194年【漢:興平元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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194年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
ー |
朝廷
官職 |
人物 |
太傅 |
馬日磾(〜12月) |
太尉 |
朱儁 → 楊彪 |
司徒 |
淳于嘉 → 趙温 |
司空 |
張喜 |
太常 |
楊彪(〜7月) |
衛尉 |
趙温(〜10月) |
車騎将軍 |
李傕 |
右車騎将軍 |
朱儁 |
後将軍 |
郭汜 |
右将軍 |
樊稠 |
安狄将軍 |
馬騰 |
鎮東将軍 |
張済 |
安降将軍 |
韓遂 |
奮武将軍 |
公孫瓚 |
奮威将軍 |
呂布 |
地方官
官職 |
人物 |
冀州牧 |
袁紹 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉焉 |
徐州牧 |
陶謙 |
幽州刺史 |
段訓 |
豫州刺史 |
郭貢 |
青州刺史 |
田楷 |
揚州刺史 |
劉繇 |
交阯刺史 |
朱符 |
遼東太守 |
公孫度 |
陳留太守 |
張邈 |
陳湣王 |
劉寵 |
広陵太守 |
趙昱 |
九江太守 |
陳紀 |
丹楊太守 |
呉景 |
廬江太守 |
陸康 |
豫章太守 |
周術 |
会稽太守 |
王朗 |
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194年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 天下に大赦する。
- 「興平」と改元する。
- 献帝が元服した。
|
2月 |
- 献帝の母・王氏に霊懐皇后の尊号を追贈し、改めて文昭陵に埋葬する。
- 献帝が藉田儀礼を行う。
|
不明 |
- 兗州牧・曹操が再び徐州に侵攻する。
- 張邈、呂布、陳宮らが兗州で反乱を起こす。
- 曹操が兗州に撤退する。
|
3月 |
- 韓遂と馬騰が郭汜・樊稠らと長平観で戦い大敗する。
- 韓遂・馬騰に味方した左中郎将・劉範、前の益州刺史・种劭、侍中・馬宇らが戦死する。
|
4月 |
- 馬騰が安狄将軍に任命される。
- 韓遂が安降将軍に任命される。
- 三輔に大日照りがあり、7月まで続いた。
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5月 |
- 郭汜が後将軍に任命される。
- 樊稠が右将軍に任命される。
|
6月 |
- 涼州の河西4郡を分割して雍州が設置される。
- 地震があった。
- また地震があった。
- 日食があった。
- 献帝が政事を行わないこと5日に及んだ。
- 大いに蝗の害があった。
|
7月 |
- 太尉の朱儁が罷免された。
- 太常の楊彪が太尉・録尚書事に任命される。
- 献帝が正殿を避けて雨を請い、使者を派遣して囚人を調査させ、軽罪の者を赦した。
- 4月から続いた日照りで穀物1斛の値段が50万銭に、豆や麦でも20万銭に上がり、人々は互いに喰らい合い、白骨が野ざらしとなった。
- 献帝が太倉の米や豆を供出し、飢民(飢えた民)のために糜粥を作らせた。
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8月 |
- 司隷・左馮翊の羌族が反乱を起こし、郭汜・樊稠に討伐される。
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9月 |
- 桑の木が再び実をつけ、人々は食べることができるようになった。
- 司徒の淳于嘉が罷免された。
- 呂布が籠もる濮陽県の攻略に失敗した曹操が鄄城県に帰還した。
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10月 |
- 長安の市の門が自然に壊れた。
- 衛尉の趙温が司徒・録尚書事に任命される。
- 曹操が東阿県に移った。
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12月 |
- 安定郡と右扶風が分割されて右扶風が設置される。
- 太傅の馬日磾が寿春県で亡くなった。
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不明 |
- 益州牧・劉焉が亡くなった。
- 劉璋が益州刺史に任命される。
- 孫策が袁術の下に身を寄せる。
- 袁術が徐州侵攻を企て、廬江太守・陸康に兵糧の供出を求める。
- 兵糧の供出を拒んだ陸康に激怒した袁術が、孫策に廬江県を攻めさせる。
- 揚州刺史・劉繇が袁術配下の呉景・孫賁を追い出す。
- 徐州牧・陶謙が亡くなった。
- 劉備が徐州を領する。
|
※『後漢書』献帝紀には「この年、揚州刺史の劉繇と袁術の将である孫策が曲阿県に戦い、劉繇の軍は大敗し、孫策はついに江東を拠点とした」とありますが、当サイトでは翌年以降のこととして扱います。
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194年の三国志群雄勢力図
1月
興平元年(194年)1月の三国志群雄勢力図
長平観の戦い
興平元年(194年)3月、穀物が不足して窮乏する将兵が多いことから、馬騰は自ら上奏して穀物を得たいと願い出ましたが、李傕は馬騰の要求を拒否したため、馬騰は激怒しました。
そこで馬騰は、李傕らが専横を極め、朝政(朝廷の政治)を乱していると、益州牧・劉焉に使者を派遣して、共に李傕らを誅殺することを提案します。
すると劉焉は、長安にいる息子・左中郎将の劉範に兵を率いて馬騰に味方するように伝えました。
かくして、
- 左中郎将の劉範
- 侍中の馬宇
