正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑩、汝南袁氏①[始祖・袁安から第4世代(袁紹、袁術の親の世代)まで(袁良・袁安・袁賞・袁京・袁敞・袁彭・袁湯・袁盱・袁賀・袁平・袁成・袁逢・袁隗)]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
汝南袁氏系図
※赤字がこの記事でまとめている人物。
袁紹、袁術と同世代
世代不明
この記事では、汝南袁氏の始祖・袁安から第4世代(袁紹、袁術の親の世代)までの人物、
についてまとめています。
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え⑩(汝南袁氏①)
第0世代
袁良
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁安の祖父。子に袁昌*1。
『孟氏易』*2を学び、前漢の平帝の時代に明経に推挙されて太子舎人となり、後漢・光武帝の建武年間(25年〜57年)に兗州・済陰郡・成武県の県令となった。
脚注
*1『新唐書』宰相世系表、『元和姓纂』による。
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第1世代(袁安)
袁安・邵公
生年不詳〜永元4年(92年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。袁紹の高祖(祖父の祖父)。汝南袁氏の始祖。父は袁昌*1。子に袁賞、袁京、袁敞。祖父は袁良。
袁良の学問である『孟氏易』*2を受け継ぎ、その性格は慎重で威厳があり、州里の人々に尊敬された。
明帝の永平14年(71年)、楚郡太守に任命された袁安は、楚王・劉英の反逆計画に連座した者・数千人を審理して400余家を救済した。その後、河南尹となり在職すること10年、京師[洛陽(雒陽)]は治安が行き届き、朝廷で高く評価された。
章帝の章和元年(87年)に司徒に昇進。翌年、幼い第4代皇帝・和帝が即位すると、竇太后の臨朝下にあって外戚・竇憲と正面から対立し、大臣たちはみな袁安を頼ったが、永元4年(92年)春に亡くなった。
袁安以下、汝南袁氏はみな広い愛情をもって人々を受け入れ、選り好みすることがなかった。その門に入って賓客となった以上、賢愚の別なくみな望みを叶えてもらったので、天下の人々の慕うところとなった。
脚注
*1『新唐書』宰相世系表、『元和姓纂』による。
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第2世代(袁賞・袁京・袁敞)
袁賞
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁安。
永元4年(92年)、外戚・竇憲を自害に追い込み自ら政務を執るようになった和帝は、改めてかつての論者の善悪のけじめについて考え、袁安の子である袁賞を郎に任命した。
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袁京・仲誉
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁安。子に袁彭、袁湯。兄に袁賞。弟に袁敞。
家学の『孟氏易』*2を学び、30万字に及ぶ『難記』を作った。はじめ郎中を拝命し、しばらくして侍中に遷り、地方に出て蜀郡太守となった。
脚注
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袁敞・叔平
生年不詳〜元初4年(117年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁安。兄に袁賞、袁京。
若くして家学の『孟氏易』を継承して人々に教え、父・袁安の官位によって太子舎人となった。
和帝の時、将軍・大夫・侍中を歴任し、地方に出て東郡太守となり、徴召されて太僕・光禄勲を拝命する。
元初3年(116年)、劉愷に代わって司空となったが、翌年、子が尚書郎の張俊と交わり尚書省中の言葉を漏洩した罪で罷免された。
袁敞は清廉で剛直な性格で、権力者におもねらなかったため外戚として権力を誇示していた鄧氏の以降に背き、ついに自害した。
脚注
*2孟氏易(もうしえき)。『後漢書』袁安伝には『易経』とある。
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第3世代(袁彭・袁湯・袁盱)
袁彭・伯楚
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁京。弟に袁湯。子に袁賀。孫に袁閎、袁忠、袁弘。
父(袁京)の学問である『孟氏易』*2を継承し、(益州の)広漢太守、(荊州の)南陽太守を歴任し、順帝[在位:延光4年(125年)〜建康元年(144年)]のはじめに光禄勲となった。
