建安3年(198年)3月に始まった「曹操の第3次張繡征伐」と「李傕の最期」についてまとめています。
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第3次張繡征伐
第2次張繡征伐
建安2年(197年)冬11月、曹操は再び背いて張繡に味方した荊州・南陽郡と章陵郡の諸県の討伐に向かいます。
曹操は湖陽邑の鄧済を降伏させ、舞陰県を陥落させましたが、建安3年(198年)春正月、張繡を討伐できないまま、豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還しました。
南陽郡と章陵郡
赤字:淯水
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第3次張繡征伐
3月、曹操がまた張繡を討伐しようとすると、荀攸が諫めて言いました。
「張繡と劉表は互いに助け合っているから強力なのです。
しかしながら、張繡は遊撃隊として劉表に食糧を頼っています。劉表は彼に食糧を供給し続けることはできないでしょうから、きっと張繡は離反するに違いありません。
今は軍の出動を見合わせて機会を待ち、誘いをかけて張繡を味方に引き入れるべきです。もし急いでこれを攻め立てれば、成り行き上、張繡と劉表は助け合うに違いありません」
ですが曹操はこれに従わず、そのまま穣県まで進軍して張繡を包囲します。
荊州・南陽郡・穣県
袁紹を警戒して撤退する
この頃袁紹は、詔書が下される度に、それが自分にとって不利な内容ばかりであることを憂慮して、「天子(献帝)を自分の近くに移したい」と考えるようになりました。
そこで袁紹は、曹操に使者を送って、
「許県一帯は低湿地であり、洛陽(雒陽)は破壊されている。条件の良い兗州・済陰郡・鄄城県に都を遷すべきだ」
と説得しますが、曹操はこれを拒否します。
許県と鄄城県
曹操が袁紹の提案を拒絶すると、袁紹配下の田豊が言いました。
「曹操が遷都の提案に従わなかったのですから、早く許県を攻略して天子(献帝)をお迎えし、行動を起こす時には詔書をもって海内(天下)に号令するべきです。
そうしなければ、最後は人に捕えられることになり、その時になって後悔しても『後悔先に立たず』というものです」
ですが袁紹は、この田豊の意見に従いませんでした。
そしてちょうどこの時、たまたま袁紹のところから逃亡して来た兵が、「田豊が袁紹に許県攻撃を進言した」ことを伝えたので、曹操は穣県の包囲を解いて許県に撤退することにしました。
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曹操の撤退戦
曹操の秘策
曹操が穣県の包囲を解いて撤退を開始すると、張繡は軍勢を率いてこれを追撃します。
夏5月、劉表は兵を派遣して張繡を救援するため安衆国に駐屯し、険阻な地形に陣取って曹操軍の退路を断ちました。
これにより曹操軍は、背後から張繡の兵が迫る中、陣営を連ねて少しずつ進むしかありません。
曹操は荀攸に、
「君の意見を用いなかったために、こんな羽目に立ち至ったわ」
と言いました。
荊州・南陽郡・安衆国
ですが一方でこの時曹操は、留守を守る荀彧に次のような手紙を送っています。
「背後からは賊が儂を追いかけて来る。1日に数里を行軍するだけだが、儂は断言する。安衆国に到着すれば、間違いなく張繡を撃ち破る」
しかして曹操が安衆国に到着すると、張繡は劉表の兵と合流して要害を守り、曹操は前後に敵を受けることになります。
そこで曹操は、夜の内に要害の地に穴を掘って地下道をつくり、先にすべての輜重(軍需物資)を通してから、奇襲の軍を伏せておきました。
賈詡の智略
夜が明けると、張繡は曹操が逃走したと思い込み、これを追撃しようとします。
この時、張繡の参謀の賈詡は、
「追撃してはなりません。追撃すれば負けるに決まっています」
と追撃することを止めましたが、張繡は聞き入れず全軍をあげて追撃します。
そこで曹操は、追って来た張繡軍に奇襲の兵を放ち、歩兵と騎兵で挟み撃ちにして散々にこれを撃ち破りました。
すると賈詡は、
「急いでもう一度追撃しなさい。もう一度戦えば必ず勝ちます」
と、張繡に再度追撃することを勧めます。驚いた張繡は、
「君の意見を採用しなかったために、こんな羽目に陥った。今敗北したばかりだというのに、どうしてもう一度追撃するのだ?」
と聞き返すと、賈詡は言いました。
「戦いの状況には変化があるもの。急いで出掛ければ勝利は間違いないでしょう」
この言葉を信用した張繡は、散り散りになった兵をかき集めて再度追撃をかけると、賈詡の言った通り勝利を得ることができました。
これを不思議に思った張繡は、戻って賈詡に尋ねます。
「儂は精鋭を引き連れて撤退する敵軍を追撃したのに、君は必ず敗北すると言った。
そして逃げ帰った後、敗軍を引き連れて勝ち誇る敵軍を襲撃したのに、君は必ず勝てると言った。
何もかもが常識に反して君の言った通りになったが、何故このような結果になったのか?」
すると賈詡は、次のように答えました。
「簡単なことです。将軍(張繡)は戦争がお上手ですが、曹公(曹操)には敵いません。敵軍は撤退し始めたとはいうものの、必ずや曹公(曹操)自ら殿となって追撃を断つに相違ありません。追撃の兵が精鋭であっても、大将が敵わぬ上に、敵の兵士もまた精鋭なのです。だから敗北間違いなしと予測しました。
曹公(曹操)は将軍(張繡)の攻撃にあたって、作戦の間違いがあったわけではなく、力を出し尽くさないうちに撤退したのですから、国内に何か事件が起こったに違いありません。
将軍(張繡)を撃ち破った後は、軍兵に軽装させ全速力で進むに相違なく、たとえ諸将を殿に残し、その将軍が勇猛であったとしましても、やはり将軍(張繡)には敵いません。
だから、敗残の兵を使って戦ったとしても、勝利は間違いないと思ったのです」
これを聞いた張繡は、初めて納得して賈詡の智略に感服しました。
曹操の帰還
秋7月、曹操が豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還すると、荀彧は曹操に、
「先日、賊軍が必ず敗れると予測されたのは、なぜでしょうか?」
と尋ねました。
すると曹操は、
「敵は我が帰還軍を遮って、我が軍を必死の状況に追い込んで戦った。儂はそれゆえ勝利を確信したのだ」
と答えました。
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李傕の最期
夏4月*1、曹操が張繡討伐に出征していた時のこと。
朝廷は謁者僕射の裴茂を派遣して、中郎将の段煨を率いて李傕を討伐させ、その三族を皆殺しにしました。
そして李傕の首が届けられると、詔勅によって、高い所につり下げられて さらし首 にされます。
その後段煨は、安南将軍・閺郷侯に封ぜられました。
脚注
*1『魏書』董卓伝には、李傕が討伐・処刑されたのは「建安2年(197年)」とありますが、ここでは『後漢書』献帝紀と『資治通鑑』に従って「建安3年(198年)夏4月」としています。
建安3年(198年)3月、曹操は荀攸が諫めるのも聞かず、3度目の張繡討伐に出陣しますが、結局また張繡を討伐することができないまま豫州(予州)・潁川郡・許県に撤退しました。
一方で夏4月には、謁者僕射の裴茂・中郎将の段煨らが李傕を討ち、ここに董卓の残党はすべて討伐されました。