正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑫、汝南袁氏③(袁遺・袁胤・袁叙・袁元長・袁春卿・袁買)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
汝南袁氏系図
袁紹、袁術と同世代
世代不明
※赤字がこの記事でまとめている人物。
この記事では、続柄がはっきりしない汝南袁氏の人物、
についてまとめています。
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え⑫(汝南袁氏③)
第5世代
袁遺・伯業
生年不詳〜初平3年(192年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁紹の従兄。母は何夔の従姑。
長安の県令を経て山陽太守の時に反董卓連合に参加した。
冀州・河間国出身の張超(張邈の弟とは別人)は、太尉の朱儁に袁遺を推薦した際、「世間に冠絶(最も優れていること)した美徳と時代を動かす器量を持ち、その誠実公明さはまことに天が与えたもうたものです。書籍を網羅し、百家を総合し、高所に登ってよく詩を作り、事物を識別してその名を知るといった点になりますと、現代に探し求めることは困難で匹敵する者はございません」と褒め称えた。
後に袁紹によって揚州刺史に任命されるが、袁術によって撃ち破られ、豫州(予州)・沛国に逃走するも、兵士により殺害された。
袁遺は、曹操からも「成長してからよく学問に励む者は、ただ儂と袁伯業(袁遺)だけだ」と称えられている。
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袁胤・仲績
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁術の従弟。
興平2年(195年)、袁術によって丹陽太守に任命されるが、孫策配下の徐琨に撃ち破られた。
袁術が死ぬと袁胤と袁術の女婿・黄猗らは、曹操を畏れて寿春を守り通そうとはせず、袁術の柩を担ぎ、その妻子や配下の男女を引き連れて皖城の劉勲の元に身を寄せる。
その後、黄祖の討伐に向かう孫策に皖城が落とされると、袁術の妻子らと共に捕虜となり、呉県に護送された。
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袁叙
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁紹の従弟。済陰太守。
袁紹に「今、四海の内は崩壊し、天の意志は実に我が家(袁家)の上に向けられており、神の示す徴も現れていますが、それは当然貴兄(袁紹)に対してであります。
南兄(袁術)の臣下が彼を天子(皇帝)の位につかせようとした時、南兄(袁術)の言った言葉では、年齢に従えば北兄(袁紹)が上であるし、官位に従えば北兄(袁紹)が重いとのことです。
そこで天子(皇帝)の印綬を送るつもりでおりましたが、たまたま曹操に道を断ち切られました」と、袁紹に帝位につくことを勧める書簡を送った。
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世代不明
袁元長
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。子に袁春卿。袁紹の同族。
建安5年(200年)、顔良を討伐した曹操が冀州・魏郡・鄴県を包囲した際、城内にいた魏郡太守・袁春卿を説得するために、揚州から連れて来られた。
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袁春卿
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁元長。袁紹の同族。魏郡太守。
建安5年(200年)、顔良を討伐した曹操は冀州・魏郡・鄴県を包囲すると、揚州から袁春卿の父・袁元長を連れてきて董昭に投降を呼びかけさせた。彼がこれに応じたかどうかは不明。
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袁買
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁尚と共に遼東郡に逃げ込んだ。
『呉書』では袁尚の弟、『曹瞞伝』には袁尚の兄の子とあり、どちらが正しいのかはっきりしない。
また、『魏書』袁紹伝が注に引く『九州春秋』の中で袁紹は、「儂は4人の息子にそれぞれ1州を支配させ、それによって能力を観察したいと思う」と言っており、袁紹には4人の息子がいたことが分かる。単純に名前が伝わっていないだけかもしれないが、袁買が袁尚の弟、4人目の息子なのではないだろうか。
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