徐州牧・陶謙の死と、劉備が徐州を統治することになるまでの経緯をまとめています。
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目次
陶謙の死
陶謙の遺言
興平元年(194年)、再度徐州に侵攻した曹操軍が撤退した後のこと。徐州牧・陶謙が病を患いました。
陶謙はその病状が重くなると、別駕従事の麋竺を呼んで、
「劉備でなければ、この州(徐州)を安定させることはできない」
と言い遺します。
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劉備の説得
陶謙が亡くなると、麋竺は陶謙の遺言通り州民を率いて豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に劉備を迎えに行きましたが、劉備は遠慮して引き受けませんでした。
そこで、陳登と孔融が劉備を説得します。
陳登
下邳国出身の陳登が劉備に言いました。
「現在、漢王朝は次第に衰え、天下は覆っており、功業を打ち立てるには今が好機です。
徐州は豊かな土地で百万人の人口を有します。それが使君(劉備)殿に頭を下げ、州の政治をみて欲しいと願っているのです」
すると劉備は、
「袁公路(公路は袁術の字)がここよりほど近い(揚州・九江郡・)寿春県にいる。
この方は4代続いて5人の三公を出した家柄で、天下の人望が集まっている。徐州は彼に与えるのがよろしかろう」
と言うので、陳登は重ねて言いました。
「公路(袁術)は驕慢な男で、混乱を治められるような人物ではありません。
今、徐州は使君(劉備)殿のために、歩兵・騎兵10万を集めたいと望んでおります。公には天子をお助けし、民衆を救済して(春秋時代の)五覇と同じ偉業を成し遂げることができましょうし、私には領地を分与されて国境を守り、功業を竹帛に書き残すことができるでしょう。
もし、使君(劉備)殿がこの申し出をお聞き届けにならないのならば、私もまた、もはや進んで使君(劉備)殿に従いはしないでしょう」
孔融
また、北海相の孔融も言いました。
「袁公路(公路は袁術の字)は、はたして国を憂えて家を忘れる男でありましょうか?
彼は墓の中の骸骨同然、意に介するほどの男ではありません。今日の事態は、民衆が有能な人物の側に立っております。
天の与えたもう物を受け取らないと、後から悔やんでも追いつきませんぞ」
このように、麋竺・陳登・孔融の説得を受けた劉備は、ついに徐州を統治することになりました。
豆知識
劉備が豫州刺史となった時、陳羣を召し出して別駕従事に任命しました。
劉備が徐州に赴こうとした時、陳羣は、
「袁術は依然として強力ですから、今、東方(徐州)へ行かれれば、必ず彼と戦争になります。呂布がもし将軍(劉備)の背後を襲えば、将軍(劉備)は徐州を手に入れても、事は決して成功しないでしょう」
と進言していました。
袁紹の承認を得る
その後、陳登らは袁紹に使者を送ってこう伝えました。
「天が災厄を降し、禍が我が州(徐州)にまで及び、州将(陶謙)は亡くなり、民衆には主人がいなくなりました。
姦雄が突如間隙につけこみ、盟主(袁紹)さまに寝食を忘れるほどの気苦労をおかけする結果にならないかと恐怖を覚えました。
そこで、すぐさま協力して元平原相(平原国の太守)・劉備殿を奉じて宗主とし、広く民衆に頼るべき方がおられることを承知させました。
現在は外からの侵略が相次ぎ、武装を解く暇もないので、謹んで下吏を派遣して執事[執政者(袁紹)]に申し上げる次第です」
これを聞いた袁紹は、
「劉玄徳(玄徳は劉備の字)は度量の広い立派な人物で信義がある。今、徐州が彼を戴くことを願うのは、まことに私の希望に沿ったものである」
と返答しました。
初平3年(192年)末、陶謙と劉備は袁術に与して袁紹・曹操と戦い、また、曹操の第一次徐州侵攻の際には、袁紹は朱霊を派遣して曹操を援助していました。
そのような関係の中、袁術派であった徐州(劉備)が袁紹を盟主と仰ぎ、使者を送って来たのです。
袁紹にとって徐州(劉備)を味方につけることは、袁術の勢力を削ぐだけでなく、揚州・九江郡・寿春県の袁術に対する抑えを得ることにもなります。
袁紹に、劉備の徐州統治に異を唱える理由はありません。
この時をもって劉備(徐州)は、袁術・公孫瓚から離れて、袁紹と手を組むことになりました。
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劉備の徐州継承について
徐州の状況
まず、この時の徐州の状況について確認しておきましょう。
初平4年(193年)6月、徐州・下邳国の賊・闕宣が、曹操の父・曹嵩を殺害したことで曹操の恨みを買い、徐州は2度に渡って曹操軍の侵攻を受けています。
曹操軍は兗州で反乱が起こったため撤退していましたが、徐州の官民はみな「曹操軍はまたやって来る」と思っていました。
またこれより以前、陶謙は袁術・公孫瓚と手を組んでいましたが、その後陶謙は、曹操に敗北した袁術の揚州入りを拒んだ揚州刺史・陳瑀を受け入れています。
また、揚州・九江郡・寿春県に入った袁術は徐州伯を自称しており、徐州は曹操と袁術の2大勢力に狙われている状況でした。
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州牧の任命について
まず、陶謙が就任していた徐州牧、つまり州牧は「親から子へ継承される世襲」を前提とした官職ではありません。
徐州牧であった陶謙が亡くなった場合、正規の手続きとしては、朝廷が新たな徐州牧または徐州刺史を任命するのを待つことになります。
豆知識
益州牧の劉焉が亡くなった後、朝廷は新たな益州刺史として扈瑁を派遣しましたが、益州では、趙韙らの働きにより劉焉の子・劉璋を宗主と仰ぎ、その支配を固めてしまいました。
そこで仕方なく朝廷は、劉璋の支配を追認するかたちで劉璋を益州牧に任命したのでした。
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陶謙の思惑
陶謙が病を患った興平元年(194年)は、各地の群雄が朝廷の支配から独立する過渡期にありました。
陶謙自身も、徐州牧の地位を子の陶商か陶応のどちらかに継がせることを考えたことがあったかもしれません。
ですが前述の通り、当時の徐州は曹操と袁術に狙われている危険な状態でした。
特に曹操の徐州侵攻は、陶謙個人への「恨み」が原因となっていますので、陶謙の子が跡を継いだ場合、その「恨み」も引き継がれてしまう可能性があります。
つまり陶謙は、2人の子を曹操の標的とならないように守るため、また曹操の徐州への「恨み」を自分1人の代で終わらせるため、自分の後継者には、子の陶商・陶応ではなく劉備を指名したのでした。
なぜ劉備だったのか
ではなぜ陶謙は、他の誰かではなく新参者の劉備を後継者に指名したのでしょうか。
徐州統治の難しさ
もともと徐州は曹操・袁術といった外敵だけでなく、黄巾残党の活動が活発な上に、
- 琅邪国の臧覇
- 東海郡の昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)
などの独立勢力が混在する統治が難しい地域でした。
徐州の宗主となる人物には、外の曹操や袁術、内の黄巾残党から徐州を守り、臧覇・昌豨ら独立勢力を心服させる能力が求められるのです。
劉備の存在
では、徐州において劉備はどのように受け入れられていたのでしょうか?
