兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が最後に残った雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、これを救援しようとする臧洪(ぞうこう)と、それを許さない袁紹(えんしょう)の間に亀裂が生じました。

雍丘県(ようきゅうけん)の陥落と、その後臧洪(ぞうこう)が袁紹(えんしょう)との関係を断ち、袁紹(えんしょう)に攻められて処刑されるまでをまとめています。

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張超の希望

曹操が雍丘県を包囲する

興平(こうへい)2年(195年)、兗州(えんしゅう)の争奪戦で曹操(そうそう)に敗れた呂布(りょふ)・陳宮(ちんきゅう)・張邈(ちょうばく)らは、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を頼って東に逃(のが)れましたが、未(いま)だ張邈(ちょうばく)の弟・張超(ちょうちょう)は、一族を引き連れて兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・雍丘県(ようきゅうけん)に駐屯していました。


雍丘県(ようきゅうけん)

雍丘県(ようきゅうけん)


そしてこの年の8月、兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が、ついに雍丘県(ようきゅうけん)を包囲します。

この時、徐州(じょしゅう)に逃れていた張邈(ちょうばく)が袁術(えんじゅつ)の元に救援の要請に向かいますが、その途上で部下に殺害されてしまいました。

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曹操の兗州平定。曹操に敗れた呂布が徐州の劉備を頼る

張超の希望

兗州(えんしゅう)にただ1人取り残され、曹操(そうそう)に包囲された張超(ちょうちょう)ですが、それでも、


「臧洪(ぞうこう)だけが頼みだ。きっと儂(わし)を救いに来てくれるはずだ」


と、一縷(いちる)の希望を口にしました。

するとこの張超(ちょうちょう)の言葉を聞いた人々は、


「袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)は友好関係にある上に、臧洪(ぞうこう)は今、袁紹(えんしょう)によって取り立てられているのだから、両者の友好を損ない災難を招(まね)いてまで、遠路はるばるここへやって来るはずがない」


と主張します。

ですが張超(ちょうちょう)は、


「子源(しげん)(臧洪(ぞうこう)の字(あざな))は天下の義士であり、あくまで最初に引き立ててくれた者を裏切らない男だ。心配があるとすれば、ただ袁紹(えんしょう)に足止めされて間に合わなくなることだけだ」


と言って、臧洪(ぞうこう)の救援を待ち続けました。


臧洪(ぞうこう)とは、張超(ちょうちょう)が広陵太守(こうりょうたいしゅ)だった時に招(まね)いて功曹(こうそう)に任命した人物で、張超(ちょうちょう)は臧洪(ぞうこう)に全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せ、臧洪(ぞうこう)もその信頼によく応(こた)えていました。

初平(しょへい)2年(191年)1月、臧洪(ぞうこう)は「劉虞(りゅうぐ)を天子(てんし)に擁立(ようりつ)にする」ために幽州(ゆうしゅう)に派遣されましたが、河間国(かかんこく)まで来たところで公孫瓚(こうそんさん)と袁紹(えんしょう)が交戦しているところに出くわしたため、その使命を果たせませんでした。

そしてこの時、臧洪(ぞうこう)と会見して彼を気に入った袁紹(えんしょう)は、彼と友好関係を結んで青州(せいしゅう)を任せ、曹操(そうそう)が雍丘県(ようきゅうけん)を包囲した興平(こうへい)2年(195年)8月には、袁紹(えんしょう)によって東郡太守(とうぐんたいしゅ)に任命されて東武陽県(とうぶようけん)に住んでいました。


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臧洪が袁紹と絶縁する

雍丘県の陥落

張超(ちょうちょう)が駐屯する雍丘県(ようきゅうけん)が曹操(そうそう)に包囲されていることを知った臧洪(ぞうこう)は、号泣しながら裸足で飛び出して配下の兵を勢揃いさせ、さらに袁紹(えんしょう)に「兵馬を貸して欲しい」と頼み込んで、張超(ちょうちょう)の救援に向かうことを願い出ますが、袁紹(えんしょう)はあくまで許可しませんでした。


