正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑪、汝南袁氏②(袁閎・袁忠・袁弘・袁紹・袁基・袁術・袁秘・袁譚・袁煕・袁尚・袁燿・袁夫人)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
汝南袁氏系図
※赤字がこの記事でまとめている人物。
袁紹、袁術と同世代
世代不明
この記事では、汝南袁氏の第5世代、第6世代の人物、
についてまとめています。
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え⑪(汝南袁氏②)
第5世代
袁閎・夏甫
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁賀。弟に袁忠、袁弘。祖父は袁彭。
若い頃から品行を正し、刻苦(非常に骨折ること)して節義を守った。
ある時袁閎は、姓名を変え、従者を連れず徒歩で彭城国に行き、彭城相(徐州・彭城国の太守)である父・袁賀を見舞ったが、連日従者も連れていない袁閎のために取り次ぎをせず、たまたま出て来た乳母が気づいて夫人に報告し、そこで秘かに呼んで袁閎と会った。
間もなくして袁閎が辞去する際、袁賀は車を派遣してこれを送らせたが、袁閎は「車酔いをするから」と断って徒歩で帰ったため、郡(彭城国)の人々は誰も知る者がなかった。
袁賀が亡くなると袁閎の兄弟は柩を迎えに行ったが、弔慰の金品を受け取らず、縗絰(喪服)をまとって柩を支え、冷たい露の中を進み、礼儀正しい容貌は痩せおとろえ、手足から血が流れ、見る者はみなこれを悲しんだ。
喪が明けると、しきりに徴召*1や辟召*2を受けたが、すべて応じなかった。
また、おじの袁逢と袁隗は共に官位が高く権力を有しており、たびたび袁閎に援助の品を送ったが、すべて受け取らなかったという。
また袁閎は、時代が混乱しているのに家門(袁家)が栄えていることを嘆いて、兄弟に向かって「我らの先祖が残した福は、子孫が徳によってこれを守ることができず、競って驕奢な振る舞いをし、乱れた世で権力を争っている」と言っていた。
延熹年間(158年〜167年)、「党錮の禁」が起ころうとすると、袁閎は髪を結うことをやめて世間との交わりを絶ち、深い林の中に隠棲しようとしたが、母が年老いていたため遠方に隠棲することができず、土で作った部屋に1人引き籠もった。
しかし、母が没するに及んで、母のために喪服を作らず位牌を設けなかったので、当時の人々はどう評価して良いか分からず、ある者は「袁閎は狂人である」と言った。
袁閎は「黄巾の乱」の際にも経書を口ずさみ普段通りに過ごしていたが、賊徒たちは互いに約束して閭(村里の門)に立ち入らなかったので、郷里の人々は袁閎の元に赴き難を避けたので、みな生き延びることができた。
57歳の時土室の中で亡くなったが、臨終の際、その子に向かって「殯棺を作ってはならない。ただ褌衫(下着)・あら布の単衣・一幅の布で作った頭巾を着せ、尸を板でできた牀の上に置き、5百の敷き瓦で墓を覆え」と言ったという。
脚注
*1臣下が推薦した人材を、天子が直接招聘して任用する制度。
*2大将軍や三公九卿、地方長官が行うことが出来る人材登用制度。
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袁忠・正甫
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁賀。子に袁秘。兄は袁閎。弟に袁弘。祖父は袁彭。
同郡出身の范滂と友人で、共に「党錮の禁」について証言をして釈放された。初平年間(190年〜193年)に沛国相[豫州(予州)・沛国の太守]となった際、葦で編んだ粗末な車で赴任したことから、その清廉明瞭さを称賛される。
天下が大いに乱れると官を棄てて揚州・会稽郡・上虞県に身を寄せたが、会稽太守・王朗と会見した時、彼の従者が服装を飾り立てているのを見た袁忠は、心の中でこれを嫌い、病気と称して王朗との関係を絶ち、後に孫策が会稽郡を攻め落とすと海に出て交趾に向かった。
その後、許県に遷都した献帝は、袁忠を徴召*1して衛尉に任命したが、着任する前に亡くなった。
以上は『後漢書』袁安伝より。『魏書』武帝紀には、
「袁忠が沛国相の時、法によって曹操を処罰しようとしたことがあり、沛国の桓邵も曹操を軽んじ侮っていた。
その後、曹操の感情を害した辺譲が一家皆殺しにされると、袁忠と桓邵は共に交州に避難したが、曹操は太守の士燮に使者を遣って2人の家族を皆殺しにした」
とある。
脚注
*1臣下が推薦した人材を、天子が直接招聘して任用する制度。
関連人物
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袁弘・邵甫
袁弘は、その門族が権勢を振るっていることを恥じ、そこで姓名を変え、師の門には徒歩で行き、徴召*1には応じず、家で亡くなった。
脚注
*1臣下が推薦した人材を、天子が直接招聘して任用する制度。
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袁紹・本初
生没年 | ?年〜202年 |
---|---|
出身地 | 豫州・汝南郡・汝陽県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→独立 |
4代にわたって三公を輩出した名門・汝南袁氏の出身で、若い頃から人望を集めた。
霊帝崩御の混乱に乗じて腐敗の元凶である宦官2,000人あまりを殺害するが、董卓が朝廷の実権を握ると冀州に逃亡して反董卓連合の盟主となる。
その後河北一体におよぶ一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗れると勢いは失われ、しばらくして病死する。
袁基・士紀*3
生年不詳〜初平元年(190年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁逢。袁紹*4、袁術の兄。
父・袁逢(汝南袁氏)の跡を継いだ。
董卓の専権下で太僕に任命されていたが、袁紹が反董卓の兵を挙げたため叔父・袁隗の一家、母と共に誅殺された。
