正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑨、汝南じょなん袁氏えんし②(袁閎えんこう袁忠えんちゅう袁弘えんこう袁紹えんしょう袁基えんき袁術えんじゅつ袁秘えんひ袁譚えんたん袁煕えんき袁尚えんしょう袁燿えんよう袁夫人えんふじん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

汝南袁氏系図

汝南袁氏系図1

赤字がこの記事でまとめている人物。

袁紹えんしょう袁術えんじゅつと同世代

汝南袁氏系図2

世代不明

汝南袁氏系図3


この記事では、汝南じょなん袁氏えんしの第5世代、第6世代の人物、



についてまとめています。

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え⑨(汝南袁氏②)

第5世代

袁閎えんこう夏甫かほ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁賀えんが。弟に袁忠えんちゅう袁弘えんこう。祖父は袁彭えんほう

若い頃から品行を正し、刻苦こっく(非常に骨折ること)して節義を守った。

ある時袁閎えんこうは、姓名を変え、従者を連れず徒歩で彭城国ほうじょうこくに行き、彭城相ほうじょうしょう徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく太守たいしゅ)である父・袁賀えんがを見舞ったが、連日従者も連れていない袁閎えんこうのために取り次ぎをせず、たまたま出て来た乳母うばが気づいて夫人ふじんに報告し、そこで秘かに呼んで袁閎えんこうと会った。

間もなくして袁閎えんこうが辞去する際、袁賀えんがは車を派遣してこれを送らせたが、袁閎えんこうは「車酔いをするから」と断って徒歩で帰ったため、郡(彭城国ほうじょうこく)の人々は誰も知る者がなかった。

袁賀えんがが亡くなると袁閎えんこうの兄弟はひつぎを迎えに行ったが、弔慰ちょういの金品を受け取らず、縗絰さいてつ喪服もふく)をまとってひつぎを支え、冷たいつゆの中を進み、礼儀正しい容貌はせおとろえ、手足から血が流れ、見る者はみなこれを悲しんだ。

が明けると、しきりに徴召ちょうしょう*1辟召へきしょう*2を受けたが、すべて応じなかった。

また、おじの袁逢えんほう袁隗えんかいは共に官位が高く権力を有しており、たびたび袁閎えんこうに援助の品を送ったが、すべて受け取らなかったという。

また袁閎えんこうは、時代が混乱しているのに家門(袁家えんけ)が栄えていることをなげいて、兄弟に向かって「我らの先祖が残した福は、子孫が徳によってこれを守ることができず、競って驕奢きょうしゃな振る舞いをし、乱れた世で権力を争っている」と言っていた。

延熹えんき年間(158年〜167年)、「党錮とうこの禁」が起ころうとすると、袁閎えんこうは髪をうことをやめて世間とのまじわりを絶ち、深い林の中に隠棲いんせいしようとしたが、母が年老いていたため遠方に隠棲いんせいすることができず、土で作った部屋に1人引きもった。

しかし、母がぼっするに及んで、母のために喪服もふくを作らず位牌いはいもうけなかったので、当時の人々はどう評価して良いか分からず、ある者は「袁閎えんこうは狂人である」と言った。

袁閎えんこうは「黄巾こうきんの乱」の際にも経書けいしょを口ずさみ普段通りに過ごしていたが、賊徒ぞくとたちは互いに約束してりょ(村里の門)に立ち入らなかったので、郷里の人々は袁閎えんこうの元におもむき難を避けたので、みな生き延びることができた。

57歳の時土室の中で亡くなったが、臨終の際、その子に向かって「殯棺ひんかんを作ってはならない。ただ褌衫こんさん(下着)・あら布の単衣ひとえ一幅いっぷくの布で作った頭巾を着せ、しかばねを板でできたしょうの上に置き、5百の敷き瓦で墓を覆え」と言ったという。

脚注

*1臣下が推薦した人材を、天子てんしが直接招聘しょうへいして任用する制度。

*2大将軍だいしょうぐん三公九卿さんこうきゅうけい、地方長官が行うことが出来る人材登用制度。


袁忠えんちゅう正甫せいほ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁賀えんが。子に袁秘えんひ。兄は袁閎えんこう。弟に袁弘えんこう。祖父は袁彭えんほう

同郡出身の范滂はんぼうと友人で、共に「党錮とうこの禁」について証言をして釈放された。初平しょへい年間(190年〜193年)に沛国相はいこくしょう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく太守たいしゅ]となった際、あしんだ粗末な車で赴任したことから、その清廉せいれん明瞭めいりょうさを称賛される。

天下が大いに乱れると官をてて揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけんに身を寄せたが、会稽太守かいけいたいしゅ王朗おうろうと会見した時、彼の従者が服装を飾り立てているのを見た袁忠えんちゅうは、心の中でこれを嫌い、病気と称して王朗おうろうとの関係を絶ち、後に孫策そんさく会稽郡かいけいぐんを攻め落とすと海に出て交趾こうしに向かった。

