹を持っていたので、その絹を結び合わせて輦(御輿)をつくり、強力の持ち主の行軍校尉・尚弘が天子(献帝)を背負って、ようやく下に降りることができました。
豆知識
陣営を出て河岸に向かっている時、伏皇后は自らの手に縑数匹を持っていたので、董承は符節令の孫徽に皇后(伏皇后)を刃で脅させてこれを奪って傍らの従者を殺し、その返り血が皇后(伏皇后)の衣を汚しました。
河岸の惨状
その他の者は、ある者は腹ばいになって岸を降り、ある者は自ら飛び降りたので、彼らの冠幘(冠や頭巾)はみな敗れ、死亡したり負傷した者の数は数え切れないほどで、河辺に行き着いた士卒たちは先を争って船に向かって来ます。
董承と李楽は彼らを制御することができず、乗せきれない者たちが船縁にしがみつくその手を戈で斬り払ったので、船中には切断された指が手ですくえるほどになりました。
天子(献帝)と共に河を渡る者は、
- 伏皇后
- 宋貴人
- 楊彪
- 董承
- 執金吾の伏完(伏皇后の父)
の他、数十人のみで、渡ることができなかった宮女や吏民たちはみな李傕の兵に略奪され、衣服もなくなり、髪を切られて多くの者が凍死しました。
またこの時、衛尉の士孫瑞が李傕によって殺害されています。
司隷・河東郡・大陽県に入る
河北に火が灯っているのを見た李傕が騎兵を派遣して偵察させてみたところ、天子(献帝)が渡河するところを見つけたため、李傕は河岸まで来て、
「お前たちは天子(献帝)を連れてどこに行くのだ!?」
と叫びました。
すると董承は、船に幔幕を張って李傕が矢を射ってくることを避けて進んだので、天子(献帝)は無事 対岸の司隷・河東郡・大陽県に着くことができました。
司隷・河東郡・大陽県
そして、天子(献帝)が先行して陣営を構えていた李楽の陣営に入ると、飢えた百官のため、河内太守の張楊が数千人に米を背負わせて献上してきます。
スポンサーリンク
李傕・郭汜と和睦する
安邑県を都とする
天子(献帝)は、牛車で司隷・河東郡・安邑県に入って都としました。
司隷・河東郡・安邑県
すると、河東太守の王邑が綿帛を献上してきたので、天子(献帝)はそれらを公卿以下、従ってきた者たちに分け与え、王邑を列侯に封じ、
- 胡才を征東将軍
- 張楊を安国将軍
に任命し、符節を与えて官府を開くことを許しました。
すると、塁に立て籠もっていた者たちはが競って官職を求めたので、印綬の刻印が間に合わず、錐で文字を刻んだだけの簡素な印綬がつくられたほどでした。
この時天子(献帝)は草木の乱れ茂った垣根のあばら屋に住んでいたので、天子(献帝)が群臣と会っている時など、兵士が垣根の上からのぞき込み、ヒソヒソと笑いあうこともありました。
李傕・郭汜と和睦する
天子(献帝)は太僕の韓融を弘農郡に派遣して、李傕・郭汜と和睦します。
すると李傕は、捕らえていた公卿百官を釈放し、これまで奪った宮女や御物(服飾や器物)の多くを天子(献帝)に返還しました。
河内太守の張楊が司隷・河内郡・野王県から来朝して「天子(献帝)を洛陽(雒陽)に帰還させる」ことを提案しましたが、諸将が同意しなかったため、野王県に還りました。
この時、長安城に統治する者がいなくなって40余日が経過していました。
強者は四散し、弱者は飢えて互いに食らい合い、2、3年の間に関中(函谷関より西の長安を中心とする地域)には人影が無くなりました。