建安13年(208年)12月、孫権が揚州・九江郡・合肥国を包囲した「第1次合肥の戦い」についてまとめています。
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目次
建安13年(208年)末の情勢
赤壁の戦い
建安13年(208年)7月、南征の軍を起こした曹操は、荊州牧・劉表の後を継いだ劉琮を降伏させ、荊州・南郡・当陽県の長坂で劉備を撃ち破ると、呉の孫権に対して「降伏勧告」ともとれる書簡を送りつけました。
10月、荊州・南郡・江陵県から長江を下った曹操軍は、赤壁で周瑜・劉備連合軍と遭遇。黄蓋の火計により大半の軍船を焼き払われ、這う這うの体で逃走しました。
曹操の逃走経路
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江陵の戦い
逃走する曹操を追って荊州・南郡に入った周瑜・劉備連合軍は、江陵県を守る曹仁と長江を隔てて対峙しました。
そして、甘寧の別働隊が荊州・南郡・夷陵県を奪取すると、勢いづいた周瑜軍は長江を渡って江陵県を包囲しますが、曹仁の守りは固く、周瑜は流れ矢に当たって負傷してしまいました。
江陵の戦い
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合肥の戦い
孫権の出陣
建安13年(208年)12月、孫権は自ら10万の軍勢を率いて揚州・九江郡・合肥国を包囲し、張昭には同じく九江郡の当塗県に攻撃をかけさせました。
合肥国と当塗県
この時孫権は、軽装備の騎兵を率いて自ら先頭に立ち、敵にぶつかって行こうとしたので、長史の張紘はそれを諫めて、
「そもそも『兵器』と申しますものは不吉な道具であり、『戦争』と申しますものは危険なことなのでございす。
今、麾下(孫権)は、盛んなる意気を恃んで強暴な敵軍を軽んじておられますが、全軍の者たちは、麾下(孫権)のそうした行動にみな心を寒からしめておるのでございます。
たとえ敵将を斬り、軍旗を奪って戦場に威を振るわれたといたしましても、それはそれぞれの部将たちのなすべきことであって、総指揮官のなさるべきことではございません。
願わくは孟賁や夏育*1といった連中と同様な勇猛の心はお抑えくださり、お心に覇王としての計略をお持ちいただきますように」
と言いました。
すると孫権は、張紘の意見を容れて、自ら陣頭に立つことをやめました。
脚注
*1孟賁・夏育は、共に戦国時代の勇士。
揚州刺史・劉馥
建安5年(200年)に孫策が亡くなると、孫策が任命した廬江太守・李術は揚州刺史の厳象を攻撃して殺害し、そのため廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らが仲間数万人を集めて長江・淮河一帯に跋扈し、郡県は破壊されてしまいました。
この時曹操は、ちょうど袁紹と争っている時だったので、劉馥なら「東南の事を任せられる」と考え、上奏して劉馥を揚州刺史に任命します。
任命を受けた劉馥は、すぐさま合肥の空城に向かうとそこに州治所を建て、南方の雷緒らを手懐けて彼らを安定させました。
その結果、相継いで献上品が奉られるようになり、数年の内に恩恵教化が充分行き渡ったので、住民は劉馥の政治を喜び、江や山を越えて身を寄せる流民は5桁の数にのぼりました。
そこで劉馥は、学生たちを集めて学校を建て、屯田を拡大し、芍陂・茄陂(茹陂)・七門・呉塘に堤防を築いたり修理したりして稲田を灌漑したので、官民共に豊かになりました。
また劉馥は、城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積み上げ、草筵数千枚を編み、さらに魚膏(魚油)数千斛みを貯蔵して、戦争のための備えとしました。
豆知識
この時劉馥に帰順した雷緒は、建安13年(208年)末に劉備が江南4郡を平定すると、配下の数万人を率いて劉備に帰順しました。
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『魏書』劉馥伝には、
「(劉馥は)建安13年(208年)に亡くなった。孫権が10万の軍勢を率いて合肥城を(以下略)」
とあり、劉馥は孫権が合肥城を包囲する前に亡くなっていましたが、合肥城には劉馥が遺した戦争のための備えがありました。
合肥城の包囲戦
孫権が揚州・九江郡・合肥国を攻撃・包囲してからというもの、連日雨が降りしきり、合肥城の城壁は今にも崩れようとしていました。
