193年【漢:初平しょへい4年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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193年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后

朝廷

官職 人物
太傅たいふ 馬日磾ばびつてい
大司馬だいしば 劉虞りゅうぐ(〜10月)
太尉たいい 周忠しゅうちゅう朱儁しゅしゅん
司徒しと 淳于嘉じゅんうか
司空しくう 楊彪ようひょう趙温ちょうおん張喜ちょうき
太常たいじょう 趙温ちょうおん(〜10月)
衛尉えいい 張喜ちょうき(〜12月)
太僕たいぼく 朱儁しゅしゅん(〜6月)
車騎将軍しゃきしょうぐん 李傕りかく
右車騎将軍ゆうしゃきしょうぐん 朱儁しゅしゅん
後将軍こうしょうぐん 郭汜かくし
右将軍ゆうしょうぐん 樊稠はんちゅう
征西将軍せいせいしょうぐん 馬騰ばとう
鎮東将軍ちんとうしょうぐん 張済ちょうせい
鎮西将軍ちんぜいしょうぐん 韓遂かんすい
奮武将軍ふんぶしょうぐん 公孫瓚こうそんさん
奮威将軍ふんいしょうぐん 呂布りょふ

地方官

官職 人物
幽州牧ゆうしゅうぼく 劉虞りゅうぐ
冀州牧きしゅうぼく 袁紹えんしょう / 壺寿こじゅ
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう / 金尚きんしょう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉焉りゅうえん
豫州刺史よしゅうしし 郭貢かくこう
徐州刺史じょしゅうしし 陶謙とうけん
青州刺史せいしゅうしし 田楷でんかい
揚州刺史ようしゅうしし 陳瑀ちんう
交阯刺史こうししし 朱符しゅふ
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫度こうそんたく
陳留太守ちんりゅうたいしゅ 張邈ちょうばく
陳湣王ちんびんおう 劉寵りゅうちょう
広陵太守こうりょうたいしゅ 張超ちょうちょう趙昱ちょういく
九江太守きゅうこうたいしゅ 劉邈りゅうばく
丹楊太守たんようたいしゅ 周昕しゅうきん
廬江太守ろこうたいしゅ 陸康りくこう
豫章太守よしょうたいしゅ 周術しゅうじゅつ
会稽太守かいけいたいしゅ 王朗おうろう

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193年の主な出来事

出来事
1月
  • 太史令たいしれい王立おうりつが、予定時間が過ぎても日食が起こらないことを報告する。
  • 日食が起こらないことを祝賀する。
  • 日食があった。
  • 尚書しょうしょ賈詡かく王立おうりつを罪に問うように上奏する。
  • 献帝けんてい賈詡かくの上奏を却下する。
  • 天下に大赦たいしゃする。
不明
  • 太僕たいぼく趙岐ちょうき袁紹えんしょうの元をおとずれ、公孫瓚こうそんさんとの和睦わぼくを命じる。
  • 袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさん和睦わぼくする。
  • 太傅たいふ馬日磾ばびつてい陶謙とうけんの元をおとずれ、陶謙とうけんが朝廷に帰順する。
  • 趙昱ちょういく徐州じょしゅう広陵太守こうりょうたいしゅに任命される。
  • 王朗おうろう揚州ようしゅう会稽太守かいけいたいしゅに任命される。
  • 曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん鄄城けんじょうに陣を置く。
  • 荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが、揚州ようしゅうに出陣中の袁術えんじゅつ糧道りょうどう(補給路)を断つ。
  • 袁術えんじゅつ兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんに入り、封丘県ほうきゅうけんに駐屯する。
  • 黒山賊こくざんぞく南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふら袁術えんじゅつに味方する。
  • 兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん匡亭きょうていで、曹操そうそう袁術えんじゅつを大破する。
  • 曹操そうそう袁術えんじゅつを追撃する。
3月
  • 宣平城門せんへいじょうもんの外屋が自然に壊れた。
  • 袁術えんじゅつ揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐんに逃げ帰る。
  • 揚州刺史ようしゅうしし陳瑀ちんう袁術えんじゅつが拒否する。
  • 袁術えんじゅつ寿春県じゅしゅんけん陳瑀ちんうの居所)に軍を進める。
  • 陳瑀ちんう徐州じょしゅう下邳国かひこくに逃亡する。
  • 袁術えんじゅつ徐州伯じょしゅうはくを自称する。
  • 太傅たいふ馬日磾ばびつてい袁術えんじゅつの元をおとずれる。
  • 袁術えんじゅつ馬日磾ばびつていせつ(使者のあかし)を奪い、寿春県じゅしゅんけんとどめる。
  • 冀州きしゅう魏郡ぎぐんで反乱が起こる。
不明
  • 袁紹えんしょう黒山賊こくざんぞくつ。
  • 曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん定陶県ていとうけんに陣を置く。
5月
  • 雲もないのに雷が鳴った。
6月
  • 司隷しれい右扶風ゆうふふうで大風があり、ひょうが降った。
  • 華山かざんが崩れ山肌がけた。
  • 太尉たいい周忠しゅうちゅう罷免ひめんされる。
  • 太僕たいぼく朱儁しゅしゅん太尉たいい録尚書事ろくしょうしょじに任命される。
  • 徐州じょしゅう下邳国かひこくの賊・闕宣けっせん天子てんしを自称する。
  • 曹操そうそうの父・曹嵩そうすうが殺害される。
  • 水害があった。
  • 侍御史じぎょし裴茂はいぼう詔獄しょうごくを視察させ、軽罪の者を赦免しゃめんする。
  • 天狗てんこう(音のある流星)が西北の空を流れた。
  • 袁紹えんしょう司隷しれい朝歌県ちょうかけん黒山賊こくざんぞく于毒うどくと朝廷が派遣した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅつ。
  • 袁紹えんしょうが北上し、冀州きしゅう常山国じょうざんこく黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえんと戦う。
  • 袁紹えんしょう呂布りょふを持て余し、殺害しようとする。
  • 呂布りょふ河内太守かだいたいしゅ張楊ちょうようを頼って身を寄せる。
7月
  • 秋、曹操そうそう徐州じょしゅうに侵攻する。
  • 曹操そうそう徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく陶謙とうけん軍に大勝する。
  • 陶謙とうけん徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけんに立てもる。
  • 曹操そうそう郯県たんけんを包囲する。
9月
  • 儒学生40人余りに試験を行い、上第じょうだいの者は郎中ろうちゅう、次は太子舎人たいししゃじんに任命し、下第かだいの者は罷免ひめんした。
  • みことのりを下して試験で罷免ひめんされた者を太子舎人たいししゃじんに任命する。
10月
  • 太学たいがくで儀礼を行い、献帝けんてい永福城門えいふくじょうもんに行幸し、儀礼を観覧する。
  • 京師けいし長安ちょうあん)で地震があった。
  • 星が天市垣てんしえんによぎった。
  • 司空しくう楊彪ようひょう罷免ひめんされる。
  • 太常たいじょう趙温ちょうおん司空しくうに任命される。
  • 劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんを攻め、敗れて幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐん居庸県きょようけんに逃走する。
  • 公孫瓚こうそんさん居庸県きょようけんを落とし、劉虞りゅうぐを捕らえる。
  • 公孫瓚こうそんさん大司馬だいしば劉虞りゅうぐを処刑する。
12月
  • 地震があった。
  • 司空しくう趙温ちょうおん罷免ひめんされる。
  • 衛尉えいい張喜ちょうき司空しくうに任命される。
  • 琅邪王ろうやおう劉容りゅうようが亡くなった。
  • 曹操そうそう郯県たんけんの包囲を解き、撤退を開始する。
  • 曹操そうそう徐州じょしゅう下邳国かひこく取慮県しゅりょけん睢陵県すいりょうけん夏丘県かきゅうけんほか計5城を攻め、大量虐殺を行う。