その結果、12月には雍丘県(ようきゅうけん)が陥落。

張超(ちょうちょう)は自害して、張超(ちょうちょう)に預けられていた張邈(ちょうばく)の三族(父母・兄弟・妻子)は曹操(そうそう)に処刑されました。


このことがあってから、臧洪(ぞうこう)は袁紹(えんしょう)を怨(うら)んで関係を断ち、袁紹(えんしょう)は軍隊を出動して東武陽県(とうぶようけん)を包囲しましたが、年を経(へ)ても陥落させることはできませんでした。


兗州・東郡・東武陽県

兗州(えんしゅう)・東郡(とうぐん)・東武陽県(とうぶようけん)

袁紹の説得を拒む

そこで袁紹(えんしょう)は、臧洪(ぞうこう)と同郷の陳琳(ちんりん)に書簡を書かせ、抵抗する場合と帰順する場合の利害について教え諭(さと)し、恩義に背(そむ)いたと避難します。

するとこれに対して臧洪(ぞうこう)は、次のような返書を返します。


「私はつまらない人間で、もともと使者として当地に参った縁(えん)から、大きな州(青州(せいしゅう))を分不相応にも治めさせていただき、こうむったご恩は深く、待遇は手厚かったのです。どうして今日になって、自分の方から逆に刀を交(まじ)えることを願いましょうか。

任務をお受けした当初は、大事をやり抜き、共に王室を尊崇(そんすう)するものと思っておりました。

ところが思いもかけず、故郷の徐州(じょしゅう)が曹操(そうそう)の攻撃を受け、張超(ちょうちょう)が駐屯する雍丘県(ようきゅうけん)が包囲され、また陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)・張邈(ちょうばく)は暗殺の企(たくら)みに倒れました。

大恩ある張超(ちょうちょう)の救援計画が遅れれば『忠孝』の名を失うことになり、袁紹(えんしょう)の下を去れば『交友』の義理に欠けることになります。この2つのことを比較して、どちらかを犠牲にするのがやむを得ない状況で、私は張超(ちょうちょう)との『忠孝』を選び、涙を拭(ぬぐ)って絶交を宣言したのです。

城に登って兵を指揮するたびに、袁紹(えんしょう)の軍旗と陣太鼓を望み見て、旧友(陳琳(ちんりん))の斡旋(あっせん)に心を動かされ、弦(つる)をさすり矢をつかみつつ、知らないうちに思わず涙が顔いっぱいに溢(あふ)れ出ています。

ですが、今またあなた(陳琳(ちんりん))との『交友』の道を全(まっと)うして説得に応じれば、重ねて『忠孝』の名を失うことになるでしょう。

さらば孔璋(こうしょう)(陳琳(ちんりん)の字(あざな))よ。あなた(陳琳(ちんりん))は故郷の外に出て利益をあげるつもりらしいが、私は天子(てんし)さまと親に命を捧(ささ)げます。あなたは盟主(袁紹(えんしょう))にその身を託(たく)しておられるが、私は長安(ちょうあん)(天子(てんし))にお仕えしているのです。

あなたは私が殺されて名前も残らないと思っておられるだろうが、私の方でもあなたが生きていようが死んでしまおうが、一向に名をあげることができないことを笑っています。悲しいことです。

根本(ねもと)は同じでも、梢(こずえ)になると離れてしまうとは。一所懸命努力されよ。もうこれ以上、何も言うことはありません」

臧洪の陳琳への返書全文
タップ(クリック)すると開きます。

ご無沙汰を続けておりますが、寝ても覚(さ)めても忘れたことはありません。

幸いなことに、お互い(臧洪(ぞうこう)と陳琳(ちんりん))の距離はほんのわずかに過ぎません。しかしながら、生き方に対する基本的な態度を異(こと)にしておりまして、相(あい)まみえることの叶(かな)わぬのが痛恨の至り、気にかけずにはいられません。

先達(せんだっ)ては、私のことをお忘れにならず、かたじけなくも何度も玉簡(ぎょっかん)(手紙)を賜(たまわ)って、利害についてご説明くだされ、公私両面に渡って行き届いたご配慮をお示しくださいました。

