兗州をほぼ手中に収めた曹操が最後に残った雍丘県を包囲すると、これを救援しようとする臧洪と、それを許さない袁紹の間に亀裂が生じました。
雍丘県の陥落と、その後臧洪が袁紹との関係を断ち、袁紹に攻められて処刑されるまでをまとめています。
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張超の希望
曹操が雍丘県を包囲する
興平2年(195年)、兗州の争奪戦で曹操に敗れた呂布・陳宮・張邈らは、徐州の劉備を頼って東に逃れましたが、未だ張邈の弟・張超は、一族を引き連れて兗州・陳留郡・雍丘県に駐屯していました。
雍丘県
そしてこの年の8月、兗州をほぼ手中に収めた曹操が、ついに雍丘県を包囲します。
この時、徐州に逃れていた張邈が袁術の元に救援の要請に向かいますが、その途上で部下に殺害されてしまいました。
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張超の希望
兗州にただ1人取り残され、曹操に包囲された張超ですが、それでも、
「臧洪だけが頼みだ。きっと儂を救いに来てくれるはずだ」
と、一縷の希望を口にしました。
するとこの張超の言葉を聞いた人々は、
「袁紹と曹操は友好関係にある上に、臧洪は今、袁紹によって取り立てられているのだから、両者の友好を損ない災難を招いてまで、遠路はるばるここへやって来るはずがない」
と主張します。
ですが張超は、
「子源(臧洪の字)は天下の義士であり、あくまで最初に引き立ててくれた者を裏切らない男だ。心配があるとすれば、ただ袁紹に足止めされて間に合わなくなることだけだ」
と言って、臧洪の救援を待ち続けました。
臧洪とは、張超が広陵太守だった時に招いて功曹に任命した人物で、張超は臧洪に全幅の信頼を寄せ、臧洪もその信頼によく応えていました。
初平2年(191年)1月、臧洪は「劉虞を天子に擁立にする」ために幽州に派遣されましたが、河間国まで来たところで公孫瓚と袁紹が交戦しているところに出くわしたため、その使命を果たせませんでした。
そしてこの時、臧洪と会見して彼を気に入った袁紹は、彼と友好関係を結んで青州を任せ、曹操が雍丘県を包囲した興平2年(195年)8月には、袁紹によって東郡太守に任命されて東武陽県に住んでいました。
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臧洪が袁紹と絶縁する
雍丘県の陥落
張超が駐屯する雍丘県が曹操に包囲されていることを知った臧洪は、号泣しながら裸足で飛び出して配下の兵を勢揃いさせ、さらに袁紹に「兵馬を貸して欲しい」と頼み込んで、張超の救援に向かうことを願い出ますが、袁紹はあくまで許可しませんでした。
その結果、12月には雍丘県が陥落。
張超は自害して、張超に預けられていた張邈の三族(父母・兄弟・妻子)は曹操に処刑されました。
このことがあってから、臧洪は袁紹を怨んで関係を断ち、袁紹は軍隊を出動して東武陽県を包囲しましたが、年を経ても陥落させることはできませんでした。
兗州・東郡・東武陽県
袁紹の説得を拒む
そこで袁紹は、臧洪と同郷の陳琳に書簡を書かせ、抵抗する場合と帰順する場合の利害について教え諭し、恩義に背いたと避難します。
するとこれに対して臧洪は、次のような返書を返します。
「私はつまらない人間で、もともと使者として当地に参った縁から、大きな州(青州)を分不相応にも治めさせていただき、こうむったご恩は深く、待遇は手厚かったのです。どうして今日になって、自分の方から逆に刀を交えることを願いましょうか。
任務をお受けした当初は、大事をやり抜き、共に王室を尊崇するものと思っておりました。
ところが思いもかけず、故郷の徐州が曹操の攻撃を受け、張超が駐屯する雍丘県が包囲され、また陳留太守・張邈は暗殺の企みに倒れました。
大恩ある張超の救援計画が遅れれば『忠孝』の名を失うことになり、袁紹の下を去れば『交友』の義理に欠けることになります。この2つのことを比較して、どちらかを犠牲にするのがやむを得ない状況で、私は張超との『忠孝』を選び、涙を拭って絶交を宣言したのです。