その後、許県きょけん遷都せんとした献帝けんていは、袁忠えんちゅう徴召ちょうしょう*1して衛尉えいいに任命したが、着任する前に亡くなった。


以上は後漢書ごかんじょ袁安えんあんでんより。魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎには、

袁忠えんちゅう沛国相はいこくしょうの時、法によって曹操そうそうを処罰しようとしたことがあり、沛国はいこく桓邵かんしょう曹操そうそうかろんじあなどっていた。

その後、曹操そうそうの感情を害した辺譲へんじょうが一家皆殺しにされると、袁忠えんちゅう桓邵かんしょうは共に交州こうしゅうに避難したが、曹操そうそう太守たいしゅ士燮ししょうに使者をって2人の家族を皆殺しにした」

とある。

脚注

*1臣下が推薦した人材を、天子てんしが直接招聘しょうへいして任用する制度。


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袁沛えんはい


袁弘えんこう邵甫しょうほ

袁弘えんこうは、その門族が権勢を振るっていることを恥じ、そこで姓名を変え、師の門には徒歩で行き、徴召ちょうしょう*1には応じず、家で亡くなった。

脚注

*1臣下が推薦した人材を、天子てんしが直接招聘しょうへいして任用する制度。


袁紹えんしょう本初ほんしょ

袁紹(えんしょう)

生没年 ?年〜202年
出身地 豫州よしゅう汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい→独立

4代にわたって三公さんこうを輩出した名門・汝南じょなん袁氏えんしの出身で、若い頃から人望を集めた。

霊帝れいてい崩御の混乱に乗じて腐敗の元凶である宦官2,000人あまりを殺害するが、董卓とうたくが朝廷の実権を握ると冀州きしゅうに逃亡して反董卓連合の盟主となる。

その後河北かほく一体におよぶ一大勢力を築くが、官渡かんとの戦いで曹操そうそうに敗れると勢いは失われ、しばらくして病死する。


袁基えんき士紀しき*3

生年不詳〜初平しょへい元年(190年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁逢えんほう袁紹えんしょう*4袁術えんじゅつの兄。

父・袁逢えんほう汝南じょなん袁氏えんし)のあとを継いだ。

董卓とうたくの専権下で太僕たいぼくに任命されていたが、袁紹えんしょうが反董卓とうたくの兵をげたため叔父おじ袁隗えんかいの一家、母と共に誅殺ちゅうさつされた。

脚注

*3あざな出典:袁基- 维基百科,自由的百科全书 出典史料不明。

*4袁紹えんしょうの出自には、袁成えんせいの実子であるという説と、袁逢えんほうの子で袁成えんせいの養子となったという説がある。


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袁術えんじゅつ袁術えんすい)・公路こうろ

袁術(えんじゅつ)

生没年 ?年〜199年
出身地 豫州よしゅう汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい→独立

4代にわたって三公さんこうを輩出した名門・汝南じょなん袁氏えんしの出身で、袁紹えんしょう従弟いとこ

董卓とうたくが権力を握ると、南陽郡なんようぐんで挙兵して反董卓とうたく連合に参加するが、やがて袁紹えんしょうと対立する。

その後揚州ようしゅうに勢力を拡大した袁術えんじゅつは、天子を僭称せんしょうして国号を「ちゅう」とさだめるも、孫策そんさくが離反。曹操そうそうに敗北した袁術えんじゅつ袁紹えんしょうの元に身を寄せようとするが、その途中に発病して亡くなった。


第6世代

袁秘えんひ永寧えいねい

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁忠えんちゅう。祖父は袁賀えんが

汝南郡じょなんぐん門下議生もんかぎせいとなり「黄巾こうきんの乱」が起こると汝南太守じょなんたいしゅ趙謙ちょうけんに従って戦ったが、趙謙ちょうけんの軍は敗れた。この時袁秘えんひは、功曹こうそう封観ほうかんたち7人*5と身をていして敵のやいばを防ぎ、みな陣中に命を落としたが、趙謙ちょうけんを逃がすことができた。

後にみことのりが下され、袁秘えんひたちの門閭もんりょ(村里の門)に「七賢」の名称を与えて顕彰けんしょう*6した。

脚注

*5門下議生もんかぎせい袁秘えんひ功曹こうそう封観ほうかん主簿しゅぼ陳端ちんたん門下督もんかとく范仲礼はんちゅうれい賊曹ぞくそう劉偉徳りゅういとく主記史しゅきし丁子嗣ていしし記室史きしつし張仲然ちょうちゅうぜんの7人。

*6功績を世間に明らかにして表彰すること。


袁譚えんたん顕思けんし

生年不詳〜建安けんあん10年(205年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。袁紹えんしょうの長子。弟に袁煕えんき袁尚えんしょう。従兄弟に高幹こうかん