脚注
*3字出典:袁基- 维基百科,自由的百科全书 出典史料不明。
*4袁紹の出自には、袁成の実子であるという説と、袁逢の子で袁成の養子となったという説がある。
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袁術(袁術)・公路
生没年 | ?年〜199年 |
---|---|
出身地 | 豫州・汝南郡・汝陽県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝→独立 |
4代にわたって三公を輩出した名門・汝南袁氏の出身で、袁紹の従弟。
董卓が権力を握ると、南陽郡で挙兵して反董卓連合に参加するが、やがて袁紹と対立する。
その後揚州に勢力を拡大した袁術は、天子を僭称して国号を「仲」と定めるも、孫策が離反。曹操に敗北した袁術は袁紹の元に身を寄せようとするが、その途中に発病して亡くなった。
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第6世代
袁秘・永寧
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁忠。祖父は袁賀。
汝南郡の門下議生となり「黄巾の乱」が起こると汝南太守・趙謙に従って戦ったが、趙謙の軍は敗れた。この時袁秘は、功曹の封観たち7人*5と身を挺して敵の刃を防ぎ、みな陣中に命を落としたが、趙謙を逃がすことができた。
後に詔が下され、袁秘たちの門閭(村里の門)に「七賢」の名称を与えて顕彰*6した。
脚注
*5門下議生の袁秘、功曹の封観、主簿の陳端、門下督の范仲礼、賊曹の劉偉徳、主記史の丁子嗣、記室史の張仲然の7人。
*6功績を世間に明らかにして表彰すること。
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袁譚・顕思
生年不詳〜建安10年(205年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁紹の長子。弟に袁煕、袁尚。従兄弟に高幹。
袁紹は後妻(劉氏)の子・袁尚を後継ぎにしようと袁譚に兄・袁基の後を継がせ、青州刺史として外に出した。こうして青州に入った袁譚は、公孫瓚が青州刺史に任命した田楷や北海太守・孔融を追い出し、改めて曹操から青州刺史に任命されている。
建安7年(202年)に袁紹が病死すると、袁紹の家臣団はその後継者を巡って袁譚と弟の袁尚の2派に分裂。黎陽県に侵攻した曹操と三つ巴の戦いとなった。
劣勢となった袁譚は曹操に降伏して袁尚を幽州に逃亡させるが、袁尚の軍兵を併合したことで曹操に盟約違反とされ、曹純に討ち取られた。
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袁煕・顕奕*7
生年不詳〜建安12年(207年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁紹。兄に袁譚、弟に袁尚。従兄弟に高幹。
袁紹によって幽州刺史に任命された。建安7年(202年)に袁紹が病死すると、袁紹の家臣団はその後継者を巡って、青州を領する兄の袁譚と冀州を領する弟・袁尚の2派に分裂。黎陽県に侵攻した曹操と三つ巴の戦いとなった。
その後、曹操・袁譚に敗れた袁尚を受け入れたことから曹操を敵に回すことになった袁煕は、配下の焦触・張南ら多くの離反者を招き、烏丸(烏桓)族の蹋頓を頼って曹操に対抗する。
建安12年(207年)、柳城で曹操に敗れた袁煕・袁尚は遼東郡(公孫康)に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らを斬ってその首を曹操に届けた。妻の甄氏は曹丕の側室となった。
脚注
*7袁煕の字は、『魏書』袁紹伝では顕奕、『後漢書』袁紹伝では顕雍とされている。
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袁尚・顕甫
生年不詳〜建安12年(207年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁紹。兄に袁譚、袁煕。一族に袁買。従兄弟に高幹。
その美貌ゆえに袁紹は彼を愛し、袁尚を後継者にしたいと思っていたが、まだ公表しないうちに亡くなった。建安7年(202年)に袁紹が病死すると、袁紹の家臣団はその後継者を巡って青州を領する兄の袁譚と冀州を領する弟・袁尚の2派に分裂。黎陽県に侵攻した曹操と三つ巴の戦いとなった。
その後、曹操・袁譚に敗れた袁尚は幽州の袁煕を頼り、建安12年(207年)に柳城で曹操に敗れて遼東郡(公孫康)に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らを斬ってその首を曹操に届けた。
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袁燿
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁術。娘は孫権の子・孫奮の妻となった。
袁術の死後、叔父の袁胤と共に廬江太守・劉勲の元に身を寄せるが、孫策が劉勲を撃ち破ると、孫策の世話を受けて郎中となった。
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袁夫人
生没年不詳。袁術の娘。
袁術が死ぬと、袁胤らと皖城の劉勲の元に身を寄せるが、孫策に皖城が落とされると袁胤や袁術の妻子らと共に捕虜となり呉県に護送された。
その後、孫権の夫人となったが子供は生まれなかった。彼女の行いは正しく、孫権は妻妾たちに生まれた子供を預けて養育させたが、いつも育たなかった。
歩夫人が亡くなると、孫権は彼女を皇后に立てようとしたが、袁夫人は「子供がないから」という理由で自ら固持して皇后の位を受けなかった。
後に彼女の美貌に嫉妬した潘夫人の讒言を受け殺された。
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