品行は極めて清廉で、吏(役人)となっても粗末な綿入(保温のために綿をいれた着物)をまとい、玄米を食べ、議郎の官で亡くなった。
尚書の胡広たちは袁彭の清廉潔白さを顕彰し、前漢の貢禹や後漢の第五倫に比したが、追贈されるされることはなかったので、当時の人々はみなこれを嘆いたという。
脚注
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袁湯・仲河
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁京。兄に袁彭。子に袁平、袁成、袁逢、袁隗。袁湯には12人の子がいた。
若くして家学である『孟氏易』*2を継承。儒者たちはその節義を称賛し、多くの顕官(地位の高い官職)を歴任する。
桓帝のはじめに司空となり、桓帝の即位を定める議論に参加した功績により安国亭侯に封ぜられ、食邑500戸を与えられた。
その後司徒を経て太尉となったが、災異のために免官され、86歳で亡くなった。死後、康侯と諡される。
脚注
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袁盱
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁敞。
袁盱が光禄勲となった当時、大将軍の梁冀は朝政を欲しいままにし、内外の官で梁冀におもねらない者はいなかったが、ただ袁盱と廷尉の邯鄲義だけは身を修め志操(堅く守っている主義)を守った。
桓帝は梁冀を誅殺する際、袁盱に節を持たせて梁冀の印綬を没収させた。
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第4世代(袁賀・袁平・袁成・袁逢・袁隗)
袁賀・元服
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁彭。子に袁閎、袁忠、袁弘。祖父は袁京。
安帝の元服を祝うため祖父の袁京が正装をして家を出ようとした時に、孫の袁賀が生まれた。そのめでたい巡り合わせを喜んで、賀という名と元服という字をつけた。
彭城相(徐州・彭城国の太守)となった。
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袁成・文開
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁湯。子に袁紹*2。兄に袁平。弟に袁逢、袁隗。左中郎将となったが若くして亡くなった。
思いきりが良くさっぱりとした気性で羽目を外すことがなく、外戚や権力者たちは大将軍・梁冀以下みな彼と交わりを結んでいたため袁成の言ったことはすべて通った。
そのため都では「かなわぬ事があれば文開(袁成の字)を訪ねよ」という諺ができたという。
袁湯の第3子・袁逢が跡を継いだ。
脚注
*2『英雄記』には「袁紹の父」とあり、『魏書』には「袁紹は袁逢の庶子で、袁術の異母兄であったが、家を出て袁成の後を継いだ」とある。どちらが正しいかは分からない。
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袁逢・周陽
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁湯。兄に袁平、袁成。弟に袁隗。子に袁基、袁紹*3、袁術。2人の兄・袁平と袁成が若死にしたため袁逢が跡を継ぐ。
代々三公の子であり、寛大で篤実(情が厚く誠実なこと)だったので当時から有名だった。
霊帝が即位すると、袁逢は太僕の地位で霊帝の即位を定める議論に参加した功績により食邑300戸を加増され、後に司空となり、執金吾の官でなくなった。
朝廷は袁逢がかつて国三老であったため特別にこれを礼遇し、特別な詔によって作られた、
- 朱沙で模様が描かれた棺
- 死者の口に含ませる珠玉26品
を下賜し、五官中郎将に節を持たせて策文を奉じさせ、車騎将軍の印綬を贈って特進の号を加え、宣文侯と諡した。
脚注
*3『魏書』には「袁紹は袁逢の庶子で、袁術の異母兄であったが、家を出て袁成の後を継いだ」とあり、『英雄記』には「袁紹は袁成の子」とあり、どちらが正しいかは分からない。
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袁隗・次陽
生年不詳〜初平元年(190年)没。豫州(予州)・汝南郡・汝陽県の人。父は袁湯。兄に袁平、袁成、袁逢。袁紹、袁術の叔父にあたる。
若くして顕官(地位の高い官職)を歴任し、兄の袁逢に先んじて三公となった。
名門袁氏の出自に加え、親族の中常侍・袁赦を使って内宮に通じ、自らは何太后に与して少帝の太傅を務めつつ、甥の袁紹を大将軍・何進につけて宦官の誅殺を謀らせるなど、老獪な政治手腕を持つ。
董卓の専権下でも続けて献帝の太傅に任命されていたが、袁紹が反董卓の兵を挙げたため誅殺された。
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