袁紹えんしょうは後妻(劉氏りゅうし)の子・袁尚えんしょうを後継ぎにしようと袁譚えんたんに兄・袁基えんきの後を継がせ、青州刺史せいしゅうししとして外に出した。こうして青州せいしゅうに入った袁譚えんたんは、公孫瓚こうそんさん青州刺史せいしゅうししに任命した田楷でんかい北海太守ほっかいたいしゅ孔融こうゆうを追い出し、改めて曹操そうそうから青州刺史せいしゅうししに任命されている。

建安けんあん7年(202年)に袁紹えんしょうが病死すると、袁紹えんしょうの家臣団はその後継者をめぐって袁譚えんたんと弟の袁尚えんしょうの2派に分裂。黎陽県れいようけんに侵攻した曹操そうそうと三つどもえの戦いとなった。

劣勢となった袁譚えんたん曹操そうそうに降伏して袁尚えんしょう幽州ゆうしゅうに逃亡させるが、袁尚えんしょうの軍兵を併合したことで曹操そうそうに盟約違反とされ、曹純そうじゅんに討ち取られた。


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袁煕えんき顕奕けんえき*7

生年不詳〜建安けんあん12年(207年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁紹えんしょう。兄に袁譚えんたん、弟に袁尚えんしょう。従兄弟に高幹こうかん

袁紹えんしょうによって幽州刺史ゆうしゅうししに任命された。建安けんあん7年(202年)に袁紹えんしょうが病死すると、袁紹えんしょうの家臣団はその後継者をめぐって、青州せいしゅうを領する兄の袁譚えんたん冀州きしゅうを領する弟・袁尚えんしょうの2派に分裂。黎陽県れいようけんに侵攻した曹操そうそうと三つどもえの戦いとなった。

その後、曹操そうそう袁譚えんたんに敗れた袁尚えんしょうを受け入れたことから曹操そうそうを敵に回すことになった袁煕えんきは、配下の焦触しょうしょく張南ちょうなんら多くの離反者をまねき、烏丸うがん烏桓うがん)族の蹋頓とうとんを頼って曹操そうそうに対抗する。

建安けんあん12年(207年)、柳城りゅうじょう曹操そうそうに敗れた袁煕えんき袁尚えんしょう遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう)に逃げ込んだが、遼東郡りょうとうぐんの役所は彼らを斬ってその首を曹操そうそうに届けた。妻の甄氏しんし曹丕そうひの側室となった。

脚注

*7袁煕えんきあざなは、魏書ぎしょ袁紹えんしょうでんでは顕奕けんえき後漢書ごかんじょ袁紹えんしょうでん顕雍けんようとされている。


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袁尚えんしょう顕甫けんほ

生年不詳〜建安けんあん12年(207年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁紹えんしょう。兄に袁譚えんたん袁煕えんき。一族に袁買えんばい。従兄弟に高幹こうかん

その美貌びぼうゆえに袁紹えんしょうは彼を愛し、袁尚えんしょうを後継者にしたいと思っていたが、まだ公表しないうちに亡くなった。建安けんあん7年(202年)に袁紹えんしょうが病死すると、袁紹えんしょうの家臣団はその後継者をめぐって青州せいしゅうを領する兄の袁譚えんたん冀州きしゅうを領する弟・袁尚えんしょうの2派に分裂。黎陽県れいようけんに侵攻した曹操そうそうと三つどもえの戦いとなった。

その後、曹操そうそう袁譚えんたんに敗れた袁尚えんしょう幽州ゆうしゅう袁煕えんきを頼るが、建安けんあん12年(207年)、柳城りゅうじょう曹操そうそうに敗れ、遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう)に逃げ込んだが、遼東郡りょうとうぐんの役所は彼らを斬ってその首を曹操そうそうに届けた。


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袁燿えんよう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん汝陽県じょようけんの人。父は袁術えんじゅつ。娘は孫権そんけんの子・孫奮そんふんの妻となった。

袁術えんじゅつの死後、叔父おじ袁胤えんいんと共に廬江太守ろこうたいしゅ劉勲りゅうくんの元に身を寄せるが、孫策そんさく劉勲りゅうくんを撃ち破ると、孫策そんさくの世話を受けて郎中ろうちゅうとなった。


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袁夫人えんふじん

生没年不詳。袁術えんじゅつの娘。

袁術えんじゅつが死ぬと、袁胤えんいんらと皖城かんじょう劉勲りゅうくんの元に身を寄せるが、孫策そんさく皖城かんじょうが落とされると袁胤えんいん袁術えんじゅつの妻子らと共に捕虜となり呉県ごけんに護送された。

その後、孫権そんけん夫人ふじんとなったが子供は生まれなかった。彼女の行いは正しく、孫権そんけん妻妾さいしょうたちに生まれた子供を預けて養育させたが、いつも育たなかった。

歩夫人ほふじんが亡くなると、孫権そんけんは彼女を皇后こうごうに立てようとしたが、袁夫人えんふじんは「子供がないから」という理由でみずか固持こじして皇后こうごうの位を受けなかった。

のちに彼女の美貌びぼう嫉妬しっとした潘夫人はんふじん讒言ざんげんを受け殺された。



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【三国志人物伝】総索引