誤解から恩人である呂伯奢の一家を惨殺した曹操の「呂伯奢一家惨殺事件」には、3通りの記録があるのをご存知でしょうか。
3通りの記録ができた経緯と、「呂伯奢一家惨殺事件」の真相について考えてみました。
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目次
呂伯奢一家惨殺事件
呂伯奢一家惨殺事件とは
「呂伯奢一家惨殺事件」とは、189年、董卓に支配された洛陽から逃亡した曹操が、郷里に向かう途中に立ち寄った呂伯奢の屋敷で一家を惨殺した事件のことです。
まず、曹操の事跡を記した『魏書』武帝紀と『三国志演義』の、曹操が洛陽から逃亡する箇所を確認してみましょう。
陳寿『魏書』武帝紀
献帝を擁立した董卓は、曹操を驍騎校尉に任命し、今後のことを相談しようと思いました。
ですが、曹操は董卓に従うことを良しとせず、姓名を変えて洛陽を脱出し、虎牢関を抜けて東へ向かいます。
途中、中牟県で亭長に怪しまれた曹操は連行されますが、中に曹操を知るものがいて、県令に進言したために釈放されました。
その後、陳留郡に到着した曹操は家財を処分して兵を集め、己吾県で挙兵しました。
曹操の逃走経路(正史)
『三国志演義』
董卓暗殺に失敗した曹操は洛陽を脱出し、董卓の追っ手を避けながら郷里の豫州・沛国・譙県に向かって逃亡しましたが、途中、司隷・河南尹・中牟県で捕らえられてしまいました。
中牟県の県令・陳宮は曹操を牢に入れると、「なぜ董卓を暗殺しようとしたのか?」と問い質します。そして、曹操の話を聞きその志に感服した陳宮は、官職を捨てて曹操に同行し共に董卓を討つことを決意しました。
2人が河南尹・成皋県まで来たとき、曹操は父の義兄弟である呂伯奢に一晩の宿を求めることにしました。すると、呂伯奢はたいそう心配した様子で、曹操の父・曹嵩が兗州・陳留郡に避難したことを伝えると、2人をもてなすためにお酒を買いに行きました。
2人が通された部屋で待っていると、なにやら刃物を研ぐ音が聞こえてきます。不審に思って耳を澄ませてみると「縛って殺したらどうだ?」という話し声が聞こえました。
曹操は「呂伯奢は我々を捕らえるつもりだ。グズグズしてはいられないっ!」と言うと、陳宮と共に剣を抜き、家人たちに襲いかかります。男女を問わず一気に8人を斬り殺し、ふと台所に目をやると、そこには豚が1頭縛り上げられていました。
つまり、家人たちが「豚を殺す相談」をしていたのを、「自分たちを殺す相談」だと勘違いしてしまったのです。2人は急いで屋敷を出ると、馬を飛ばして先を急ぎました。
しばらく行くと、酒や果物、野菜などをロバに乗せた呂伯奢が、前方からやって来るのが見えました。
呂伯奢は「どうして行ってしまわれる?家の者に豚をさばいてもてなすように命じておいた。一晩泊まっていかれよ」と曹操を引き留めますが、曹操は「私は罪人ですので、ゆっくりしてはいられません」と断りました。
そして別れ際、曹操は呂伯奢を呼び止めると、振り向き様に呂伯奢を斬り殺してしまいます。
「家人が殺されているのに気づけば、呂伯奢はきっと我々に追っ手を差し向けるだろう。これで災いはなくなった」
陳宮は驚いて「家人たちは仕方なかったとしても、恩人の呂伯奢を殺したのは人の道に外れたことではないか!」と曹操を問い詰めると、曹操は言いました。
「我人に背くとも、人我に背かせじ」
(私が人を裏切ることがあろうとも、他人に私を裏切らせはしない)
これを聞いた陳宮は、曹操は仕えるべき英雄ではないと見限り、曹操の元を去りました。
その後、陳留郡に到着した曹操は、父・曹嵩と富豪である衛弘(正史では衛茲)の助力を得て義兵を挙げました。
曹操の逃走経路(演義)
『三国志演義』では、中牟県で陳宮と行動を共にしてから洛陽に近い成皋県まで戻るという、少し不自然な動きをしています。
ですがこのことによって、後に陳宮が曹操に敵対することになる動機がドラマチックに演出され、「呂伯奢一家惨殺事件」は『三国志演義』の名場面の1つとなっています。
『魏書』武帝紀の、曹操が洛陽から逃亡する箇所を確認してみると、曹操が呂伯奢とその一家を惨殺するエピソードはありません。
では、「呂伯奢一家惨殺事件」は『三国志演義』の創作なのでしょうか?
