初平しょへい3年(192年)末に起こった袁紹えんしょう袁術えんじゅつ揚州刺史ようしゅうししめぐる争いと、公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょう曹操そうそうが戦った「龍湊りゅうそうの戦い」についてまとめています。

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初平3年(192年)の情勢

初平3年(192年)の情勢

画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』


初平しょへい3年(192年)は、中央では董卓とうたく誅殺ちゅうさつ王允おういん呂布りょふ政権の樹立に、その後の李傕りかく郭汜かくしらの長安ちょうあん奪取。

関東では袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさん黒山賊こくざんぞくの戦いに、青州せいしゅう黄巾こうきん兗州えんしゅう侵攻など、情勢が目まぐるしく変化していますので、まずは初平しょへい3年(192年)の関東の情勢を整理しておきましょう。

界橋の戦い

初平しょへい3年(192年)1月、青州せいしゅう黄巾30万を敗走させた公孫瓚こうそんさんは、冀州きしゅうへの2度目の侵攻を開始します。

これを界橋かいきょうで迎え撃った袁紹えんしょうは、公孫瓚こうそんさん白馬義従はくばぎじゅうを撃ち破り、配下の崔巨業さいきょぎょうに数万の兵を与えて公孫瓚こうそんさんを追撃させ、幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんを包囲させました。


界橋の地図

界橋かいきょう

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黒山賊の侵攻

春、前年から冀州きしゅう魏郡ぎぐんに侵出していた黒山賊こくざんぞく于毒うどくらが、再び兗州えんしゅう東郡とうぐんに侵攻。政庁である東武陽県とうぶようけんに攻撃をしかけます。

頓丘県とんきゅうけんに駐屯していた東郡太守とうぐんたいしゅ曹操そうそうは、東武陽県とうぶようけんの救援よりも、敵の本拠地の攻撃を優先させて東武陽県とうぶようけんの包囲を解き、于毒うどくらと南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふらを撃ち破りました。


黒山賊・於夫羅討伐戦の周辺地図

黒山賊こくざんぞく於夫羅おふら討伐戦の周辺地図

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巨馬水の戦い

一方崔巨業さいきょぎょうは、包囲していた幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんを落とすことができず、包囲をいて南に撤退します。

そして、崔巨業さいきょぎょうの軍勢が巨馬水きょばすいに差しかかった時、公孫瓚こうそんさんの歩騎3万の軍勢が襲いかかり、崔巨業さいきょぎょうは散々に撃ち破られて、その死者は7〜8千人にのぼりました。

公孫瓚こうそんさんは勝利に乗じてそのまま南進を続け、冀州きしゅう平原国へいげんこくまで到達して青州刺史せいしゅうしし田揩でんかい青州せいしゅう斉国せいこくを占拠させます。


巨馬水の戦い

巨馬水きょばすいの戦い


界橋かいきょうの戦い」で敗れた公孫瓚こうそんさんが、この時一気に青州せいしゅう平原国へいげんこくまで侵出することができたのは、おそらく黒山賊こくざんぞく于毒うどくらの兗州えんしゅう侵攻に際し、袁紹えんしょう冀州きしゅう魏郡ぎぐんの奪回に兵を向けていたため、背後の公孫瓚こうそんさんに対応できなかったからだと思われます。

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青州黄巾の兗州侵攻

4月、青州せいしゅう黄巾こうきん・百万が兗州えんしゅうに侵攻し、任城相にんじょうしょう兗州えんしゅう任城国にんじょうこく太守たいしゅ)・鄭遂ていすいを殺害しました。

そして、これを討伐に出た兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたいが討たれると、東郡太守とうぐんたいしゅ曹操そうそう兗州牧えんしゅうぼくに迎えられます。

曹操そうそうは敵を捕らえるたびに降伏のみちを示し、ついには青州せいしゅう黄巾こうきんの兵30余万人と、男女合わせて百余万人の民衆を受け入れ、降兵の精鋭を「青州兵せいしゅうへい」と名付けました。

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袁紹と袁術の争い

揚州刺史・陳温(陳禕)の死

初平しょへい3年(192年)冬、揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおん陳禕ちんい)が病死します。

これにより、空席となった揚州刺史ようしゅうししの席を巡って袁紹えんしょう袁術えんじゅつの間に争いが起こりました。


まず、陳温ちんおん陳禕ちんい)が亡くなったことを知った袁紹えんしょうは、揚州刺史ようしゅうししとして従兄の袁遺えんいを派遣します。

一方袁術えんじゅつは、李傕りかく郭汜かくしらが長安ちょうあんに入って以降、袁術えんじゅつもとに身を寄せていた鄭泰ていたいを派遣しますが、鄭泰ていたいは任地に到着する前に病死してしまいました。

豆知識

この時亡くなった揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおん陳禕ちんい)は、「汴水べんすいの戦い」で敗れた曹操そうそうに兵を援助した人物です。

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揚州刺史を巡る争い

袁紹えんしょうに先を越された袁術えんじゅつは、公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょう攻撃を要請した上で、自分は揚州刺史ようしゅうししとなった袁遺えんいを攻撃します。

この戦いに敗れた袁遺えんい豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこくに逃亡しますが、兵士によって殺害されてしまいました。


その後袁術えんじゅつは、徐州じょしゅう下邳国かひこく淮浦県わいほけんの人、陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししに任命します。


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龍湊の戦い

龍湊(りゅうそう)の戦い

袁術えんじゅつからの「袁紹えんしょう攻撃の要請」を承諾した公孫瓚こうそんさんは、

  • 劉備りゅうびを(青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけん
  • 単経ぜんけいを(青州せいしゅう平原国へいげんこく平原国へいげんこく
  • 陶謙とうけんを(兗州えんしゅう東郡とうぐん発干県はっかんけん

