建安14年(209年)末に行われた赤壁の戦い後の論功行賞と、劉備と孫権の妹の結婚、曹操が周瑜を配下に加えようと派遣した蔣幹(蒋幹)と周瑜のやり取りについてまとめています。
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目次
赤壁の戦い後の情勢
江陵県の陥落
建安13年(208年)冬10月、赤壁で曹操軍を破り、逃走する曹操を追って荊州・南郡に入った周瑜・劉備連合軍は、江陵県を守る曹仁と長江を隔てて対峙しました。
荊州・南郡・夷陵県を占拠して勢いづいた周瑜・劉備連合軍は長江を渡って江陵県を包囲しますが、曹仁の守りは固く、周瑜は流れ矢に当たって負傷してしまいました。
周瑜と曹仁が対峙して1年を越えると、曹仁は江陵県を放棄して北に逃走し、劉備が派遣した関羽の包囲を受けますが、徐晃・満寵・李通らの奮戦により逃げ延びることができました。
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合肥城の包囲
建安13年(208年)12月、赤壁の戦いの勝利を受けて攻勢に転じた孫権軍は、自ら10万の軍勢を率いて揚州・九江郡・合肥国を包囲しました。
ですが、百余日経っても合肥城を落とすことができず、孫権は曹操配下の揚州別駕・蔣済(蒋済)の偽りの手紙を信じて、包囲を解いて撤退しました。
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赤壁の戦い後の論功行賞
荊州・南郡・江陵県が陥落し、揚州・九江郡・合肥城から帰還した孫権は、「赤壁の戦い」と「江陵の戦い」における諸将の功績に報いました。
孫権配下
周瑜
孫権は、周瑜を偏将軍に任命して南郡太守の職務にあたらせ、
- 荊州・長沙郡・下雋県
- 荊州・長沙郡・漢昌県
- 荊州・長沙郡・劉陽県
- 荊州・南郡・州陵県
を奉邑とし、江陵県に駐屯させました。
程普
孫権は、程普に裨将軍の官を授け、江夏太守に任命して沙羡県に役所を置いてその統治にあたらせ、4つの県を食邑として与えました。
呂範
孫権は、呂範に裨将軍の官を授け、彭澤太守に任命して、
- 揚州・豫章郡(予章郡)・彭澤県
- 揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県
- 揚州・九江郡・歴陽県
を奉邑としました。
黄蓋
孫権は、黄蓋に武鋒中郎将の官を授けました。
呂蒙
孫権は、呂蒙を偏将軍に任命し、揚州・廬江郡・尋陽県の県令の職務にあたらせました。
孫権と劉備
孫権
孫権は劉備の上表により車騎将軍代行の任が与えられ、徐州牧を兼任することになりました。
劉備
ちょうどこの頃、荊州刺史の劉琦が亡くなったため、劉備と劉琦の家臣たちが劉備を荊州牧に推し立てようとしたので、孫権は劉備に荊州牧を兼任させ、周瑜は長江の南岸の地を分けて劉備に与えました。
劉備が油江口に別に陣営を構え、油江口の名を公安県と改めると、元は劉表の吏卒でありながら、曹操に従わされていた者たちの多くが、裏切って劉備の下に投降して来ました。
荊州の配置
荊州の配置
※上記地図では分かりにくくなっていますが、公安県は南郡に属します。
論功行賞一覧表
人物 | 将軍号 | 官職 |
---|---|---|
周瑜 | 偏将軍 | 南郡太守 |
程普 | 裨将軍 | 江夏太守 |
呂範 | 裨将軍 | 彭澤太守 |
黄蓋 | 武鋒中郎将 | (丹楊都尉) |
呂蒙 | 偏将軍 | 尋陽県令 |
孫権 | 車騎将軍代行 | 徐州牧を兼任 |
劉備 | (左将軍) | 荊州牧を兼任 |
※( )内の官職は、今回変更がなかったもの。
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劉備と孫権の妹の結婚と蔣幹の来訪
劉備が孫権の妹を娶る
劉備が元劉表の吏卒を取り込んだことで、孫権は次第に劉備を畏れるようになり、妹を劉備の夫人として嫁がせて友好関係を固めました。
孫権の妹は才気と剛勇において兄たちの面影があり、彼女の侍婢(侍女)百余人はみな自分で刀を持って侍立(身分の高い人の側につき従って立つこと)していたため、劉備は奥座敷に入るといつも心底から恐怖を覚え、びくびくしていました。