すぐにご返事を差し上げなかったのは、浅学鈍才にして詰問(きつもん)に充分お答えすることができない上に、あなたは側室を伴(ともな)って主人(袁紹(えんしょう))の厄介になられ、家族を東方の州に置かれつつ、私とは仇敵の間柄になってしまわれたからでございます。

こういう事情(家族を徐州(じょしゅう)に置いていること)にありながら、他人(ひと)(袁紹(えんしょう))に仕えられた場合には、たとえ事情を披瀝(ひれき)(つつみかくさず打ち明けること)し、肝胆(かんたん)をさらけ出したとしても、なお我が身は遠ざけられて罪を受け、気に入られるような発言をしても疑惑を招(まね)くことになるものです。

そうなれば、まったく対処に苦しむことになりますのに、どうして人のことなど構っていられるのでしょうか。

それにあなたは優れた才能をお持ちの上に、典籍を広く究(きわ)めておられるのですから、一体、大道理が分からず、私の意向をご明察なさらぬはずがありましょうか。ところがなお、かくかくしかじかとおっしゃっておられます。

私はこのことから、足下(陳琳(ちんりん))の言葉が実際は衷心(ちゅうしん)(まごころの奥底)から出たものではなく、自分に降りかかる恐れのある災難から逃れるためのものと判断いたしました。

あくまで損得を計算して是非を弁別(見分けること)しようとなさるならば、是非の議論は天下に満ち渡るほど多様であって、これに対して説明いたせばいたすほど不明確となり、何も語らなくても差し支えがないことになりましょう。

また発言すれば絶交状の建前を破る結果となり、私にとって、なすに忍びないことでございました。こういう訳で、紙筆を放り出してまったくご返事いたさなかったのです。

また、私の心をはるかにお汲(く)み取りくださり、「私の気持ちはもう決まっていて、二度と変わらないのだ」ということをご承知くださるよう願っておりました。

にも拘(かか)わらず、重ねてお手紙を頂戴いたし、延々6枚に渡って古今の事例を引用しておられるに及んでは、何も言わずにおこうと思っても、どうしてそのままにしておかれましょうか。


私はつまらない人間でございまして、もともと使者として当地に参った因縁から、大きな州(青州(せいしゅう))を分不相応にも治めさせていただき、こうむったご恩は深く、待遇は手厚かったのです。どうして今日になって、自分の方から逆に刀を交(まじ)えることを願いましょうか。

城に登って兵を指揮するたびに、ご主人(袁紹(えんしょう))の軍旗と陣太鼓を望み見て、旧友(陳琳(ちんりん))の斡旋(あっせん)に心を動かされ、弦(つる)をさすり矢をつかみつつ、知らないうちに思わず涙が顔いっぱいに溢(あふ)れ出ている次第です。

なぜならば、自(みずか)ら顧(かえり)みますに、ご主人(袁紹(えんしょう))をお助けして働いたことには、何の悔(く)いもございませんし、ご主人(袁紹(えんしょう))の私への待遇も、同輩よりはるかに抜きん出ていたからでございます。

任務をお受けした当初は、大事をやり抜き、共に王室を尊崇(そんすう)するものと思っておりました。

ところが思いもかけず、天子(てんし)のご不興を買って故郷の州が攻撃を受け(曹操(そうそう)の徐州(じょしゅう)侵攻)、郡将(張超(ちょうちょう))は「牖里(ゆうり)の災禍(さいか)(周(しゅう)の文王(ぶんおう)が紂王(ちゅうおう)によって幽閉されたこと:曹操(そうそう)の雍丘県(ようきゅうけん)包囲)」に遭(あ)い、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)(張邈(ちょうばく))は暗殺の企(たくら)みに倒れました。

(張超(ちょうちょう)救援の)計画が遅れれば、忠孝の名を失うことになり、鞭をつえついて主人(袁紹(えんしょう))の下を離れ去れば、交友の義理に欠けることになります。

この2つのことを比較いたし、どちらかを犠牲にするのがやむを得ないとなれば、忠孝の名を失うことと交友の道に欠けることとでは軽重まったく異なり、親疎(しんそ)画然(かくぜん)と異なります。それゆえ、涙を拭(ぬぐ)って絶交を宣言したのです。