- 諫議大夫*1の种劭(种邵)
らは「馬騰が長安を攻めたならば、城内から呼応して李傕らを誅殺する」ことを約束しますが、馬騰と韓遂は長平観で敗北して涼州に撤退。
一方、劉範らの「内応の計画」は露見して槐里県に逃げ込みますが、李傕の兄の子・李利と樊稠に討たれ、さらし首にされました。
長平観と槐里県
関連記事
馬騰と韓遂が李傕と郭汜に背いた長平観の戦い
脚注
*1 袁宏の『後漢紀』献帝紀では元の涼州刺史。『後漢書』献帝紀では前の益州刺史。
12月
興平元年(194年)12月の三国志群雄勢力図
曹操の第2次徐州侵攻
この年、曹操は本拠地の兗州に荀彧・程昱・夏侯惇らを残し、再び徐州に侵攻を開始します。
琅邪国から徐州に入った曹操軍は、多数の民衆を虐殺しながら諸県を攻略し、東海郡に入りましたが、「呂布・陳宮・張邈らが兗州で叛旗を翻した」という報告を受けると、すぐさま兵をまとめて兗州に引き返しました。
関連記事
第二次徐州侵攻と兗州の反乱。陳宮はなぜ反乱を起こしたのか
濮陽の戦い
呂布・陳宮らが反乱を起こすと、兗州の多くの郡県が彼らに従いましたが、兗州に残された荀彧・程昱・夏侯惇らの機転によって、かろうじて済陰郡の鄄城県、東郡の范県と東阿県の3県を確保することができました。
鄄城県・范県・東阿県
徐州から兗州に帰還した曹操は、呂布が駐屯する東郡・濮陽県の西にある陣を落とし、濮陽県を包囲します。
この時、城内から濮陽県の豪族・田氏が内通したことによって城内になだれ込んだ曹操は、引き返す意志がないことを示すため入城してきた東門に火を放ちますが、呂布軍の猛反撃を受け、命からがらもと来た燃えさかる東門から城外に脱出しました。
その後体勢を立て直した曹操は、100余日の間呂布と対峙しましたが、にわかに蝗が湧き起こり、兵糧が尽きた両軍は共に兵を退き、曹操は済陰郡・鄄城県に駐屯しました。
この年の6月に蝗の害があったことから逆算すると、曹操が徐州に侵攻したのは、2月頃だと思われます。
関連記事
【濮陽の戦い】呂布 vs 曹操。典韋の武勇と曹操の危機
献帝の飢民対策
献帝は正殿を避けて雨を請い、使者を派遣して囚人を調査させ、軽い罪の者を赦しました。
この年の7月、4月から続いた日照りにより、穀物は1斛・50万銭に、豆や麦でも1斛・20万銭に上がり、人々は互いに喰らい合うようになり、白骨が野ざらしとなります。
すると献帝は、侍御史の侯汶に命じて太倉の米や豆を供出し、飢民(飢えた民)のために糜粥を作らせますが、数日を経ても使者は減りませんでした。
献帝はこの状況に「賜与に不正がある」と疑って、自分の目の前で量を量って粥を作らせてみたところ、やはり命令通りに賜与が行われていないことが分りました。
これに献帝は、侍中の劉艾を派遣して担当者らを叱責させると、尚書令以下の者はみな宮門を訪ねて謝罪し、侯汶を逮捕して実態を調査することを求める上奏をします。
すると献帝は、
「侯汶を処刑するには忍びない。杖打ち50回とせよ」
と詔を下しました。
そしてこれ以降、適切な賜与が行われるようになり、多くの者が救われました。
益州牧・劉焉の死
この年、背中にできた悪性の腫瘍のため益州牧・劉焉が亡くなります。
この時、益州の大官・趙韙らは、劉焉の4男で人柄が温厚な劉璋を益州刺史とするように朝廷に上書しますが、朝廷はこれを認めず、扈瑁を益州刺史に任命して益州・漢中郡に入らせました。
すると、扈瑁に呼応して荊州の別駕従事・劉闔が益州に侵攻し、劉璋の将軍・沈弥、婁発、甘寧らが叛旗を翻しましたが、撃ち破ることができず、荊州に逃亡します。
これに朝廷は、劉璋による益州の統治を覆せないと判断し、詔勅を下して劉璋を監軍使者として益州牧を兼務させ、趙韙を征東中郎将に任命しました。
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益州牧・劉焉の死と劉璋への益州牧の継承
徐州牧・陶謙の死
曹操軍が撤退した後のこと、病が悪化して徐州牧・陶謙が亡くなります。
別駕従事の麋竺は「劉備でなければ、この州(徐州)を安定させることはできない」という陶謙の遺言に従って劉備を迎えに行きますが、劉備は遠慮して引き受けようとしません。
そこで、陳登と北海太守・孔融も加わって劉備を説得し、ついに劉備は徐州を統治することになりました。
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陶謙の死。劉備への徐州継承と袁術派から袁紹派への転身
袁術と劉繇の衝突
袁術が陸康を攻める
この年、孫堅の長子・孫策が徐州・広陵郡・江都県から揚州・九江郡・寿春県に移り、袁術に仕えました。
孫策関連地図
袁術は徐州を攻めようと考え、廬江太守の陸康に「米3万石を供出するように」と要求しますが、陸康がこの要求に応えなかったため激怒します。
そこで袁術は孫策に揚州・廬江郡の攻撃を命じました。
揚州刺史・劉繇との衝突
朝廷に任命された揚州刺史・劉繇は、揚州刺史の治所である寿春県に袁術が居座っていたことから、袁術との衝突を避けて揚州・呉郡・曲阿県に治所を置いていました。
ですが、袁術が独断で廬江郡に攻撃を仕掛けたことから、「袁術に漢王朝に対して反逆の意思がある」とみて、袁術によって任命された丹楊太守・呉景と丹楊都尉・孫賁を丹楊郡(丹陽郡)から強制的に追い出しました。
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袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突
興平元年(194年)は、
- 中央での韓遂・馬騰の反乱
- 兗州での呂布・陳宮らの反乱
に加え、
- 益州牧・劉焉の死
- 徐州牧・陶謙の死
- 揚州刺史・劉繇の侵出
などによって、各地で勢力図が大きく塗り変わりました。
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