【三国志年表詳細】166年の主な出来事と三国志群雄勢力図
公開日 : / 更新日 :
166年【漢:延熹9年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は確認できた官職のみ記載しています。
スポンサーリンク
166年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉志(桓帝) |
皇后 |
竇皇后(竇妙) |
朝廷
官職 |
人物 |
司徒 |
許栩 → 胡広(5月〜) |
司空 |
劉茂 → 宣鄷(12月〜) |
太尉 |
陳蕃 → 周景(9月〜) |
使匈奴中郎将 |
皇甫規 → 張奐(7月〜) |
度遼将軍 |
張奐 → 皇甫規(3月〜) |
護羌校尉 |
段熲 |
地方官
官職 |
人物 |
司隷校尉 |
李膺 |
荊州刺史 |
度尚 |
スポンサーリンク
166年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 日食が起こる。
- 桓帝が公卿や郡国に優秀な人材を推挙させる。
- 沛国の戴異が文字が刻印されていない金印を発見する。
- 戴異が広陵郡の龍尚らと共に井戸を祀って予言書を偽造し、太上皇を名乗って誅殺される。
- 太常の趙典が荀爽を推挙し、荀爽は後宮の規模を縮小するように主張する。
- 不作のため、桓帝が租税を減免する。
|
3月 |
- 洛陽に不気味な火の玉が現れる。
- 司隷と豫州で飢饉が起こったため、これを救済する。
- 張奐が大司農に任命される。
- 皇甫規が度遼将軍に任命される。皇甫規は引退を願い出るが認められず。
- 陳留太守の韋毅の不正が発覚し、韋毅は自殺する。
|
4月 |
- 済陰郡、東郡、済北国、平原国の4郡に渡って黄河の水が透き通る。
- 司徒の許栩が罷免される。
|
5月 |
- 太常の胡広が司徒に任命される。
|
6月 |
- 張奐が洛陽に召し返されると、鮮卑、南匈奴、烏丸が領内に侵攻する。
|
7月 |
- 沈氐羌が武威郡、張掖郡の両郡に侵攻する。
- 桓帝が三公は2人、九卿と校尉は1人、勇猛な人物を推挙するように命じる。
- 太尉の陳蕃が罷免される。
- 桓帝が濯龍宮に老子を祀る。
- 張奐を使匈奴中郎将に任命する。
|
8月 |
- 桓帝が使匈奴中郎将の張奐に鮮卑、南匈奴、烏丸の討伐を命じる。
|
9月 |
- 光禄勲の周景が太尉に任命される。
- 南陽太守・成瑨と太原太守・劉質が誣告により公開処刑される。
- 桓帝が司空の劉茂を罷免する。
- 日南郡に大秦国王・安敦から使者が来る。
|
12月 |
- 洛陽城の近くの竹柏が枯れる。
- 光禄勲の宣鄷が司空に任命される。
- 南匈奴と烏丸が張奐に投降する。
- 河内郡出身の牢脩によって「李膺らが太学生と組んで政治を誹謗している」と告発され、標的にされた「党人」約200名の多くが捕らえられ、あるいは地下に隠れた。
- 皇甫規が、自分も「党人」だと名乗り出るが無視される。
|
スポンサーリンク
166年の三国志群雄勢力図
延熹9年(166年)の三国志群雄勢力図
166年の情勢
166年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
財政の逼迫
連年の不作や災害のため民は困窮し、盗賊が多い荊州では特に被害が大きかったようです。
桓帝は正月に起こった日食を、自分の政治に対する天の譴告(罪を知らせること)であると考えました。
そのため、桓帝は大司農に命じて調度(物品税)の徴発および昨年の未納分の徴収を打ち切り、災害や盗賊の被害を受けた郡からは田租を徴収せず、その他の郡についても規定の半分で良いとします。
一見良い施策のように思えますが、桓帝のこの姿勢は、異民族の侵入による軍費の増大も相まって、国の財政を逼迫させる原因となりました。
大秦国王・安敦
桓帝に使者を送ったとされる大秦国王・安敦とは、当時のローマ帝国皇帝・マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指します。
使者は日南郡に到着し、象牙や犀角(サイの角)、玳瑁(べっ甲亀)などを献上しました。
ですが、ローマ帝国側の記録には漢に使者を派遣したという記述はありません。そのため、正式な使者ではなく、ローマ帝国の商人ではないかと言われています。
「党人」の弾圧
朝廷で権勢を振るっていた外戚・梁冀の排斥に協力したことで、宦官たちは桓帝から絶大な信頼を得ていました。
権力を握った宦官たちはことあるごとに賄賂を要求したため「濁流派」と呼ばれ、清廉であることを重んじる「清流派(党人)」の官僚たちと対立します。
河内郡出身の牢脩の告発にはじまる党人の弾圧は、この「濁流派」と「清流派」の対立によるものでした。
また、度遼将軍の皇甫規は清廉潔癖な人物で知られ、宦官ともたびたび対立していました。
ですが、異民族との戦いに長けた皇甫規は、引退願いを退けられた上、党人の弾圧が行われた際、自ら名乗り出たにも関わらず処罰を受けませんでした。
関連記事
【002】権力を握った宦官と第一次党錮の禁
166年に起きた「党人の弾圧」によって、清流派の勢力は大きく削がれることとなりました。
以降、宦官によって権力が掌握され、汚職の蔓延による政治の腐敗が加速されていくことになります。
他の年を見る場合はこちら
三国志年表