もしもあの時、ご主人(袁紹(えんしょう))が友人に少しでも思いやりを持たれ、泊まる者には席を外して敬意を示され、去りゆく者には自分の感情を抑(おさ)えて快(こころよ)く見送られ、離れ去った友人に対してこだわりを持たれず、刑罰をその場の感情に任せずはっきりとされて自(みずか)らの補(おぎな)いとされましたならば、私は、春秋(しゅんじゅう)時代、国を譲(ゆず)り渡した季札(きさつ)のごとき謙譲(けんじょう)の志を高く掲(かか)げて、今日の戦争をすることはなかったでありましょう。

どうしてこんなことになったのか。昔、張景明(ちょうけいめい)(張導(ちょうどう))は自(みずか)ら壇(だん)に登って血をすすって誓い、ご主人(袁紹(えんしょう))の命を受けて東奔西走(とうほんせいそう)し、とうとう韓馥(かんふく)から冀州牧(きしゅうぼくの印を譲(ゆず)らせることに成功いたし、ご主人(袁紹(えんしょう))は領土を手に入れられたのでした。

その後張導(ちょうどう)は、ただ任命を受けて天子(てんし)の元に参内し、爵位を賜(たまわ)り子孫に伝える資格を得たという理由だけで、ほんのわずかの間に、過失を大目に見るという情をこうむることなく、一族皆殺しの災難を受けたのです。

呂奉先(りょほうせん)(呂布(りょふ))は董卓(とうたく)を討ち取って出奔して来た際、軍兵の貸与を申し入れて断られ、辞去したのに何の罪があったのでしょうか。しかるに再度に渡って主人(袁紹(えんしょう))からの刺客に追われ、あやうく生命を落とすところでした。

劉子璜(りゅうしこう)(劉勲(りゅうくん))は使者として派遣され、その季節が過ぎても使命を果たすことができず、ご威光を恐れ肉親を恋(こ)い慕(した)って、嘘をついてまで帰国を願ったのですから、忠孝の心を抱(いだ)き、覇道に何の差し障(さわ)りもない者だと申せます。ところが、たちまち御旗(みはた)の下に死骸(しがい)となって横たわり、減刑のご無沙汰を受けませんでした。

私は愚(おろ)か者である上に、もともとはじめに遡(さかのぼ)って結末を予測し、わずかな兆候を見て明白な結末を予知したりすることはできない人間ですが、秘(ひそ)かにご主人(袁紹(えんしょう))の気持ちを推測いたしますに、一体この3人の者(張導(ちょうどう)・呂布(りょふ)・劉勲(りゅうくん))は死が当然であり、死刑に該当すると申せましょうか。

実際、山東(さんとう)地域(東中国)を統一し、兵を増強して仇敵を討とうと望まれましても、兵士たちが狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)(疑って躊躇(ちゅうちょ)すること)して、悪を留(とど)め善を勧めることにならない心配があります。

そのため、天子(てんし)のご命令を廃して独断専行権を尊重されまして、ご主人(袁紹(えんしょう))の原則に同調する者は栄達をこうむり、羈絆(きはん)(束縛)から脱することを待ち望んでいる者は、処刑を受けることになりました。

これらのことは、ご主人(袁紹(えんしょう))にとっては利益ではありますが、固定した主君を持ちたくない人間にとっては、願うところではございません。それ故、私は前人(張導(ちょうどう)ら)の例を自己の戒(いまし)めとし、追い詰(つ)められながら必死になって戦っているのでございます。

私は救いようのない愚(おろ)か者ではございますが、それでもかつて君子の言葉を聞いたことがあります。

このような仕儀(しぎ)(事のなりゆき)に立ち至(いた)りましたのは私の本意ではなく、ご主人(袁紹(えんしょう))のせいであります。大体、私が国家に背(そむ)き民衆を棄(す)て、この城に命令権を行使しておりますのは、まさしく『君子は亡命しても、敵国に赴(おもむ)かない』からであります。これがために、ご主人(袁紹(えんしょう))からお咎(とが)めを受け、3ヶ月以上に渡る攻撃を被(こうむ)っておるのです。

