袁紹討伐を口にした曹操に、郭嘉(荀彧)が列挙した「袁紹の10の敗因と曹操の10勝因」についてまとめています。
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目次
袁紹からの手紙
曹操の敗北
建安2年(197年)春正月、曹操は、東方(徐州)では呂布に神経を遣い、南方(荊州)では張繡を目標に定めていました。
曹操が南征して淯水に陣を置くと、張繡は戦わずに曹操に降伏しますが、自分の叔母を側妾にした曹操を怨みに思った張繡は、曹操を強襲。曹操は大敗北を喫して許県に還りました。
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袁紹からの手紙
曹操が彼の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎えて以降、袁紹は内心曹操に対して反感を抱いていました。
また、袁紹が河北を併合した後、天下の人々はその強大さを恐れ憚るようになっていました。
そして曹操が張繡に敗れると、袁紹はますますつけ上がり、曹操に手紙を送りつけます。
その文章ときたら、礼に反して人を馬鹿にした内容だったので、曹操は今までにないほど激怒しました。
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袁紹の10敗・曹操の10勝
袁紹の手紙を読んで激怒した曹操は、「袁紹を討伐したい」と思い、『魏書』荀彧伝では荀彧に、『魏書』郭嘉伝が注に引く『傅子』では郭嘉に相談しました。
その時2人はそれぞれ、「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙しています。
『魏書』荀彧伝
曹操の怒りが並々ならないのを見た人々は、みな張繡に負けたせいだと考えていました。
鍾繇が荀彧にその理由を尋ねると荀彧は、
「公(曹操)は聡明なお方で、決して済んだことを後からくよくよお考えにならない。多分、何か他に気に掛かることがおありなのだろう」
と言い、曹操に会って理由を尋ねたところ、曹操は初めて袁紹の手紙を荀彧に見せ、
「今、道義に反する者を征伐しようとしても、力ではとても敵わない。どうしたらよかろう?」
と尋ねました。すると荀彧は次のように答えます。
「過去における勝敗を見ますと、本当に才能を持っている人物ならば、弱くとも必ず強くなり、仮に不適当な人物ならば、強くとも簡単に弱くなっております。劉邦(前漢の高祖)と項羽の存亡の例を観察すれば十分でありましょう。
現在、公(曹操)と天下を争っている者は、ただ袁紹のみです。
1. 度量
袁紹は、外は寛大に見えますが内心は猜疑心が強く、人に仕事を任せておきながら、その心を疑うような人物です。
これに対し、公(曹操)はご聡明にして他のことに拘泥(こだわる)されることなく、ただ適材適所だけを心掛けておられます。これは『度量』の勝っている点です。
2. 計略
袁紹は鈍重で決断に乏しく、機会を見過ごす欠点があります。
これに対し、公(曹操)は大事を決断することがおできになり、変化に対して自在に対応されます。これは『計略』の勝っている点です。
3. 武力
袁紹の軍の統率振りは締まりがなく、軍法軍令は実施されておりません。兵卒の数は多くとも、実際には使いこなせずにおります。
これに対し、公(曹操)の軍法軍令は明白である上に、賞罰もきちんと実行されております。兵卒の数は少なくとも、みな先を争って生命を投げ出します。これは『武力』の勝っている点です。
4. 徳義
袁紹は先祖の培ってきた元手に寄りかかり、もっともらしい態度で知恵者の振りをして名声を集めております。そのために、能力に乏しく議論好きの人間が多く彼に身を寄せているのです。
これに対し、公(曹操)はこの上ない仁愛をもって人々を扱われ、誠実な態度をとられ、表面だけきれいに取り繕うことはなさらず、ご自分の行動は謹直節倹(慎み深く正直で倹約家)でありながら、功績のある者に対しては物惜しみをなさいません。
