董卓を誅殺した王允・呂布から長安を奪取した李傕・郭汜政権の誕生と、周辺の群雄の反応をまとめています。
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目次
李傕・郭汜政権の誕生
長安の陥落
初平3年(192年)6月、元董卓配下の李傕・郭汜・樊稠・張済らは、董卓が誅殺された後、罪を問われることを恐れて反乱を起こし、長安を包囲しました。
そして長安を守る呂布は敗走、王允は降伏します。
李傕らは司隷校尉・黄琬を殺害し、王允とその宗族(一族)を皆殺しにしました。
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馬日磾と趙岐を派遣する
8月、朝廷の実権を握った李傕らは、太傅の馬日磾と太僕・趙岐に節(軍令違反者を処刑する権限を持つ証)を持たせて天下を慰撫させました。
自ら将軍に就任する
9月、李傕は自ら車騎将軍・池陽侯となり、節を与えられ、
- 郭汜を後将軍・美陽侯
- 樊稠を右将軍・万年侯
- 張済を鎮東将軍・平陽侯
に任命します。
そして張済は、長安を出て司隷・弘農郡に駐屯しました。
『後漢書』献帝紀では張済を鎮東将軍としていますが、『魏書』董卓伝では驃騎将軍となっています。
驃騎将軍は大将軍に次ぐ序列第2位の将軍号ですので、李傕よりも上位となってしまうため、鎮東将軍を採用しました。
豆知識
『魏書』董卓伝が注に引く『献帝紀』には、次のようなエピソードがあります。
当時、遷都したばかりで宮中の女官たちの多くは衣服を失っていたので、帝(献帝)が宮廷の倉を開いて絹類を与えようとしたところ、李傕は不満そうに「宮中に衣服がありますのに、どうしてまた仕立てようとなさるのですか」と言いました。
また、詔勅を下して厩の馬百匹余りを売り払い、御府令と大司農に種々の絹を取り出させて、馬を売った金と一緒に、公卿をはじめとして自分では生計を立てられない貧民に下賜しました。
すると李傕は「私の屋敷には蓄えが少ししかありません」と言って、これらをすべて自分の陣営に運び込みます。
これに賈詡は「これは上意ゆえ逆らってはなりません」と諫めましたが、李傕は聞き入れませんでした。
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陶謙と朱儁
陶謙が朱儁を推戴する
李傕・郭汜らが長安を落として朝廷の実権を握ると、徐州刺史・陶謙は、
- 前揚州刺史・周乾
- 琅邪相・陰徳
- 東海相・劉馗
- 彭城相・汲廉
- 北海相・孔融
- 沛相・袁忠
- 泰山太守・応劭
- 汝南太守・徐璆
- 前九江太守・服虔
- 博士・鄭玄
らと朱儁を太師に推戴し「州郡と共に李傕らを討伐して天子を迎える」ための檄文を飛ばしました。
陶謙に呼応した勢力
豆知識
朱儁はこれ以前にも陶謙らに行車騎将軍に推挙され、董卓に戦いを挑みましたが、李傕・郭汜らに敗れて司隷・河南尹・中牟県に駐屯していました。
初平2年(191年)冬〜初平3年(192年)春にかけてのことです。
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朱儁が朝廷に入る
ちょうどこの時、長安では太尉・周忠と尚書・賈詡の献策により、李傕が朱儁を長安に召し寄せます。
朱儁の配下たちはみな長安に行くことに不安を覚え、陶謙らに呼応したいと思っていましたが、朱儁は、
「君主が臣下を召し寄せたならば、馬車の用意が整わなくても赴くのが義というものだ。ましてや天子の詔ならば尚更のこと。
李傕・郭汜は若造、樊稠は凡庸な男で深慮遠謀があるわけでもない。また、彼らの勢力は拮抗しており、必ずや変事が起こるであろう。
私が長安にいれば、その間隙に乗じて大事を成すことができるというものだ」
と言って陶謙らの提案を断り、李傕の招きに応じて太僕に任命されました。
これにより、朱儁を推戴しようとした陶謙らの計画も立ち消えとなってしまいます。
豆知識
李傕らが長安に入ると、賈詡は左馮翊(司隷・左馮翊の太守)に任命されました。