に駐屯させて、袁紹えんしょうを圧迫します。


公孫瓚(こうそんさん)陣営の布陣

公孫瓚こうそんさん陣営の布陣


袁紹えんしょう曹操そうそうと協力してこれらの軍をすべて撃ち破ると、公孫瓚こうそんさん幽州ゆうしゅうに撤退し、以降、あえてまた南下しようとはしませんでした。

豆知識

後漢書ごかんじょ彭城靖王恭伝ほうじょうせいおうきょうでんに、次のような記述があります。


初平しょへい年間(190年〜193年)、天下は大いに乱れ、(彭城王ほうじょうおう・)劉和りゅうかは賊の昌務しょうぶ昌豨しょうき昌狶しょうき昌覇しょうは)に攻められ、東阿とうあ兗州えんしゅう東郡とうぐん東阿県とうあけん)に逃亡したが、後に国に帰ることができた」


この時、陶謙とうけんの管轄下にある彭城王ほうじょうおう劉和りゅうかが、陶謙とうけんではなく曹操そうそうの支配地に逃亡していることから、昌狶しょうきの後ろには陶謙とうけんがいたであろうことが推測できます。

これはどういうことでしょうか?

初平しょへい3年(192年)時点での彭城相ほうじょうしょう陶謙とうけん派の汲廉きゅうれんです。

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初平しょへい3年(192年)冬、「龍湊りゅうそうの戦い」で陶謙とうけんが敗れると、彭城相ほうじょうしょう汲廉きゅうれん陶謙とうけん救援のために出陣。

この時、彭城王ほうじょうおう劉和りゅうか曹操そうそうに内通して陶謙とうけんの退路を断つ動きを見せたため、陶謙とうけんと手を組んでいた昌狶しょうき徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく彭城県ほうじょうけんを攻め、劉和りゅうか曹操そうそうの下に逃亡したのではないでしょうか。

公孫瓚と劉虞

公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょうを敵視するようになったのは、袁紹えんしょう袁術えんじゅつの争いにより、袁術えんじゅつもとにいた従弟の公孫越こうそんえつが戦死したことが切っ掛けです。

ですが、「巨馬水きょばすいの戦い」以降、青州せいしゅう平原国へいげんこくまで侵出した公孫瓚こうそんさんは、その後冀州きしゅう黒山賊こくざんぞくが、兗州えんしゅう青州せいしゅう黄巾こうきんが侵攻した「袁紹えんしょうを破る絶好の機会」にもかかわらず、攻勢に出ることはありませんでした。


この時、幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんは、異民族への対応をめぐって対立していました。

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんに軍事行動を起こすことを禁じていましたが、それでも袁紹えんしょうと対立する公孫瓚こうそんさんに対し、扶持米ふちまい(俸禄)の支給を減らしていたのです。


つまり公孫瓚こうそんさんは、「袁紹えんしょうを破る絶好の機会」をただ指をくわえて見ていたのではなく、出陣できない理由があったのでした。


おそらく公孫瓚こうそんさんは、袁術えんじゅつから兵糧の援助を受けて出兵したものと思われます。

ですが時すでに遅く、袁紹えんしょう曹操そうそうも反乱を鎮圧し、万全の体勢で迎撃されたため、公孫瓚こうそんさん幽州ゆうしゅうへの撤退を余儀なくされました。

陶謙と袁術

この時、反董卓とうたく連合にも参加していなかった陶謙とうけんが、袁術えんじゅつに荷担して袁紹えんしょう袁術えんじゅつの争いに加わります。

ではなぜ、陶謙とうけん袁術えんじゅつくみしたのでしょうか。

呉書ごしょ朱治伝しゅちでん

董卓とうたく連合が決起し、袁術えんじゅつに従う孫堅そんけん洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った後のこと。

孫堅そんけんが配下の朱治しゅちを派遣して、徐州じょしゅう黄巾こうきん討伐に加勢したことがありました。

後漢書ごかんじょ朱儁伝しゅしゅんでん

董卓とうたく長安ちょうあんに入った後のこと。

董卓とうたく洛陽らくよう雒陽らくよう)の守備を任された朱儁しゅしゅんは、山東さんとうの諸将(反董卓とうたく連合)と内応しようとしていましたが、董卓とうたくの襲撃を恐れ、一時官職をてて荊州けいしゅう袁術えんじゅつの領内)に身を寄せたことがありました。


これまで陶謙とうけんは、朱儁しゅしゅん旗頭はたがしらに立てて董卓とうたく李傕りかく郭汜かくしを討伐することを計画しており、このように孫堅そんけん朱儁しゅしゅんを通じて袁術えんじゅつとは良好な関係にあったと言えます。

すぐとなり兗州えんしゅうでは曹操そうそう青州せいしゅう黄巾こうきんを吸収して急成長を見せており、陶謙とうけん袁紹えんしょう袁術えんじゅつのどちらかにくみしないと、徐州じょしゅうを保つことが難しい状況になりつつありました。

そんな時、陶謙とうけんがこれまで付き合いのある袁術えんじゅつに味方することは、ごく自然なことだと言えます。


そしてこの「龍湊りゅうそうの戦い」が、陶謙とうけん曹操そうそうに初めて敵対した戦いになります。


揚州刺史ようしゅうししの任命に後れを取った袁術えんじゅつは、袁紹えんしょうが任命した袁遺えんいを武力で追い出そうと考えました。

そこで袁術えんじゅつは、公孫瓚こうそんさんを動かして袁紹えんしょうに背後をかれることを阻止し、見事揚州ようしゅうから袁遺えんいを追い出すことに成功したのでした。