そのために、天下の忠誠をささげ実務に貢献する人物は、みな公(曹操)のためにお役に立ちたいと願っているのです。これは『徳義』の勝っている点です。
そもそも4つの勝っているものを持ちつつ、天子(献帝)を補佐し、正義によりながら征伐を行った場合、誰が思いきって反抗しましょうか。袁紹の強大さは、一体何の役に立ちましょうぞ」
これを聞いた曹操は大変喜びました。
『魏書』郭嘉伝 注『傅子』
曹操は郭嘉に言いました。
「本初(袁紹)は冀州の軍勢を擁し、青州・幷州(并州)を従属させ、領地は広く兵力は強い上に、たびたび天子(献帝)に対して不遜な行為をとっている。儂は奴を討伐したいのだが、力では相手にならない。どうじゃ?」
すると郭嘉は、次のように答えます。
「劉邦(前漢の高祖)と項羽の力が同じでなかったことは、公(曹操)のご存知のところ。漢祖(劉邦)はただ智力に勝っていただけです。
項羽は強大でありながら、結局は捕らえられました。嘉は秘かに考えますに、紹(袁紹)には10の敗北の種があり、公(曹操)には10の勝利の因(要因)がおありです。袁紹は兵力強大とは申せ、打つ手を持たないでしょう。
1. 道(法則)
紹(袁紹)は面倒な礼式・作法を好んでおりますが、公(曹操)は自然の姿に任せておられます。これは『道(法則)』の優れた面で、第1点です。
2. 義(正義)
紹(袁紹)は逆[天子(献帝)に逆らうこと]をもって行動し、公(曹操)は順[天子(献帝)に従うこと]を奉じて天下を従えておられます。これは『義(正義)』の優れた面で、第2点です。
3. 治(政治)
漢の末期は寛(締まりのなさ)で政治が失敗しました。紹(袁紹)は寛を用いて寛を救おうとしております。だからうまくいきません。
公(曹操)は猛(厳しさ)でもってそれを糾し、ために上下ともに掟をわきまえております。これは『治(政治)』の優れた面で、第3点です。
4. 度(度量)
紹(袁紹)は外は寛大でも内心は猜疑心が強く、人を用いる場合、その者を信用しきれません。信任しているのは親戚や子弟ばかりです。
公(曹操)は外は簡略、心の働きは明晰、人を用いる場合疑いを持たれず、ふさわしい才能を持っているかどうかだけが問題で、親戚・他人を分け隔てされません。これは『度(度量)』の優れた面で、第4点です。
5. 謀(策謀)
紹(袁紹)は策謀のみ多くて決断に乏しく、失敗は時期を失する点にあります。
公(曹操)は方策が見つかればすぐ実行され、変化に対応して行き詰まるところがありません。これは『謀(策謀)』の優れた面で、第5点です。
6. 徳(人徳)
紹(袁紹)は累代に渡って積み重ねた基礎をもとに、高尚な議論と謙虚な態度で評判を勝ち得ました。議論を好み、外見を飾る人物は多く彼に身を寄せました。
公(曹操)は真心を持って他人を待遇し、誠意を貫いて実行されます。上辺だけを飾ることをなさらず、慎ましさをもって下を従えられ、功績のある者には惜しむところなく賞賜を下さります。誠実で将来を見透す見識を持ち中身のある人物は、みなお役に立ちたいと希望しております。これは『徳(人徳)』の優れた面で、第6点です。
7. 仁(愛情)
紹(袁紹)は他人の飢えや凍えを見ると、憐れみの気持ちを顔色に表しますが、眼に触れないことに対しては考慮が及ばないといった風です。いわゆる『婦人の仁愛』に過ぎません。
公(曹操)は眼の前の小さな事について、時には蔑ろにされることがありますが、大きな事になると、四海の内の人々と接し、恩愛を施され、すべて期待以上であります。眼に触れないことに対してさえも、周到に考慮され、処置されないことはございません。これは『仁(愛情)』の優れた面で、第7点です。
8. 明(聡明)
紹(袁紹)は、大臣どもが権力を争い合い、讒言(他人を陥れるため、ありもしない事を目上の人に告げること)に混乱しております。