城に登って兵を指揮するたびに、袁紹の軍旗と陣太鼓を望み見て、旧友(陳琳)の斡旋に心を動かされ、弦をさすり矢をつかみつつ、知らないうちに思わず涙が顔いっぱいに溢れ出ています。
ですが、今またあなた(陳琳)との『交友』の道を全うして説得に応じれば、重ねて『忠孝』の名を失うことになるでしょう。
さらば孔璋(陳琳の字)よ。あなた(陳琳)は故郷の外に出て利益をあげるつもりらしいが、私は天子さまと親に命を捧げます。あなたは盟主(袁紹)にその身を託しておられるが、私は長安(天子)にお仕えしているのです。
あなたは私が殺されて名前も残らないと思っておられるだろうが、私の方でもあなたが生きていようが死んでしまおうが、一向に名をあげることができないことを笑っています。悲しいことです。
根本は同じでも、梢になると離れてしまうとは。一所懸命努力されよ。もうこれ以上、何も言うことはありません」
臧洪の陳琳への返書全文
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ご無沙汰を続けておりますが、寝ても覚めても忘れたことはありません。
幸いなことに、お互い(臧洪と陳琳)の距離はほんのわずかに過ぎません。しかしながら、生き方に対する基本的な態度を異にしておりまして、相まみえることの叶わぬのが痛恨の至り、気にかけずにはいられません。
先達ては、私のことをお忘れにならず、かたじけなくも何度も玉簡(手紙)を賜って、利害についてご説明くだされ、公私両面に渡って行き届いたご配慮をお示しくださいました。
すぐにご返事を差し上げなかったのは、浅学鈍才にして詰問に充分お答えすることができない上に、あなたは側室を伴って主人(袁紹)の厄介になられ、家族を東方の州に置かれつつ、私とは仇敵の間柄になってしまわれたからでございます。
こういう事情(家族を徐州に置いていること)にありながら、他人(袁紹)に仕えられた場合には、たとえ事情を披瀝(つつみかくさず打ち明けること)し、肝胆をさらけ出したとしても、なお我が身は遠ざけられて罪を受け、気に入られるような発言をしても疑惑を招くことになるものです。
そうなれば、まったく対処に苦しむことになりますのに、どうして人のことなど構っていられるのでしょうか。
それにあなたは優れた才能をお持ちの上に、典籍を広く究めておられるのですから、一体、大道理が分からず、私の意向をご明察なさらぬはずがありましょうか。ところがなお、かくかくしかじかとおっしゃっておられます。
私はこのことから、足下(陳琳)の言葉が実際は衷心(まごころの奥底)から出たものではなく、自分に降りかかる恐れのある災難から逃れるためのものと判断いたしました。
あくまで損得を計算して是非を弁別(見分けること)しようとなさるならば、是非の議論は天下に満ち渡るほど多様であって、これに対して説明いたせばいたすほど不明確となり、何も語らなくても差し支えがないことになりましょう。
また発言すれば絶交状の建前を破る結果となり、私にとって、なすに忍びないことでございました。こういう訳で、紙筆を放り出してまったくご返事いたさなかったのです。
また、私の心をはるかにお汲み取りくださり、「私の気持ちはもう決まっていて、二度と変わらないのだ」ということをご承知くださるよう願っておりました。
にも拘わらず、重ねてお手紙を頂戴いたし、延々6枚に渡って古今の事例を引用しておられるに及んでは、何も言わずにおこうと思っても、どうしてそのままにしておかれましょうか。
私はつまらない人間でございまして、もともと使者として当地に参った因縁から、大きな州(青州)を分不相応にも治めさせていただき、こうむったご恩は深く、待遇は手厚かったのです。どうして今日になって、自分の方から逆に刀を交えることを願いましょうか。
城に登って兵を指揮するたびに、ご主人(袁紹)の軍旗と陣太鼓を望み見て、旧友(陳琳)の斡旋に心を動かされ、弦をさすり矢をつかみつつ、知らないうちに思わず涙が顔いっぱいに溢れ出ている次第です。
なぜならば、自ら顧みますに、ご主人(袁紹)をお助けして働いたことには、何の悔いもございませんし、ご主人(袁紹)の私への待遇も、同輩よりはるかに抜きん出ていたからでございます。
任務をお受けした当初は、大事をやり抜き、共に王室を尊崇するものと思っておりました。