ところが、足下(陳琳(ちんりん))はさらに恩義に背(そむ)いたというこの道理を引き合いに出されて、私への警告としておいでですが、言葉は同じでも内容は異なっておりまして、君子が心を揺(ゆ)さぶられるようなものとは言えますまい。

私が聞きますには、義とは親に背(そむ)かないこと、忠とは君を裏切らないことであるとか。それ故私は、東の方は郷里の州(徐州(じょしゅう))を本家として後ろ盾と恃(たの)み、中央は広陵郡(こうりょうぐん)の郡将を助けて国家を安定させんとしているのです。

1つの行動で2つの利益、つまり忠と孝の両方を求めていることになります。これのどこが悪いのでしょうか。しかるに、足下(陳琳(ちんりん))は私に、根本を軽んじ、家を破壊させようとするおつもりのようです。

足下(陳琳(ちんりん))と私とは同じくご主人(袁紹(えんしょう))を主君と仰(あお)いだわけですが、ご主人(袁紹(えんしょう))と私の関係は、年齢的には兄にあたられ、身分としては親友にあたります。

したがって、ご主人(袁紹(えんしょう))が道理にもとれば、辞去して天子(てんし)と両親を安(やす)んずることは道義にかなった行動と申せましょう。

もしもあなた(陳琳(ちんりん))のおっしゃる通りだとすれば、楚(そ)の申包胥(しんほうしょ)は友人の伍員(ごうん)に生命を差し出すのが当然であり、国のために秦宮(しんきゅう)の庭先で号泣するのは不当ということになります。

いやしくも災いを振り払うことに汲々(きゅうきゅう)としておられ、おっしゃっていることが、道理に外れていることにお気づきではないのでしょう。

足下(陳琳(ちんりん))はもしかすると、城の包囲が解かれず救援軍が到達しないのを見て、姻戚間の義理に心を動かし、平素の友愛を思い、生き方を曲げてなんとか生き延(の)びた方が、義を守って破滅することよりずっと勝っているとお考えかもしれません。

春秋(しゅんじゅう)時代の昔、斉(せい)の晏嬰(あんえい)は、斉(せい)の荘公(そうこう)を殺害した崔杼(さいちょ)に白刃(しらは)を突きつけられながら屈服せず、南史(なんし)(史官)は崔杼(さいちょ)の弑逆(しいぎゃく)を直筆し、筆を曲げてまで生を求めませんでした。これがためにこそ、彼らは絵図にその姿を描(えが)かれ、名声を後世に伝えたのです。

まして私は、鉄壁の城に立て籠(こ)もり、兵士・市民の力を駆り立て、3年分の貯(たくわ)えをばらまいて、1年分の資(もとで)とし、困窮(こんきゅう)した者を救済し、貧しい者に補給してやって、天下の人々から喜ばれているのです。今さらどうして兵士を田野に分散して耕作させ、長期駐留しようとなさるのですか。

包囲は覚悟の上で行動しているのです。ただおそらく、秋風が路上の塵(ちり)を吹き上げる頃になると、伯珪(はくけい)(公孫瓚(こうそんさん)の字(あざな))が馬首を南に向けて攻め寄せ、張楊(ちょうよう)・張燕(ちょうえん)が強力を振るって暴(あば)れ出し、北方の辺境地帯から緊急の知らせが入り、股肱(ここう)の臣は救助に帰国したいと懇請(こんせい)(熱心に頼み込むこと)するでありましょう。

ご主人(袁紹(えんしょう))は、まさに私どもの例を反省の材料として、軍隊を撤退せられ、鄴都(ぎょうと)の守りに兵を配置しておかれるべきであります。どうして、いつまでもくだらぬことに腹を立て続け、我が城下で兵威を振るっていていいことがありましょうか。

足下(陳琳(ちんりん))は私が黒山賊(こくざんぞく)を後ろ盾として恃(たの)みにしていると非難なさるが、主人(袁紹(えんしょう))が黄巾の賊と連合した事実だけをどうして無視されるのですか。それに張燕(ちょうえん)の輩(やから)もすべて天子(てんし)の任命を受けているのですぞ。