公(曹操)は道義をもって下を統御され、水の染み込むごとく讒言の染み込むことは行われておりません。これは『明(聡明)』の優れた面で、第8点です。
9. 文(法政)
紹(袁紹)の善し悪しの判断ははっきりといたしません。
公(曹操)は善しとする場合、礼をもってそれを推し進め、善しとしない場合、法をもってそれを正されます。これは文(法政)の優れた面で、第9点です。
10. 武(軍事)
紹(袁紹)は好んで虚勢を張りますが、軍事の要点は知りません。
公(曹操)は少数をもって多数に勝ち、用兵は神のごとく、味方の軍人はそれを恃みとし、敵はそれを恐れております。これは武(軍事)の優れた面で、第10点です」
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目標を呂布に定め、関中を慰撫する
「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙した荀彧と郭嘉は、それぞれ今後の方針を献策しています。
『魏書』荀彧伝
「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙した荀彧は、続けて言いました。
「ですが、まず呂布を攻め取らなければ、河北(袁紹)に対しても簡単には手を下せません」
すると曹操は、荀彧に次のように問います。
「しかし、儂が迷っているのは、やはり袁紹が関中(函谷関より西の長安を中心とする地域)に侵入して荒らしまわり、羌族に叛旗を翻させ、南方の蜀漢に誘いの手を伸ばすのが心配なためだ。
そうなると、儂はただ兗州と豫州(予州)だけを頼りに、天下の5/6と対抗することになる。一体どんな手を打てるのだ」
これに荀彧は答えて言いました。
「関中の頭目は十単位の数にのぼりますが、とても1つにまとまることは不可能です。
その内、韓遂と馬超(おそらく馬騰の誤記)が最も強いのですが、彼らは山東(東中国)で戦争が始まったのを見れば、各自軍勢を抱えたまま自分の勢力を保とうとするに違いありません。
今、もし恩徳によって彼らを慰撫し、使者を遣わして同盟を結んだならば、長期間にわたって安定した状態を保つことはできなくとも、公(曹操)が山東を平定なさる期間ぐらいは、充分釘付けにしておけます。
鍾繇に西方のことをお任せになれば、公(曹操)のご心配はなくなります」
『魏書』郭嘉伝 注『傅子』
郭嘉が「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙すると、曹操は笑いながら、
「卿の言うことに耐えられるほどの徳を、儂は持っているだろうか」
と言いました。すると郭嘉はまた答えて言いました。
「紹(袁紹)は今、北方に公孫瓚を攻撃しております。彼の遠征を利用し、東方(徐州)に赴き呂布を捕まえるのがよろしいでしょう。
布(呂布)を捕まえずにおいて、もし紹(袁紹)が侵入し、布(呂布)が彼に援助をすれば、それこそ大きな害です」
これに曹操は、
「その通りだ」
と頷きました。
馬騰・韓遂と同盟を結ぶ
当時、関中の将軍、馬騰・韓遂らは、それぞれ強力な軍隊を抱えて互いに抗争していました。
曹操は上奏して侍中・尚書僕射の鍾繇に侍中のまま司隷校尉を兼務させると、持節として関中の諸軍の総指揮を執らせ、後の事を委任して、特に法令に拘束されず自由に裁量することを許します。
鍾繇は長安に到着すると、馬騰・韓遂らに文書をまわし、禍福利害を説明してやったので、馬騰・韓遂はそれぞれ人質として子供を参内させ、天子(献帝)に仕えさせました。
建安2年(197年)春正月、曹操が荊州・南陽郡・宛県で張繡に敗北すると、袁紹は曹操に無礼な手紙を送りつけてきました。これに曹操は激怒します。
すると荀彧と郭嘉は、「袁紹が曹操に劣る点と、曹操が袁紹に勝る点」を列挙し、「袁紹、恐るるに足らず」と説いた上で、関中を慰撫し、後顧の憂いを断って、まず呂布を討つことを勧め、曹操はこれに従いました。