ところが思いもかけず、天子のご不興を買って故郷の州が攻撃を受け(曹操の徐州侵攻)、郡将(張超)は「牖里の災禍(周の文王が紂王によって幽閉されたこと:曹操の雍丘県包囲)」に遭い、陳留太守(張邈)は暗殺の企みに倒れました。
(張超救援の)計画が遅れれば、忠孝の名を失うことになり、鞭をつえついて主人(袁紹)の下を離れ去れば、交友の義理に欠けることになります。
この2つのことを比較いたし、どちらかを犠牲にするのがやむを得ないとなれば、忠孝の名を失うことと交友の道に欠けることとでは軽重まったく異なり、親疎画然と異なります。それゆえ、涙を拭って絶交を宣言したのです。
もしもあの時、ご主人(袁紹)が友人に少しでも思いやりを持たれ、泊まる者には席を外して敬意を示され、去りゆく者には自分の感情を抑えて快く見送られ、離れ去った友人に対してこだわりを持たれず、刑罰をその場の感情に任せずはっきりとされて自らの補いとされましたならば、私は、春秋時代、国を譲り渡した季札のごとき謙譲の志を高く掲げて、今日の戦争をすることはなかったでありましょう。
どうしてこんなことになったのか。昔、張景明(張導)は自ら壇に登って血をすすって誓い、ご主人(袁紹)の命を受けて東奔西走し、とうとう韓馥から冀州牧の印を譲らせることに成功いたし、ご主人(袁紹)は領土を手に入れられたのでした。
その後張導は、ただ任命を受けて天子の元に参内し、爵位を賜り子孫に伝える資格を得たという理由だけで、ほんのわずかの間に、過失を大目に見るという情をこうむることなく、一族皆殺しの災難を受けたのです。
呂奉先(呂布)は董卓を討ち取って出奔して来た際、軍兵の貸与を申し入れて断られ、辞去したのに何の罪があったのでしょうか。しかるに再度に渡って主人(袁紹)からの刺客に追われ、あやうく生命を落とすところでした。
劉子璜(劉勲)は使者として派遣され、その季節が過ぎても使命を果たすことができず、ご威光を恐れ肉親を恋い慕って、嘘をついてまで帰国を願ったのですから、忠孝の心を抱き、覇道に何の差し障りもない者だと申せます。ところが、たちまち御旗の下に死骸となって横たわり、減刑のご無沙汰を受けませんでした。
私は愚か者である上に、もともとはじめに遡って結末を予測し、わずかな兆候を見て明白な結末を予知したりすることはできない人間ですが、秘かにご主人(袁紹)の気持ちを推測いたしますに、一体この3人の者(張導・呂布・劉勲)は死が当然であり、死刑に該当すると申せましょうか。
実際、山東地域(東中国)を統一し、兵を増強して仇敵を討とうと望まれましても、兵士たちが狐疑逡巡(疑って躊躇すること)して、悪を留め善を勧めることにならない心配があります。
そのため、天子のご命令を廃して独断専行権を尊重されまして、ご主人(袁紹)の原則に同調する者は栄達をこうむり、羈絆(束縛)から脱することを待ち望んでいる者は、処刑を受けることになりました。
これらのことは、ご主人(袁紹)にとっては利益ではありますが、固定した主君を持ちたくない人間にとっては、願うところではございません。それ故、私は前人(張導ら)の例を自己の戒めとし、追い詰められながら必死になって戦っているのでございます。
私は救いようのない愚か者ではございますが、それでもかつて君子の言葉を聞いたことがあります。
このような仕儀(事のなりゆき)に立ち至りましたのは私の本意ではなく、ご主人(袁紹)のせいであります。大体、私が国家に背き民衆を棄て、この城に命令権を行使しておりますのは、まさしく『君子は亡命しても、敵国に赴かない』からであります。これがために、ご主人(袁紹)からお咎めを受け、3ヶ月以上に渡る攻撃を被っておるのです。
ところが、足下(陳琳)はさらに恩義に背いたというこの道理を引き合いに出されて、私への警告としておいでですが、言葉は同じでも内容は異なっておりまして、君子が心を揺さぶられるようなものとは言えますまい。
私が聞きますには、義とは親に背かないこと、忠とは君を裏切らないことであるとか。それ故私は、東の方は郷里の州(徐州)を本家として後ろ盾と恃み、中央は広陵郡の郡将を助けて国家を安定させんとしているのです。