昔、漢(かん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は(兗州(えんしゅう)・山陽郡(さんようぐん)・)鉅野県(きょやけん)の沼沢(しょうたく)地帯から、盗賊を働いていた彭越(ほうえつ)を取り立て、光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))は緑林(りょくりん)の賊徒の時期においてその基礎を築き、最後はよく中興(ちゅうこう)(漢(かん)の再興)の主として(天子(てんし)の)位(くらい)につき、帝業を成就されたのです。

かりにも天子(てんし)を補佐して教化を興(おこ)すことができるなら、何を盗賊だからといって嫌う必要がありましょうや。ましてや私は自身詔勅(しょうちょく)を奉(ほう)じて彼らと行動を共にしているのです。何の非難すべきことがありましょう。


さらば孔璋(こうしょう)(陳琳(ちんりん)の字(あざな))よ。足下(陳琳(ちんりん))は故郷の外に出て利益をあげるつもりらしいが、臧洪(ぞうこう)は天子(てんし)さまと親より命令を受けているのです。あなたは盟主(袁紹(えんしょう))にその身を託(たく)しておられるが、臧洪(ぞうこう)は長安(ちょうあん)(天子(てんし))にお仕えしているのです。

根本(ねもと)は同じでも、梢(こずえ)になると離れてしまうとは。一所懸命努力されよ。一体これ以上、何を言うことがありましょうや。


袁紹(えんしょう)は臧洪(ぞうこう)の陳琳(ちんりん)への返書を読んで降伏の意志がないことを知ると、兵を増強して激しく臧洪(ぞうこう)を攻め立てました。

東武陽県の陥落

城中では兵糧が底を突き、外からの強力な救援もなかったので、絶対に助からないと覚悟した臧洪(ぞうこう)は、官吏と兵士たちを呼び集めて言いました。


「袁氏(えんし)は無道であり、その意図するところは大それたことである。その上、私と同郷の張超(ちょうちょう)を救援しなかった。

私は大義の上から言って、死を免(まぬか)れるわけにはいかないが、諸君たちには何の因縁もないのに、この災禍を引き被ることになる。

城が落ちる前に、妻子を連れて脱出するがよかろう」


すると、これを聞いた将軍(しょうぐん)・官吏・兵士・民衆たちはみな涙を流して言います。


「殿は袁氏(えんし)と本来何の怨恨(えんこん)も仲違(なかたが)いもなかったのに、今、朝廷と張超(ちょうちょう)さまのことから、自(みずか)ら破滅を招(まね)かれました。

どうして我々に、殿を見捨てて立ち去ることができましょうか」


彼らは、最初は鼠(ねずみ)を掘り出したり、動物の筋(すじ)や角(つの)を煮て食べていましたが、その内に食べることができるものはまったくなくなってしまいました。

その時になって主簿(しゅぼ)が、


「まだ内向きの台所に米が3斗(と)あります。半分に分けて少しずつ粥(かゆ)をつくりましょう」


と言上しましたが、臧洪(ぞうこう)はため息をついて、


「儂(わし)だけがこれを食べてなんとする」


と言い、薄い粥(かゆ)をつくらせてみんなに分け与え、さらに自分の愛妾(あいしょう)を殺して将兵たちに食べさせました。


将兵たちはみな涙を流して顔を上げられる者はなく、その後食糧がなくなって、男女7、8千人が枕を並べて死亡しましたが、離反した者は1人もいませんでした。


臧洪(ぞうこう)は城が陥落する前に、2人の司馬(しば)を城外に脱出させて、呂布(りょふ)に救援を要請させていましたが、彼らが帰ってきた頃には、城はすでに陥落していたため、2人とも敵陣に突入して討ち死にしました。


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2人の烈士の死

臧洪の死

城が陥落すると、袁紹(えんしょう)は臧洪(ぞうこう)を生け捕(ど)りにしました。

袁紹(えんしょう)はかねてから臧洪(ぞうこう)と親しかったので、盛大に幔幕(まんまく)を張りめぐらし、諸将を大勢集めて臧洪(ぞうこう)と会見し、


「臧洪(ぞうこう)よ、どうしてこれほどまでに反抗したのだ?今日こそ屈服しただろうな」


と問いかけます。

すると臧洪(ぞうこう)は、どっかと地面に腰をおろし、かっと目を見開いて言いました。


「袁(えん)一族は漢(かん)王朝に仕えて、4代に渡って5人の三公(さんこう)を出し、ご恩を受けたと言って良い。

それを今、王室が衰弱している時にお助けする気持ちもなく、この機会につけ込んで大それた野心を抱(いだ)き、多くの忠臣・良吏を殺害して邪(よこしま)な権威を打ち立てようとしておるではないか。

