袁紹と曹操が戦った「官渡の戦い」の全体像についてまとめています。記事は作成中。正史記事の進捗に合わせて追記します。
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袁紹と曹操の関係
袁紹と曹操の関係
曹操は若い頃に袁紹と交際があり、初平元年(190年)春正月の「反董卓連合」の決起以降、袁紹は曹操に対して数々の援助をしてきました。
袁紹の曹操への援助
- 初平元年(190年)、司隷・河南尹・滎陽県の汴水で徐栄に敗れた曹操は、揚州で兵を補充した後、当時司隷・河内郡に駐屯していた袁紹を頼りました。
- 初平3年(192年)、袁紹は兗州・東郡に侵攻した黒山賊を撃ち破った曹操を、東郡太守に任命しました。
- 初平4年(193年)、兗州牧となった曹操の徐州侵攻に際して、袁紹は朱霊に3陣営の兵を指揮させて援助しました。
- 興平元年(194年)、兗州で反乱を起こした呂布らを相手に敗北が続いた曹操に、使者を派遣して手を結ぼうと持ちかけ、曹操の家族を冀州・魏郡・鄴県(袁紹の本拠地)に住まわせるように提案しました。
また曹操の方でも、袁紹と袁術が争った際には袁紹につき、袁術派の単経(公孫瓚)・劉備・陶謙らを撃ち破っています。
袁紹と曹操は実に15歳以上も歳が離れており、袁紹にとって曹操は、対等な友人や盟友ではなく、格下の従属関係だと認識していたものと思われます。
関係の悪化
献帝の許県遷都
建安元年(196年)9月、豫州(予州)西部に進出した曹操は、潁川郡・許県を本拠地に定め、廃墟と化した洛陽(雒陽)から許県に献帝を迎え入れました。
これより以前、袁紹にも献帝を迎え入れる機会はありましたが、袁紹は座視したまま動かなかったのです。
その後、自らの本拠地・許県に献帝を迎え入れた曹操は大将軍に任命され、袁紹は太尉に任命されますが、官位の序列が曹操の下位となったことを恥じた袁紹は、
「曹操はこれまで何度も窮地に陥ったが、その度に儂は奴を救ってやった。それなのに、今になって天子(献帝)を差し挟み(干渉して)、儂に命令するというのかっ!」
と激怒したため、曹操は袁紹に大将軍の位を譲りました。
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曹操の決戦準備
建安2年(197年)、曹操が張繡の謀叛にあって許県に逃げ帰ったことを知った袁紹は、曹操に対して「礼に反する人を馬鹿にした内容の手紙」を送りつけます。
これに激怒した曹操が「袁紹討伐」を口にすると、荀彧と郭嘉は「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙した上で、決戦の前にすべきこととして次の2点を挙げました。
- 背後にあたる馬騰・韓遂の懐柔
- 袁紹を援助するであろう呂布の討伐
すると曹操は、さっそく侍中・尚書僕射の鍾繇に司隷校尉を兼務させ、馬騰・韓遂らを慰撫させました。
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袁紹の提案を拒む
建安3年(198年)3月、曹操が3度目の張繡征伐に出陣していた時のこと。
袁紹は、詔書が下される度に、それが自分にとって不利な内容ばかりであることを憂慮して、
「許県一帯は低湿地であり、洛陽(雒陽)は破壊されている。条件の良い兗州・済陰郡・鄄城県に都を遷すべきだ」
と、天子(献帝)を自分の近くに移すように説得しましたが、曹操はこれを拒否します。
すると袁紹配下の田豊は、
「曹操が遷都の提案に従わなかったのですから、早く許県を攻略して天子(献帝)をお迎えし、行動を起こす時には詔書をもって海内(天下)に号令するべきです。
そうしなければ、最後は人に捕えられることになり、その時になって後悔しても『後悔先に立たず』というものです」
と進言しましたが、袁紹は田豊の意見に従いませんでした。
そしてこの時、袁紹の逃亡兵から「田豊が許県攻撃を進言した」ことを伝え聞いた曹操は、すぐさま包囲を解いて許県に撤退しました。
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官渡の戦いの前哨戦
袁紹についた眭固を討つ
建安4年(199年)春2月、呂布を降して徐州を平定し帰還の途についた曹操が、兗州・山陽郡・昌邑県に入った時のこと。
司隷・河内郡では元黒山賊の眭固が曹操派の楊醜を殺害し、河内郡の軍勢をあげて袁紹の配下に入ってしまいます。
豆知識
これに曹操は、将軍の史渙と曹仁に黄河を渡らせて攻撃し、眭固を斬りました。これが、袁紹と曹操の初めての軍事衝突になります。
本来であれば、袁紹に「眭固の引き渡しを要求する」手順を踏むべきですが、すでに課題であった「馬騰・韓遂の慰撫」と「呂布の討伐」を終えていた曹操は、躊躇することなく行動を起こしたのです。
またこの時期は、ちょうど袁紹が幽州の公孫瓚を滅ぼした時期にあたり、袁紹・曹操の両軍共に後顧の憂いがなくなったことになります。
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袁紹の出陣
幽州の公孫瓚を滅ぼした袁紹は、ついに曹操の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県を攻撃しようとします。
これに袁紹配下の間で、
- 反戦派の沮授・田豊ら
- 主戦派の審配・郭図ら
に分かれて論戦が行われましたが、結果、袁紹は主戦派の審配・郭図らの意見に従い、論争に敗れた沮授は、郭図の進言によってその職権を縮小されました。
その後袁紹は、冀州・魏郡・黎陽県において兵を整え、延津に宿営します。
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曹操の出陣と周辺諸将の反応
曹操の出陣
建安4年(199年)秋8月、曹操は冀州・魏郡・黎陽県に軍を進め、臧覇らを青州に進入させて斉国・北海国・東安を撃ち破り、于禁を黄河の河岸に駐屯させておきました。
周辺諸将の反応
曹操と袁紹が官渡で対峙した時、関中(函谷関の西側の地域)の諸将は中立の立場をとって戦況を傍観していましたが、衛覬の助言を得た曹操が、司隷校尉の鍾繇を司隷・弘農郡に置いて統治させると、彼らはみな曹操に帰順しました。
また、袁紹から援軍要請を受けた荊州牧・劉表はこれを承知しましたが、敢えて兵を動かそうとはせず、この時、荊州南部で劉表に敵対していた長沙太守・張羨は、使者を送って曹操に味方しました。
劉備の独立
建安4年(199年)、袁術討伐を命じられて出陣した劉備は、袁術が病死したことを知ると、許県には戻らず、曹操が任命した徐州刺史・車冑を殺害して徐州で独立を果たし、袁紹と連合します。
これに曹操は、劉岱と王忠を派遣して劉備を攻撃させましたが、劉備を撃ち破ることはできませんでした。
張繍の帰順
一方、袁紹は荊州・南陽郡に使者を遣わして張繡を招き、同時に賈詡に手紙を与えて味方に引き入れようとしましたが、張繡の参謀・賈詡は「曹操に従うべき3つの理由」を挙げ、冬11月、張繡はこの意見に従い、軍兵を引き連れて曹操の下に帰順しました。