1つの行動で2つの利益、つまり忠と孝の両方を求めていることになります。これのどこが悪いのでしょうか。しかるに、足下(陳琳)は私に、根本を軽んじ、家を破壊させようとするおつもりのようです。
足下(陳琳)と私とは同じくご主人(袁紹)を主君と仰いだわけですが、ご主人(袁紹)と私の関係は、年齢的には兄にあたられ、身分としては親友にあたります。
したがって、ご主人(袁紹)が道理にもとれば、辞去して天子と両親を安んずることは道義にかなった行動と申せましょう。
もしもあなた(陳琳)のおっしゃる通りだとすれば、楚の申包胥は友人の伍員に生命を差し出すのが当然であり、国のために秦宮の庭先で号泣するのは不当ということになります。
いやしくも災いを振り払うことに汲々としておられ、おっしゃっていることが、道理に外れていることにお気づきではないのでしょう。
足下(陳琳)はもしかすると、城の包囲が解かれず救援軍が到達しないのを見て、姻戚間の義理に心を動かし、平素の友愛を思い、生き方を曲げてなんとか生き延びた方が、義を守って破滅することよりずっと勝っているとお考えかもしれません。
春秋時代の昔、斉の晏嬰は、斉の荘公を殺害した崔杼に白刃を突きつけられながら屈服せず、南史(史官)は崔杼の弑逆を直筆し、筆を曲げてまで生を求めませんでした。これがためにこそ、彼らは絵図にその姿を描かれ、名声を後世に伝えたのです。
まして私は、鉄壁の城に立て籠もり、兵士・市民の力を駆り立て、3年分の貯えをばらまいて、1年分の資とし、困窮した者を救済し、貧しい者に補給してやって、天下の人々から喜ばれているのです。今さらどうして兵士を田野に分散して耕作させ、長期駐留しようとなさるのですか。
包囲は覚悟の上で行動しているのです。ただおそらく、秋風が路上の塵を吹き上げる頃になると、伯珪(公孫瓚の字)が馬首を南に向けて攻め寄せ、張楊・張燕が強力を振るって暴れ出し、北方の辺境地帯から緊急の知らせが入り、股肱の臣は救助に帰国したいと懇請(熱心に頼み込むこと)するでありましょう。
ご主人(袁紹)は、まさに私どもの例を反省の材料として、軍隊を撤退せられ、鄴都の守りに兵を配置しておかれるべきであります。どうして、いつまでもくだらぬことに腹を立て続け、我が城下で兵威を振るっていていいことがありましょうか。
足下(陳琳)は私が黒山賊を後ろ盾として恃みにしていると非難なさるが、主人(袁紹)が黄巾の賊と連合した事実だけをどうして無視されるのですか。それに張燕の輩もすべて天子の任命を受けているのですぞ。
昔、漢の高祖(劉邦)は(兗州・山陽郡・)鉅野県の沼沢地帯から、盗賊を働いていた彭越を取り立て、光武帝(劉秀)は緑林の賊徒の時期においてその基礎を築き、最後はよく中興(漢の再興)の主として(天子の)位につき、帝業を成就されたのです。
かりにも天子を補佐して教化を興すことができるなら、何を盗賊だからといって嫌う必要がありましょうや。ましてや私は自身詔勅を奉じて彼らと行動を共にしているのです。何の非難すべきことがありましょう。
さらば孔璋(陳琳の字)よ。足下(陳琳)は故郷の外に出て利益をあげるつもりらしいが、臧洪は天子さまと親より命令を受けているのです。あなたは盟主(袁紹)にその身を託しておられるが、臧洪は長安(天子)にお仕えしているのです。
根本は同じでも、梢になると離れてしまうとは。一所懸命努力されよ。一体これ以上、何を言うことがありましょうや。
袁紹は臧洪の陳琳への返書を読んで降伏の意志がないことを知ると、兵を増強して激しく臧洪を攻め立てました。
東武陽県の陥落
城中では兵糧が底を突き、外からの強力な救援もなかったので、絶対に助からないと覚悟した臧洪は、官吏と兵士たちを呼び集めて言いました。
「袁氏は無道であり、その意図するところは大それたことである。その上、私と同郷の張超を救援しなかった。
私は大義の上から言って、死を免れるわけにはいかないが、諸君たちには何の因縁もないのに、この災禍を引き被ることになる。
城が落ちる前に、妻子を連れて脱出するがよかろう」
すると、これを聞いた将軍・官吏・兵士・民衆たちはみな涙を流して言います。
「殿は袁氏と本来何の怨恨も仲違いもなかったのに、今、朝廷と張超さまのことから、自ら破滅を招かれました。