儂(わし)はお前が張陳留(ちょうちんりゅう)(張邈(ちょうばく))を兄と呼んでいたのを目の前で見ている。であるならば、儂(わし)の主君(張超(ちょうちょう))も弟となるはずだ。

一緒に努力して国家のために害毒を除き去るのが当たり前なのに、どうして軍勢を抱えながら、人(張超(ちょうちょう))が破滅するのを傍観(ぼうかん)していたのだ。

残念なのは、儂(わし)の力が弱く、刃(やいば)をつき刺して天下のために仇(あだ)を討つことができなかったことである。何が屈服だ」


袁紹(えんしょう)はもともと臧洪(ぞうこう)を愛していたので、屈服させて許してやりたいと考えていましたが、臧洪(ぞうこう)の激しい言葉を聞いて絶対に自分の役には立たないと悟(さと)り、彼を処刑しました。

陳容の死

臧洪(ぞうこう)と同郷の陳容(ちんよう)は、若い時に書生となってから、臧洪(ぞうこう)を親のように慕(した)っていました。

陳容(ちんよう)は、臧洪(ぞうこう)の共をして東郡(とうぐん)の丞(じょう)を勤(つと)めていましたが、城がまだ陥落しないうちに臧洪(ぞうこう)によって城外に出され、臧洪(ぞうこう)が引き出されてきた時も、袁紹(えんしょう)によって同席を命じられていました。

臧洪(ぞうこう)が処刑されるのを見た陳容(ちんよう)は、立ち上がって袁紹(えんしょう)に向かって言いました。


「将軍(しょうぐん)(袁紹(えんしょう))は大事業を興(おこ)され、天下のために無法者を除き去るおつもりのはず。

ところがもっぱら真っ先に処刑されるのは忠義な人物。いったいこれが天の意志に合致したことでしょうか。

臧洪(ぞうこう)が事を起こしたのは、郡将(張超(ちょうちょう))のためです。どうして彼を殺されるのですか」


これを聞いた袁紹(えんしょう)は、内心自分の行いを恥じて後悔しましたが、もう後には退けず、側近に命じて陳容(ちんよう)を表に引きずり出させ、


「お前は臧洪(ぞうこう)の仲間でもないのに、いい加減にそんな態度を取るのかっ!」


と言うと、陳容(ちんよう)は振り向いて、


「そもそも仁義の形は1つではない。これを実行すれば君子になり、これに背(そむ)けば小人(しょうじん)になるのだ。

むしろ今日、臧洪(ぞうこう)と同時に殺されたとしても、将軍(しょうぐん)(袁紹(えんしょう))と同時に生きようとは思わぬっ!」


と吐(は)き捨てたので、袁紹(えんしょう)は陳容(ちんよう)の処刑を命じました。


この場にいた者たちは揃(そろ)ってため息をついて、


「何たることか。1日のうちに2人の烈士を殺してしまうとは…」


と、こっそり言い合いました。


興平(こうへい)2年(195年)8月、曹操(そうそう)が雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、臧洪(ぞうこう)は袁紹(えんしょう)に張超(ちょうちょう)の救援に向かうことを願い出ますが、袁紹(えんしょう)はこれを許可しませんでした。

そして雍丘県(ようきゅうけん)が陥落すると、臧洪(ぞうこう)は旧主(張超(ちょうちょう))の危難を救えなかったことを恥じ、袁紹(えんしょう)との関係を断ってその身を滅ぼしました。

ですが、張邈(ちょうばく)・張超(ちょうちょう)らは勝手に呂布(りょふ)を兗州(えんしゅう)に招(まね)き入れて反乱を起こしたのですから、曹操(そうそう)が彼らを討伐し、袁紹(えんしょう)がこれを救援しなかったことを、道理に外れているとは言えないでしょう。