興平2年(195年)7月、献帝が長安を出て東に向かい、司隷・河東郡・安邑県を都に定めたことを受け、袁紹は使者として郭図を派遣します。
そして帰還した郭図は、袁紹に「献帝を鄴県に迎える」ことを勧めましたが、袁紹は承知しませんでした。
では、なぜ袁紹は「献帝を鄴県に迎える」ことを承知しなかったのでしょうか。
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目次
献帝の東遷(とうせん)
献帝の東遷(とうせん)
興平2年(195年)6月、李傕と郭汜の争いが激化すると、献帝は長安を出て東の洛陽(雒陽)[当初の目的地は司隷・弘農郡・弘農県]に向かいます。
この時、献帝に同行していた郭汜は、献帝の行幸先(行き先)をめぐって楊定・董承・楊奉らと対立し、再び李傕と手を結んで献帝を長安に連れ戻すため追撃を開始しました。
安邑県を都に定める
司隷・弘農郡・弘農県までたどり着いた献帝一行ですが、弘農県の東澗と曹陽澗、陝県で3度に渡って李傕らの攻撃を受け、陝県を包囲された献帝一行は、黄河を渡って司隷・河東郡・大陽県にたどり着きます。
ですが、黄河を渡りきることができた者は数十人のみで、渡ることができなかった宮女や吏民たちはみな李傕の兵に略奪され、衣服もなくなり、髪を切られて多くの者が凍死しました。
その後司隷・河東郡・安邑県に移った献帝は安邑県を都と定め、李傕・郭汜と和睦します。
司隷・河東郡・安邑県
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献帝の東遷に対する袁紹の反応
『魏書』袁紹伝
袁紹は、董卓によって擁立された献帝のことを認めていませんでした。
ですが、献帝が司隷・河東郡・安邑県に都を定めると、袁紹は豫州(予州)・潁川郡出身の郭図を使者として派遣します。
帰還した郭図は「天子(献帝)を迎えて(袁紹の本拠地である)冀州・魏郡・鄴県に都を置く」ように進言しましたが、袁紹は承知しませんでした。
安邑県と鄴県
『献帝伝』
沮授が袁紹に言いました。
「将軍(袁紹)は歴代天子を補佐され、代々忠義を尽くしておいでです。
また、現在朝廷は都を離れて流浪され、宗廟は破壊されております。
諸州諸郡の様子を観察しますに、表向きは義兵を挙げるという名目を立てておりますが、内実は互いに滅ぼし合うことを計画し、天子(献帝)を安んじまいらせ、民衆を慈しむ者は未だおりません。
現在、州都(鄴県)はほぼ安定いたしましたゆえ、天子(献帝)の御車をお迎えし、鄴都に宮殿を置き、天子(献帝)を擁して諸侯に号令をかけ、兵馬を養って入朝しない者を討伐されたならば、誰がこれを防ぐことができますでしょうか」
これを聞いた袁紹は喜んで、沮授の意見に従おうとしました。
すると郭図と淳于瓊は、
「漢王朝は衰退し始めてから、すでに長い時間が経っています。今、これを再興させようとしても、困難なことではないでしょうか。
その上、今や英雄が州や郡を支配し、その軍勢は万を数えます。
これは『秦がその鹿を取り逃がし、先に捕まえた者が王になる』という状況と同じです。
もし天子(献帝)をお迎えしてこちらから接近した場合、1つ1つの行動についてお伺いを立てなければなりません。これに従えば権力を弱めることになり、これに背けば勅命を拒否したことになってしまいますので、良策ではありません」
と言って天子(献帝)を迎えることに反対します。
これに沮授は重ねて言いました。
「今朝廷をお迎えするのは最高の正義であり、また時宜にかなった(時期に適した)大いなる計画です。もし速やかに実行に移されなければ、必ずや他に先手を打つ者が現れるでしょう。
そもそも臨機の策は機会を逃さぬことに、功業の樹立は敏速さにかかっているのです。将軍(袁紹)には早く手を打たれますように」
ですが袁紹は、この意見を採用することができませんでした。
『魏書』袁紹伝と、その注に引かれている『献帝伝』では、郭図の立場が逆転しています。
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献帝即位までの経緯と袁紹の姿勢
少帝派だった袁紹
中平6年(189年)4月に霊帝が崩御すると、霊帝の遺詔(遺言)に従って劉協(献帝)を即位させようとする蹇碩ら中常侍たちと、異母妹である何皇后が生んだ劉辯(劉弁・少帝)を即位させようとする大将軍・何進との間で争いが起こります。
そして、この争いを制した何進が劉辯(劉弁・少帝)を即位させることになりますが、この時袁紹は、大将軍・何進の側近をつとめていました。
少帝が即位したことで袁紹は、外戚・何進の側近として重要な地位を得るはずだったのです。
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董卓による献帝擁立
その後何進と袁紹は、何皇后に「中常侍をはじめとする宦官たちの誅滅」を認めさせるため、董卓ら地方の豪族たちに軍勢を率いて上洛するように命令を出しますが、彼らの到着を待たずに、中常侍・張讓らによって何進が暗殺されてしまいました。