『蜀書』先主伝ではこの後に「先主(劉備)は京城に行って孫権と会見し、極めて親密な間柄となった」と続いています。
「劉備と孫権の妹の婚姻」と「劉備と孫権の会見」がセットのように読めますが、『資治通鑑』では「劉備と孫権の会見」を翌年のこととしており、「劉備と孫権の会見」については、改めて別の記事で取り扱います。
曹操が周瑜を求める
九江郡の蔣幹(蒋幹)
この頃、曹操は周瑜が「若くして優れた才能を持っている」と聞くと、「人を遣って説きつければその心を動かすことができる」と考えて、秘かに揚州の役所に命令を下し、揚州・九江郡出身の蔣幹(蒋幹)を遣って周瑜と会わせた。
蔣幹(蒋幹)は立居振舞いが堂々としており、才気があって弁舌が立つことで評判があり、長江・淮水の一帯で並ぶ者なく、誰も彼の弁舌に受け答えできる者はいませんでした。
周瑜と蔣幹(蒋幹)
曹操の命令を受けた蔣幹(蒋幹)は、布の衣(無官の者の服)に葛巾(粗末な頭巾)を身に着け、「私用の旅行の途中」だと称して周瑜の元を訪れました。
これを迎えに出た周瑜が、立ったまま、
「子翼(蔣幹の字)どの、真にご苦労様です。はるか江湖を越えて曹氏のために遊説家となって来られたのですか?」
と言うと、蔣幹(蒋幹)は、
「私は足下とは同州の生まれで、長らくお目にかかることもございませんでしたが、はるかに高い評判とご勲功とをお聞きし、久闊を叙し(ご無沙汰を詫びること)、合わせてご様子を拝見したいとわざわざやって参りましたのに、遊説家だなどとおっしゃられるのは、ひどい邪推ではございませんか」
と答えました。すると周瑜は、
「私は夔や師曠*2には及ばぬまでも、弦を聞き音楽を賞味すれば、それが正統的な音楽であるかどうかを識別できる能力は持っております」
と言い、蔣幹(蒋幹)を招き入れて酒食を振る舞います。そして食事が終わると、蔣幹(蒋幹)を送り出して、
「ちょうど私には秘密を要する用事がありますので、一先ず旅館にお帰りください。用事が済みましたら、もう1度私の方からお迎えに上がります」
と言いました。
その3日後、周瑜は蔣幹(蒋幹)を招くと、2人で軍営の中をくまなく見て回り、さらに倉庫の軍用物資や兵器までをも蔣幹(蒋幹)に見せました。
そして、巡察が終わると戻って宴席を設け、さらに孫氏から下賜された侍者(側仕えの者)や服飾、珍宝などを見せた上で、蔣幹(蒋幹)に言いました。
「男子たる者、世に処するに際して、自分をよく知ってくださる主君に巡り会い、表面的には君臣の関係にあっても実際には肉親と変わらぬ恩義を結び、申し述べる意見や計は受け容れられ実行に移されて、幸いも禍も主君と一体となって承ける関係にあるのであれば、たとえ蘇秦や張儀がもう1度生まれ、酈食其が再び世に出て(私に呉を棄てるように説いたとしても)、やはり私は彼らの背中を撫でてその好意に感謝しつつも、その言うところは退けたであろう。ましてや足下のような若輩に、どうして私の心を動かすことができましょう」
この言葉を聞いた蔣幹(蒋幹)はただ笑うばかりで、結局、何も言い返すことができませんでした。
この旅から戻った蔣幹(蒋幹)は、
「公瑾(周瑜の字)の文武における謀は万人に秀で、大きな度量と高い精神的風貌とが備わっています。言葉によって孫権との間を割くことなどできません」
と周瑜を称賛したので、中州(中原)の人々は、益々周瑜を重んじるようになりました。
脚注
*2夔は堯帝の元にいた楽師。師曠は春秋時代の晋国の楽師。いずれも鋭い耳を持って音楽を聴き分けたとされる。ここでは、音楽の正邪を聴き分ける能力に例えて、人の言葉の本質を識別する能力を言っている。
建安14年(209年)末、孫権は「赤壁の戦い」と「江陵の戦い」における諸将の功績に報い、周瑜を南郡太守に、程普を江夏太守に任命しました。孫権は劉備の上表により車騎将軍代行と徐州牧を兼任し、劉備が荊州牧となることを認めて、長江の南岸の地を与えました。劉備は油江口を公安と改め、そこに陣営を構えます。
その後、劉備が元劉表の吏卒を取り込んだことで、孫権は次第に劉備を畏れるようになり、妹を劉備の夫人として嫁がせて友好関係を固めました。
またこの頃、周瑜の評判を聞きつけた曹操が、蔣幹(蒋幹)を派遣して彼を配下に加えようとしましたが、失敗に終わりました。