建安14年(209年)に起こった廬江郡の陳蘭と梅成の反乱と、張遼・臧覇・張郃・于禁らによる反乱討伐戦についてまとめています。
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目次
曹操の合肥入り
孫権の合肥城包囲
建安13年(208年)12月、赤壁の戦いの勝利を受けて攻勢に転じた孫権軍は、周瑜らが荊州・南郡・江陵県を包囲し、孫権は自ら10万の軍勢を率いて揚州・九江郡・合肥国を包囲しました。
孫権の合肥城包囲
ですが、百余日経っても合肥城を落とすことができず、孫権は曹操配下の揚州別駕・蔣済(蒋済)の「歩兵・騎兵4万がすでに雩婁(揚州・廬江郡・雩婁国)に到着している」という偽りの手紙を信じて、包囲を解いて撤退しました。
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曹操の布令
秋7月、曹操は水軍を率いて渦水から淮水に入り、肥水に出て、揚州・九江郡・合肥国に陣を取ると、次のような布令を出しました。
「最近来、軍は度々征討にのぼっているが、疫病の流行にあったこともあり、官吏士卒のうち死亡して帰還しない者がおり、家族は取り残され、民衆は流浪している。
仁者は一体、それを喜んでいるだろうか。やむを得ないのである。
死者を出した家で生活の基礎たる財産を持たず、自活できない者に対して、県官(県の役人)は官倉からの支給を絶つでないぞ。長吏(県令・県長)は、我が意に沿って、彼らの面倒をみて労るように」
曹操の航路
- 赤:渦水(濄水・㳡水)
- 紫:淮水
- 黄:肥水
また曹操は、揚州の郡県に長吏(県令・県長)を置き、芍陂*1から水を引いて屯田を始めました。
脚注
*1春秋時代、楚相・孫叔敖によって造られた周囲120里(約51.6km)の貯水池。揚州・九江郡・寿春県の南80里(約34.4km)にある。
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陳蘭と梅成の反乱
孫権の援助を絶つ
その後、廬江郡の陳蘭と梅成が、根城としていた6県*1をもって叛逆し、合肥城の包囲を解いて撤退した孫権は、揚州・廬江郡・居巣国に入って陳蘭・梅成を援助しようとします。
そこで曹操は、臧覇を先陣として巣湖に入らせ、居巣国を攻撃してこれを撃ち破ると、虎威将軍・于禁、徐州刺史・臧覇らを派遣して梅成を討伐させ、盪寇将軍・張遼には平狄将軍・張郃・牛蓋らを指揮して陳蘭らを討伐させました。
揚州・廬江郡・居巣国
脚注
*1原文:「陳蘭、梅成以氐六縣叛」。「氐」には「もと・根本・ふもと・底」の意味があるため「根城」と訳した。『資治通鑑』には「灊・六に拠りて叛す」とあり、胡三省注に「灊・六の2県は共に廬江郡に属す」とある。灊県と六安国か?
梅成の降伏
于禁と臧覇が軍を進めると、梅成は軍勢3千余人を挙げて降伏します。
ですが、その後于禁が帰還し、臧覇が呉の韓当が守る晥県の攻撃に向かうと、梅成は再び背き、軍勢を率いて陳蘭の元に奔りました。
臧覇の晥県攻撃
梅成を降伏させると、臧覇は晥県を守る呉の韓当が「陳蘭を救援する」ことを阻むため、別働隊として晥県に向かいました。
これに韓当は、逢龍と夾石で臧覇を迎え撃ちますが、臧覇は戦ってこれを撃ち破り、引き返して舒県に駐屯します。
この時孫権は数万人を船に乗せて派遣し、舒口に駐屯させ、兵を分けて陳蘭らを救援させていましたが、「臧覇の軍が舒県に駐屯している」と聞くと退却を始めました。
臧覇と韓当の戦い
すでに陽が落ちていましたが、臧覇はすぐさまこれを追撃して、明け方頃には百余里(約43km)を行軍し、孫権軍を待ち受けて前後から攻撃したので、孫権軍は追い詰められて船に乗ることもできず、多くの者が水死してしまいました。
これにより、孫権軍は完全に陳蘭らを救援することができなくなります。
天柱山の戦い
梅成が軍勢を引き連れて陳蘭と合流すると、2人は向きを変えて灊山に入りました。灊山の中には、さらに天柱山と呼ばれる山があり、陳蘭らはその山頂に砦を築きます。
天柱山の戦い
張遼と張郃、牛蓋らは陳蘭と対峙していましたが、兵糧が少なく、于禁は兵糧輸送の任務にあたり、途絶えさせることなく兵糧を輸送しました。
天柱山は高く険しく、20余里(約8.6km)にわたる道は狭く危険で、やっと歩くことができる小道がわずかに通じていただけでした。
張遼が進もうとすると、将軍たちは口々に、
「兵は少なく道は危険です。深く進入することは困難です」
と言いましたが、張遼は、
「道は狭く、『1人対1人の闘い』となるが、勇者ならば進むことができるはずだ」
と言い、天柱山の狭く危険な道を進んで山の下に陣営を置くと、陳蘭・梅成らを攻撃してその首を斬り、その軍勢をすべて捕虜にしました。
張遼らを合肥城に駐屯させる
その後曹操は将軍たちの戦功を調べ、
「天山(天柱山)に登り、険しきを踏み越えて陳蘭・梅成の首を取ったのは、賊を掃討する戦功と言える」
と言い、張遼の封邑を加増して仮節とし、また、于禁は封邑を200戸を加増されて、合計1,200戸となりました。
12月、曹操は軍を率いて豫州(予州)・沛国・譙県に帰還すると、張遼に命じて楽進・李典らと共に7千余人を率いて合肥城に駐屯させました。
豆知識
以上は、
- 『魏書』張遼伝
- 『魏書』臧覇伝
- 『魏書』于禁伝
- 『魏書』張郃伝
を基にしていますが、その時期は明記されていません。
『資治通鑑』胡三省注・『資治通鑑考異』が注に引く繁欽の『征天山賦』に「建安14年(209年)12月」とあり、これに従ってここに記しています。
また、『呉書』韓当伝には、
「後に中郎将の官位でもって周瑜らと共に(赤壁で)曹公(曹操)の進出を押し止めて撃ち破り、さらに呂蒙と共に南郡に攻撃をかけてこれを奪取した」
とあり、曹仁が荊州・南郡・江陵県を放棄して撤退したのがこの年の末ですので、臧覇に敗れた韓当は、晥県に入ったばかりだったことが分かります。
建安14年(209年)、揚州・九江郡・合肥国を包囲していた孫権が撤退すると、豫州(予州)・沛国・譙県にいた曹操は水軍を率いて南下し、合肥城に陣を取りました。
その後、廬江郡の陳蘭と梅成が曹操に対して反乱を起こすと、孫権は居巣国に入って陳蘭・梅成を援助しようとしますが、曹操が派遣した臧覇に阻まれてしまいます。
陳蘭と梅成は天柱山の山頂に砦を築いて抵抗を続けますが、張遼・張郃・于禁らに敗れて首を斬られました。
12月、曹操は譙県に軍を還し、張遼に命じて楽進・李典らと共に7千余人を率いて合肥城に駐屯させました。