初平4年(193年)、曹操が徐州に侵攻を開始すると、劉備は陶謙の要請を受けて田楷と共に救援に駆けつけます。
そして曹操軍が撤退した後、田楷は青州に帰りましたが、劉備は徐州に留まりました。
曹操軍に蹂躙され多くの民衆を虐殺された徐州の官吏・民衆から、劉備は救世主のように受け入れられていたのではないでしょうか。
陶謙の跡を継いで徐州を治める者には、
- 曹操や袁術の侵略から徐州を守る能力を持っていること
- 徐州の官吏・民衆・独立勢力の支持を得ていること
が必要です。
そして、陶謙の目から見て、徐州の官吏の中でこの2つの条件を満たしていたのが劉備だったのです。
また、このような徐州の長官に自ら名乗り出る者もおらず、陶謙の遺言に異論を挟む者はいませんでした。
豆知識
後漢末期に制定された「三互の法」により、「本籍回避(州の長官には、その州の出身者が任官することはできない)」が定められていました。
これにより麋竺や陳登など、徐州出身の者を立てることができなかったと考えることもできますが、そもそも朝廷の意思によらず独自に宗主を立てようとしていますので、これには当たらないと思われます。
袁術派から袁紹派への転身
劉備にとっての徐州
陶謙が亡くなると、別駕従事の麋竺が劉備の元を訪れて陶謙の遺言を伝えましたが、劉備は遠慮して引き受けませんでした。
それはそうでしょう。もちろん「遠慮して」というのは建前で、引き継いだ途端に曹操の攻撃に晒されるであろう徐州を、劉備も押しつけられたくありませんでした。
そのため劉備は、これまで同盟関係にあった袁術に徐州を統治させるべきだと言ったのです。
ですが、すでに陶謙と袁術の関係は破綻しており、陳登・孔融らは猛烈にこれを拒絶しました。
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なぜ劉備は引き受けたのか
ではなぜ劉備は、最終的に徐州を統治することを引き受けたのでしょうか。
これは推測になりますが、以前 劉備が孔融から援軍を求められた際、
「孔北海(孔融)ほどのお方が、天下に劉備がいることをご存知であったとはっ!」
と感激していたことから、劉備は孔融を大変尊敬していたことが分かります。
劉備が徐州統治を引き受ける決断をしたことには、その孔融から説得を受けたことが大きかったのではないでしょうか。
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徐州の去就
初平2年(191年)に生じた袁紹と袁術の対立は、
- 袁紹・曹操・劉表
- 袁術・公孫瓚(田楷・劉備)
の陣営に分かれての争いとなっていました。
袁紹陣営と袁術陣営
[初平3年(192年)6月]
ですが、陶謙はその争いには加わらず、李傕・郭汜らが朝廷で権力を握ると、朱儁を太師に推戴して李傕・郭汜らに対抗する動きをしていましたが、太僕に任命された朱儁が朝廷に入ったことで、その計画は立ち消えとなってしまいました。
すると陶謙は、初平3年(192年)末、袁術の要請を受け、袁紹・曹操と戦火を交えます。
これは、朱儁を旗頭とする一勢力の構築に失敗した今、袁紹陣営と袁術陣営の両方に接する陶謙が生き残るためには、どちらかの陣営に属する必要があると考えたからだと思われますが、もともと陶謙は袁術と深い結びつきがあった訳ではありませんでした。
そこで陳登は、劉備を徐州の宗主に仰ぐと いち早く袁紹に接近し、袁紹陣営に鞍替えしてしまいます。
これにより徐州(劉備)は、袁紹陣営の曹操からの攻撃を回避し、敵を袁術 1人に絞ることができました。
興平元年(194年)、徐州牧・陶謙が亡くなると、麋竺・陳登・孔融らは、陶謙の遺言通り劉備を徐州の宗主に据えました。
また、陳登らは同時に袁紹に使者を送って劉備の徐州統治を認めさせ、袁術陣営から袁紹陣営に鞍替えします。
これにより徐州(劉備)は、袁紹陣営の曹操からの攻撃を回避し、敵を袁術 1人に絞ることができました。