実は、裴松之が注に引く王沈の『魏書』、郭頒の『世語』、孫盛の『雑記』には、曹操が呂伯奢とその家人を惨殺したことが記されています。ですが、それぞれその内容が異なっているのです。
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3通りの「呂伯奢一家惨殺事件」
史料ごとのスタンス
同じ出来事なのに、史料によって内容が異なっているのはなぜでしょうか?まず、それぞれの史料の概要をご紹介します。
王沈の『魏書』
王沈の『魏書』は、魏の高貴郷公(曹髦)の正元年間に魏に仕えた王沈が、荀顗・阮籍と共に編纂した魏王朝公認の歴史書で、時の権力者である司馬氏の意向に沿う傾向が強く、魏の太祖・曹操に対しても正当化する内容になっています。全48巻。
郭頒の『世語』
西晋の郭頒が編纂した逸話集。裴松之による評価は低いのですが、世間でよく読まれており、孫盛・干宝らも自著に多く採用しています。正確な書名は『魏晋世語』。全10巻。
孫盛の『雑記』
東晋の孫盛が編纂した、三国時代の史実について異説を記した書物。裴松之は『雑記』を高く評価する一方で、話が面白くなるように誇張する傾向があることを批判しています。また、『異同雑語』、『異同記』も同じ書物で、『異同評』は『雑記』の批評の部分だと考えられています。
つまり、魏を正統に受け継いだとする晋の歴史書である王沈の『魏書』や陳寿の『魏書』の内容は、魏の太祖・曹操の行いを正当化する傾向にあるということを頭に入れておく必要があります。
また、逆に曹操に敵対していた人物の場合、その人物を貶める内容になることもあります。
それぞれの「呂伯奢一家惨殺事件」
では、王沈『魏書』、郭頒『世語』、孫盛『雑記』に記された「呂伯奢一家惨殺事件」の内容を確認してみましょう。
王沈『魏書』
曹操は、董卓の計画は必ず失敗に終わると判断したので、董卓の任命に応じず、数騎の供を連れ郷里に逃亡しました。
途中、旧知の間柄にある成皋県の呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は留守で、その子らは食客と共に曹操を脅し、馬と荷物を奪おうとします。そこで曹操は、自ら刀を取って数人を打ち殺しました。
郭頒『世語』
曹操が呂伯奢の家に立ち寄りました。呂伯奢は外出していましたが、呂伯奢の5人の子は、曹操を礼儀を持ってもてなしました。
ですが、曹操は自分が董卓の命令に背いていたため、彼らが自分を始末するつもりではないかと疑いを抱き、夜の間に8人を殺害して立ち去りました。
孫盛『雑記』
曹操は、(呂伯奢の子らが)用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思い込み、夜の間に彼らを殺害しました。
その後、誤解に気づいた曹操は「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせはしない」と言い、その場を立ち去りました。
3つの史料を読み比べてみると、王沈の『魏書』では曹操の正当防衛となっており、郭頒の『世語』、孫盛の『雑記』では、曹操の誤解によって無実の呂伯奢一家が惨殺されるという、正反対の出来事になっていることが分かります。
では、「呂伯奢一家惨殺事件」の真相は、どうだったのでしょうか?