また李傕らは、長安攻撃を進言した賈詡の功績を高く評価して、侯に封じようとしましたが、賈詡は「あれは生命を救うための計略に過ぎません。どこに功績などありましょうか」と言って受けようとしませんでした。
そこで今度は尚書僕射に任命しようとすると、
「尚書僕射は諸官を取り仕切る首長であり、天下の人々が期待をかける官職です。私は元々人を抑える名声はありませんから、人々を心服させることにはなりません。
たとえ私が名誉と利益に盲目だったとしても、国家のためにどうすべきかは理解しております」
と言って受けようとしないので、李傕らは結局賈詡を尚書に任命しました。
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陶謙が朝廷に帰順する
朱儁が朝廷に帰順し、反李傕・郭汜の動きが失敗に終わると、治中従事・王朗と別駕従事・趙昱は、陶謙に次のように進言します。
「『春秋』によると、諸侯に対してこちらの意志を通すためには、勤王ほど良いものはないとか。
今、天子ははるか西の都におわします。よろしく使者を派遣して王命を謹んで承るべきです」
そこで陶謙は、四方の街道が断絶している中、間道伝いに使者を送って長安に貢ぎ物を送ります。
これにより陶謙は徐州牧に昇進し、安東将軍を加えられて、溧陽侯に封ぜられ、朝廷への使者となった趙昱は広陵太守に、王朗は会稽太守に任命されました。
『魏書』華歆伝には、前述の太傅の馬日磾が徐州を訪れたことが記されています。
この王朗と趙昱の進言は、馬日磾が徐州を訪れた際に行われた可能性が高いと思われます。
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その他
韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)
李傕・郭汜らが朝廷の実権を握ると、涼州の韓遂と馬騰が軍勢を率いて長安に赴き、降伏を申し出ます。
すると李傕らは、韓遂を鎮西将軍に任命して涼州に帰らせ、馬騰を征西将軍に任命して司隷・右扶風・郿県に駐屯させました。
劉表(りゅうひょう)
李傕・郭汜らは荊州刺史・劉表と手を結びたいと考え、劉表を荊州牧に任命し、鎮南将軍を加えて成武侯に封じ、節(軍令違反者を処刑する権限を持つ証)を与えました。
袁術(えんじゅつ)
李傕・郭汜らは袁術と手を結びたいと考え、袁術を左将軍に任命し、陽翟侯に封じ、節(軍令違反者を処刑する権限を持つ証)を与えようとしました。
ですが初平4年(193年)、袁術は使者の馬日磾から節を奪い取り、拘留して帰しませんでした。
劉焉(りゅうえん)
劉焉の4人の子の内、
- 劉範は左中郎将
- 劉誕は治書御史
- 劉璋は奉車都尉
として献帝に仕えており、3番目の息子・別部司馬の劉瑁だけが劉焉の側に従っていました。
荊州牧・劉表が献帝に、「劉焉が増長している」ことを密告した時のこと。
献帝が劉璋を使者として益州に遣わし、劉焉をたしなめようとしましたが、劉焉は劉璋を益州に留め置き、長安に帰しませんでした。
『蜀書』劉焉伝が注に引く『典略』には、
「劉焉が病気にかこつけて劉璋を呼んだところ、劉璋は自ら上奏して劉焉を見舞った。劉焉はかくて劉璋を留め置き都に帰さなかった」
とあります。
呂布(りょふ)
李傕・郭汜らに敗れて長安を脱出した呂布は、武関を出て荊州・南陽郡の袁術を頼りました。
呂布は、「董卓を殺害し、袁術のために復讐をしてやった」のだから、袁術が自分を厚遇してくれるものだと期待していました。
ですが袁術は、そんな呂布の態度を嫌って彼を受け入れなかったため、呂布は冀州の袁紹の元に身を寄せました。
長安に入り、朝廷の実権を握った李傕・郭汜らは、太傅の馬日磾と太僕・趙岐を派遣して天下を慰撫させました。
また李傕らは、陶謙・劉表・劉焉ら朝廷から正式に任命された者たちだけでなく、韓遂・馬騰や袁術など官職を自称した者たちも追認しましたが、
- 冀州の袁紹には壺寿を冀州牧
- 兗州の曹操には金尚を兗州刺史
として派遣し、袁紹と曹操の自称は許しませんでした。