どうして我々に、殿を見捨てて立ち去ることができましょうか」
彼らは、最初は鼠を掘り出したり、動物の筋や角を煮て食べていましたが、その内に食べることができるものはまったくなくなってしまいました。
その時になって主簿が、
「まだ内向きの台所に米が3斗あります。半分に分けて少しずつ粥をつくりましょう」
と言上しましたが、臧洪はため息をついて、
「儂だけがこれを食べてなんとする」
と言い、薄い粥をつくらせてみんなに分け与え、さらに自分の愛妾を殺して将兵たちに食べさせました。
将兵たちはみな涙を流して顔を上げられる者はなく、その後食糧がなくなって、男女7、8千人が枕を並べて死亡しましたが、離反した者は1人もいませんでした。
臧洪は城が陥落する前に、2人の司馬を城外に脱出させて、呂布に救援を要請させていましたが、彼らが帰ってきた頃には、城はすでに陥落していたため、2人とも敵陣に突入して討ち死にしました。
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2人の烈士の死
臧洪の死
城が陥落すると、袁紹は臧洪を生け捕りにしました。
袁紹はかねてから臧洪と親しかったので、盛大に幔幕を張りめぐらし、諸将を大勢集めて臧洪と会見し、
「臧洪よ、どうしてこれほどまでに反抗したのだ?今日こそ屈服しただろうな」
と問いかけます。
すると臧洪は、どっかと地面に腰をおろし、かっと目を見開いて言いました。
「袁一族は漢王朝に仕えて、4代に渡って5人の三公を出し、ご恩を受けたと言って良い。
それを今、王室が衰弱している時にお助けする気持ちもなく、この機会につけ込んで大それた野心を抱き、多くの忠臣・良吏を殺害して邪な権威を打ち立てようとしておるではないか。
儂はお前が張陳留(張邈)を兄と呼んでいたのを目の前で見ている。であるならば、儂の主君(張超)も弟となるはずだ。
一緒に努力して国家のために害毒を除き去るのが当たり前なのに、どうして軍勢を抱えながら、人(張超)が破滅するのを傍観していたのだ。
残念なのは、儂の力が弱く、刃をつき刺して天下のために仇を討つことができなかったことである。何が屈服だ」
袁紹はもともと臧洪を愛していたので、屈服させて許してやりたいと考えていましたが、臧洪の激しい言葉を聞いて絶対に自分の役には立たないと悟り、彼を処刑しました。
陳容の死
臧洪と同郷の陳容は、若い時に書生となってから、臧洪を親のように慕っていました。
陳容は、臧洪の共をして東郡の丞を勤めていましたが、城がまだ陥落しないうちに臧洪によって城外に出され、臧洪が引き出されてきた時も、袁紹によって同席を命じられていました。
臧洪が処刑されるのを見た陳容は、立ち上がって袁紹に向かって言いました。
「将軍(袁紹)は大事業を興され、天下のために無法者を除き去るおつもりのはず。
ところがもっぱら真っ先に処刑されるのは忠義な人物。いったいこれが天の意志に合致したことでしょうか。
臧洪が事を起こしたのは、郡将(張超)のためです。どうして彼を殺されるのですか」
これを聞いた袁紹は、内心自分の行いを恥じて後悔しましたが、もう後には退けず、側近に命じて陳容を表に引きずり出させ、
「お前は臧洪の仲間でもないのに、いい加減にそんな態度を取るのかっ!」
と言うと、陳容は振り向いて、
「そもそも仁義の形は1つではない。これを実行すれば君子になり、これに背けば小人になるのだ。
むしろ今日、臧洪と同時に殺されたとしても、将軍(袁紹)と同時に生きようとは思わぬっ!」
と吐き捨てたので、袁紹は陳容の処刑を命じました。
この場にいた者たちは揃ってため息をついて、
「何たることか。1日のうちに2人の烈士を殺してしまうとは…」
と、こっそり言い合いました。
興平2年(195年)8月、曹操が雍丘県を包囲すると、臧洪は袁紹に張超の救援に向かうことを願い出ますが、袁紹はこれを許可しませんでした。
そして雍丘県が陥落すると、臧洪は旧主(張超)の危難を救えなかったことを恥じ、袁紹との関係を断ってその身を滅ぼしました。
ですが、張邈・張超らは勝手に呂布を兗州に招き入れて反乱を起こしたのですから、曹操が彼らを討伐し、袁紹がこれを救援しなかったことを、道理に外れているとは言えないでしょう。