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呂伯奢一家惨殺事件の真相は?
呂伯奢一家惨殺事件の共通点
まず3つの史料で共通しているのは、曹操が呂伯奢を訪ねた時には呂伯奢本人が留守だったこと、そして、曹操が呂伯奢の子らを殺害したことの2点です。つまりこの2点は、事実であると考えて良いでしょう。
王沈『魏書』のウソ
呂伯奢の留守中、父と旧知の間柄だと言うお尋ね者の曹操が訪ねてきたとしたら、とりあえず父が帰宅するまで匿っておき、父の判断を仰ぐのが普通です。捕らえて官憲に引き渡すならまだしも、曹操を脅して馬と荷物を奪おうとするのはどう考えても不自然です。
また、不意をついて一気に殺害するならいざ知らず、曹操が襲って来る呂伯奢の食客と斬り結んだとしたら、騒ぎが大きくなってしまいます。
おそらく『魏書』を編纂していた当時、曹操が呂伯奢一家を惨殺したことは広く知られており、王沈としてはこの一件を記述しないわけにはいかないと思ったのでしょう。そして、これを記述するためには、曹操が呂伯奢一家を殺害する正当な理由が必要だったのです。
もし「曹操が自分を官憲に引き渡そうとした呂伯奢の子らを斬った」ことにしても、あまり印象はよくありません。そこで王沈は、呂伯奢の子らを野盗のごとき悪者に仕立て上げ、彼らを殺したのは曹操の正当防衛だったという不自然なエピソードをつくり上げたのではないでしょうか。
陳寿の『魏書』は、王沈の『魏書』より後に編纂されています。
『魏書』を編纂するにあたって王沈の『魏書』を読んだ陳寿は、この不自然なエピソードを採用せず、曹操が成皋県の呂伯奢の屋敷を訪れたこと自体を記述しなかったのだと思われます。
呂伯奢一家惨殺事件の真相
「呂伯奢一家惨殺事件」のエピソードの中で、一番真相に近いと思われるのは、郭頒の『世語』ではないでしょうか。
逃亡中の身である曹操が自ら立ち寄るくらいですから、曹操と呂伯奢の間には、どんなことがあってもお互いを助け合う強固な信頼関係があったことが想像できます。
ですが、当の呂伯奢が不在となれば話は変わってきます。
突然お尋ね者である曹操の訪問を受けた呂伯奢の子らは、反射的に困惑した表情を浮かべたかもしれません。そして、逃亡中で警戒心が強くなっていた曹操が、その態度に疑いの念を抱いたとしても不思議ではありません。
その場合、曹操が取り得る行動で考えられるのは、次の3つです。
- そのまま呂伯奢の子らのもてなしを受ける
- こっそり呂伯奢の屋敷から逃亡する
- 呂伯奢の屋敷の住人を全員殺害して逃亡する
そのまま呂伯奢の子らのもてなしを受けても、こっそり呂伯奢の屋敷から逃亡したとしても、呂伯奢の子らに官憲を呼ばれた場合、曹操は窮地に陥ります。
つまり、疑念を抱いてしまった曹操にとって、自分がここに立ち寄ったことを知る呂伯奢一家を全員惨殺する以外、安全な選択肢は残されていなかったのです。
孫盛の『雑記』は郭頒の『世語』とほぼ同じ内容ですが、話を面白くするために、曹操が疑念を抱くことになった理由を見てきたように具体的に表現し、曹操に「我人に背くとも、人我に背かせじ」という名言を吐かせたと言えるでしょう。
『三国志演義』は、陳寿の『魏書』武帝紀と、孫盛の『雑記』の記述を絶妙に組み合わせ、曹操の非情さを強烈に印象づける名場面に仕上げていることが分かります。