ですが合肥城の城兵は、(劉馥が備蓄していた)草筵で城壁を覆い、夜は魚膏(魚油)を燃やして城外を照らし、孫権軍の行動を監視しつつ防備したので、包囲を始めてから百余日が経っても、孫権は未だ合肥城を落とすことができずにいました。
孫権の撤退
曹操の援軍
建安14年(209年)春3月、赤壁の戦いで敗走した曹操が豫州(予州)・沛国・譙県に至り、軽快な舟を作って水軍を訓練していました。
「孫権が揚州・九江郡・合肥国を包囲した」ことを知った曹操は、合肥国に援軍を送りたいと思いましたが、疫病の流行により大軍を動かすことができませんでした。
そこで曹操は、将軍の張喜に単身・千騎を率いさせ、汝南郡を通過する際にその兵を配下に収めて、その兵によって敵の包囲を解かせることにしましたが、やはりかなりの兵が疫病にかかってしまいました。
揚州別駕・蔣済の機転
揚州の別駕従事・蔣済(蒋済)は、そこで一計を案じ、
「『歩兵・騎兵4万がすでに雩婁(揚州・廬江郡・雩婁国)に到着している』という旨の張喜の手紙を手に入れたから、主簿を遣って張喜を出迎えさせるように」
と偽って、内密に刺史に書き送りました。
揚州・廬江郡・雩婁国
その結果、3組の使者がその手紙を持って城中の守備隊長に報告することになり、1組は城に入ることができましたが、2組は孫権軍に捕らえられてしまいます。
蔣済(蒋済)の偽りの手紙を信用した孫権は、急遽包囲の陣営を焼き払って撤退しました。
また、揚州・九江郡・当塗県を攻撃させていた張昭の軍も、戦果を挙げることができず撤退しました。
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疑問点の整理
蔣済(蒋済)はどこにいた?
州刺史や別駕従事は、通常、州治所にいるはずです。
『魏書』劉馥伝によると、前の揚州刺史・劉馥は、この時孫権が包囲していた揚州・九江郡・合肥国に州治所を置いていますが、後任の揚州刺史(諱不明)と別駕従事・蔣済(蒋済)は別の場所にいたようです。
おそらく劉馥は、前線である合肥城が空城となっていたため、臨時に州治所を置いて城の防備を固めたものと思われます。その後、雷緒らを手懐けた劉馥は、目的を達したため別の場所*2に州治所を移していたのではないでしょうか。
脚注
*2元の州治所である歴陽国か、以前袁術が政庁を置いていた寿春県が有力。
孫権の合肥城包囲の時期について
『魏書』武帝紀、『魏書』蔣済伝では、建安13年(208年)12月、「赤壁の戦い」の前に孫権が合肥城を包囲しており、『魏書』蔣済伝では、曹操が張憙を合肥城救援に派遣したのは、「赤壁の戦い」の前のこととなっています。
一方、『後漢書』献帝紀では、「赤壁の戦い」が起こったのは「建安13年(208年)10月」とあり、『呉書』呉主伝でも、「赤壁の戦い」の後に孫権が合肥城を包囲しています。
当時曹操は、すでに孫権に「長江を下って呉に侵攻する意志」を伝えており、孫権陣営では「降伏」か「決戦」かで論争が行われ、その結果孫権は、曹操に乾坤一擲の戦いを挑むことを決断しました。
『呉書』周瑜伝が注に引く『江表伝』でも、孫権が周瑜を劉備の元に派遣する際、
「(周瑜が求めた)5万の兵は急には集め難いが、すでに3万人を選んで、船も兵糧も兵器もみな準備してある。卿は子敬(魯粛の字)、程公*3(程普)と共に、すぐさま先鋒として出発して欲しい。私は引き続き人数の動員にあたり、なるべく多くの物資や軍糧を送って卿を後方から支援しよう」
と言っており、この状況で曹操の主力(周瑜の見立てでは15〜16万)に対し、3万人の水軍だけを派遣して、自らは10万の軍勢を率いて合肥城を包囲したとは思えません。
当サイトでは、『後漢書』献帝紀に従って「赤壁の戦い」を「建安13年(208年)10月」とし、「孫権軍は赤壁の戦いの勝利を受けて攻勢に転じ、周瑜は江陵城を、孫権は合肥城を包囲した」のだと解釈して文章を構成しています。
脚注
*3江東の諸将の中で程普が最年長であったため、程普は「程公」と呼ばれていた。
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建安13年(208年)12月、赤壁の戦いの勝利を受けて攻勢に転じた孫権軍は、周瑜らが荊州・南郡・江陵県を包囲し、孫権は自ら10万の軍勢を率いて揚州・九江郡・合肥国を包囲しました。
ですが、百余日経っても合肥城を落とすことができず、孫権は曹操配下の揚州別駕・蔣済(蒋済)の偽りの手紙を信じて、包囲を解いて撤退しました。