これを知った袁紹は軍勢を率いて宮中に突入し、宦官たちの一掃を実行に移します。
そしてこの混乱の中、洛陽(雒陽)を脱出した少帝と陳留王[劉協(献帝)]を保護したのが董卓です。
その後、軍権を掌握して朝廷の実権を握った董卓は、少帝を廃位して献帝を即位させました。
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反献帝を貫いていた袁紹
反董卓連合の決起
朝廷の実権を握った董卓は、名士を集め、派閥にこだわらず袁紹や曹操など元少帝派の人物も用いようとしますが、大将軍・何進亡き後、少帝派をまとめて実権を握るはずだった袁紹には耐えられないことでした。
つまり、初平元年(190年)1月に決起した反董卓連合は、「董卓を誅殺し、献帝を廃して再び少帝を即位させる」ことを目的とした、袁紹を盟主とする少帝派の集まりだったのです。
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弘農王(少帝)の殺害
反董卓連合が決起すると、董卓は幽閉していた弘農王(少帝)を殺害してしまいます。
これにより、反董卓連合は「錦の御旗」を失ってしまいました。
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劉虞を天子に推戴する
初平2年(191年)1月、弘農王(少帝)が殺害されたことにより「錦の御旗」を失った袁紹は、冀州牧・韓馥と共に幽州牧・劉虞を天子に即位させることを働きかけます。
ですが、劉虞はこれを頑として承知しなかったため、献帝に対抗する新たな天子を擁立することはできませんでした。
またこの時、袁術や曹操はこれに反対していました。
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献帝の権威
官爵の任免権
劉虞の天子擁立に失敗した際、袁紹は劉虞に、せめて「尚書の事務を担当し、独断で事を処理する権限を獲得して官爵の任命を行う」ことを求めました。(劉虞はこれも拒否)
つまり袁紹は、この時点で「権威ある官爵の任免権」を欲していたわけです。
ですが、献帝が安邑県に行幸した[興平2年(195年)]頃には、袁紹自身や袁術、公孫瓚、陶謙のように、勝手に官職を名乗ったり、勝手に他人に官職を与えることが横行していましたので、もはや「権威ある官爵の任免権」を必要とはしていませんでした。
ですが未だ袁紹自身も、朝廷から正式に任命される官職に権威を感じており、後に自分の席次が曹操の下になることを恥じて立腹し、曹操に大将軍の位を譲られています。
朝廷権威の失墜
この時点[興平2年(195年)]で朝廷は、群雄たちが勝手に官職を名乗り、勝手に他人に官職を与えることを処罰する力はありませんでした。
また、袁紹は朝廷に任命された冀州牧・壺寿を殺害し、曹操は同じく朝廷に任命された兗州刺史・金尚が兗州に入ることを拒み、劉璋は軍事力を背景にして、父・劉焉から益州牧を継承することを朝廷に認めさせました。
本来であれば「朝廷に逆らう逆賊」の汚名を着せられるような行為が、すでに平然と行われており、朝廷の権威は完全に失墜していたと言えるでしょう。
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献帝の利用価値
では、献帝を保護することにはどんな利点があるのでしょうか。
群雄レベルでは完全に失墜した朝廷の権威ですが、その配下や在野などの個人レベルでは、まだまだ朝廷の権威を信奉する者はたくさんいました。まず、献帝を迎えることで彼らを味方につけることができます。
また曹操は、献帝を迎えてから急速に勢力を拡大しましたが、これは時期が重なっただけで、献帝の権威を利用したというよりも、曹操自身の才覚によるものが大きいと言えるでしょう。
献帝が董卓によって擁立されて以降、朝廷の権威が失墜して各地の群雄が独立心を持つようになり、朝廷は賊を討伐する軍事力を失いました。
ですが、曹操が勢力を拡大し、曹操の軍事力を背景に「朝廷の権威」を振りかざした時、それは十分な威力を発揮することになります。
後にそのことに気づいた袁紹は「献帝を迎えなかったこと」を後悔して、献帝を兗州・済陰郡・鄄城県に移して都に定めるように曹操に要求し、献帝に近づこうと考えましたが、曹操はこれを拒否しました。
袁紹はなぜ献帝を迎えなかったのか。
まず、これまで「反献帝」を貫いてきた袁紹にとって、今さら献帝を迎えることに抵抗があったのかもしれません。
また、もし袁紹が『献帝伝』の郭図と淳于瓊の言葉にあるように、
「献帝を迎えることで、自分の権力を弱めることになる」
と考えたのだとすれば、献帝の権威を畏れずその権力を剥奪した曹操と違って、漢王朝の再興は不可能と言いながら、袁紹の方がよっぽど献帝の権威を畏れていたのだと言えるでしょう。
つまり袁紹は、「献帝を迎える=献帝に従う」という固定概念から抜け出せず、「献帝を利用する」という発想ができなかったのです。