初平3年(192年)4月に起こった青州黄巾の兗州侵攻と、兗州牧となった曹操が取り込んだ青州兵についてまとめています。
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青州黄巾の侵攻
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
兗州刺史・劉岱の死
初平3年(192年)4月、青州の黄巾賊・百万が兗州に侵攻し、任城相(兗州・任城国の太守)・鄭遂を殺害し、東平国に方向を転じます。
任城国と東平国
兗州刺史・劉岱がこれを討伐しようとすると、済北相(兗州・済北国の太守)・鮑信が諫めて言いました。
「今、賊の軍勢は百万、人民は皆恐れおののき、士卒の士気も下がっており、まともに戦えません。見たところ賊は秩序もなく雑然と連なり、武器・兵糧などの補給物資もなく、略奪によってこれらを調達しています。まずは守りを固めるべきです。そして、敵の士気が下がったころを見計らい、要害を拠点に精鋭をもってこれを撃てば、必ず破ることができるでしょう」
ですが劉岱は、この鮑信の意見に従わずに出陣し、青州黄巾に敗れて殺されてしまいました。
曹操が兗州牧となる
兗州刺史・劉岱が討たれたことが伝わると、東郡太守であった曹操に陳宮が進言します。
「今、兗州には主がおらず、天子の命令も届きません。私が州郡を説得してみせますので、この兗州を地盤として戦乱を収拾なされませ。これこそ覇王の業にございます」
陳宮が奔走して刺史の属官の別駕従事や治中従事らを説得すると、鮑信は万潜らとともに兗州・東郡に赴いて、曹操を兗州牧に迎えました。
兗州の領郡
豆知識
東郡太守・夏侯惇
『魏書』夏侯惇伝には、
「太祖(曹操)が行奮武将軍となった時[初平元年(190年)] 、夏侯惇を司馬に任じ、自分とは別に白馬に駐屯させて、折衝校尉に昇進させ、東郡太守の役を受け持たせた」
とあります。
おそらく曹操が兗州牧となった時に、曹操の後任として夏侯惇が東郡太守になったものと思われます。
兗州刺史・金尚
その後朝廷は京兆尹の人・金尚を正式に兗州刺史に任命して兗州に派遣しますが、曹操は金尚を兗州に入れず、逃走した金尚は袁術を頼って落ち延びました。
ですが、この時すでに朝廷に董卓は亡く、曹操は献帝の詔を無視していたことになります。
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青州黄巾を破り、青州兵を得る
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
青州黄巾との遭遇戦
兗州牧となった曹操が歩騎千余人を率いて戦場を偵察していると、不意に賊(青州黄巾)の陣営に行き当たります。
青州黄巾は戦慣れしている上、勝ち戦に乗じて勢いがありましたが、曹操の兵には新兵が多かったため、混乱を来して数百人の戦死者を出して引き返しました。
勝利の代償・鮑信の死
青州黄巾に敗れた曹操は鎧兜に身を固め、陣内を巡察して激励し、賞罰を明らかにして兵を鼓舞します。
十分に士気を高めた曹操は、東平国・寿張県の東に兵を進めて青州黄巾を攻め、激戦の末にこれを撃ち破りました。
兗州・東平国・寿張県
ですが、この戦いで曹操の盟友とも言える鮑信が戦死してしまいます。
曹操は賞金を約束して鮑信の遺体を捜させましたが見つけることができず、鮑信の木像を造って祀り、哭礼(死者を悼んで大声をあげて泣く儀式)を執り行いました。
青州兵を得る
寿張県の東で敗北した青州黄巾は、曹操に文書を送って来ました。
「その昔青州・済南国におられた時、あなたは神檀を破壊されましたが、その行いは中黄太乙(道教の神)の教えと同じであり、道をご存知のように見受けられましたのに、今は惑乱しておられるようです。漢の命運はすでに尽きており、黄家が立つべき時が来ています。もはやあなた1人の力で漢を存続できるものではありません」
この文書を読んだ曹操は、彼らの罪を叱責します。
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青州・済南国での曹操の行い
その後曹操は昼夜を問わず戦いを仕掛け、意表を突く伏兵を設けて敵を捕らえると、その度に降伏の路を示しました。
そして、曹操軍が青州黄巾を追って済北国に至ると、ついに青州黄巾は降伏を願い出ます。曹操は降兵・30余万人、男女合わせて百余万人の民衆を受け入れ、降兵の精鋭を「青州兵」と名付けました。
この年[初平3年(192年)]の冬のことです。
戦闘経験豊富な精鋭を手に入れただけでなく、生産力の源泉である百余万人の民を手に入れたことは、その後の曹操にとって大きな収穫であったと言えます。
「魏武の強、これより始まる」という何焯の言葉の通り、この「青州兵」の存在は、これまで私兵を持たなかった曹操が群雄として独り立ちしたターニングポイントであることは間違いありません。