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193年の三国志群雄勢力図

1月

初平4年(193年)1月の三国志群雄勢力図

初平4年(193年)1月の凡例

初平しょへい4年(193年)1月の三国志群雄勢力図

匡亭きょうていの戦い

曹操と袁術の戦い

春、兗州牧えんしゅうぼく曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん鄄城けんじょうに陣を置き、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが、揚州ようしゅうに出陣中の袁術えんじゅつ糧道りょうどう(補給路)を断ちました。

これに袁術えんじゅつは、これまで本拠地としてきた荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんを放棄して兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんに入り、封丘県ほうきゅうけんに駐屯します。

すると、これまで袁紹えんしょう曹操そうそうと争ってきた張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)と南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふら袁術えんじゅつに味方しました。


曹操そうそうは、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん平丘県へいきゅうけん匡亭きょうてい袁術えんじゅつを撃ち破り、追撃して揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐんまで敗走させました。


袁紹・曹操陣営と袁術・黒山賊陣営

匡亭きょうていの戦い

袁紹と黒山賊の戦い

3月、袁術えんじゅつと手を結んだ黒山賊こくざんぞくは、朝廷が派遣した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅと共に冀州きしゅう魏郡ぎぐんで反乱を起こしますが、袁紹えんしょう于毒うどくらをちながら常山国じょうざんこくに北上します。

この時、袁紹えんしょうの元に身を寄せていた呂布りょふは、張燕ちょうえんひきいる1万余の精鋭兵と数千の騎兵を撃ち破る活躍を見せ、袁紹えんしょう軍がやや優勢となりましたが、お互いに疲弊ひへいしたため、それぞれ兵を引きげました。


袁紹と黒山賊の戦い

袁紹えんしょう黒山賊こくざんぞくの戦い

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青州黄巾せいしゅうこうきん管亥かんがいの反乱

青州せいしゅうの黄巾賊・管亥かんがいが郡県を荒らすようになると、孔融こうゆう管亥かんがい討伐のため軍を進めて北海国ほっかいこく都昌県としょうけんに軍営を置きますが、逆に黄巾賊こうきんぞく管亥かんがいに包囲されてしまいます。

この時、単身孔融こうゆうの加勢に加わっていた太史慈たいしじは、平原相へいげんしょう平原国へいげんこく太守たいしゅ)・劉備りゅうびに援軍を求める使者を志願。見事敵の包囲を突破して劉備りゅうびに面会します。

孔融こうゆうへの援軍を求められた劉備りゅうびは、太史慈たいしじに精鋭3,000人を貸し与えました。


※この「青州せいしゅう黄巾こうきん管亥かんがいの反乱」については、時期を特定できる十分な情報はありません。

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6月

初平4年(193年)6月の三国志群雄勢力図

初平4年(193年)6月の凡例

初平しょへい4年(193年)6月の三国志群雄勢力図

曹操そうそう徐州じょしゅう侵攻

6月、徐州じょしゅう下邳国かひこくの賊・闕宣けっせん蜂起ほうきして兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん任城国にんじょうこくに侵攻し、天子てんし僭称せんしょう。ちょうどこの時、徐州じょしゅう琅邪国ろうやこくから曹操そうそうが治める兗州えんしゅうに向かっていた曹操そうそうの父・曹嵩そうすうを殺害し、その財物を奪いました。


闕宣けっせん徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんによって討伐されましたが、曹操そうそうは父を殺害されたことを、これまで闕宣けっせんと手を組んでいた陶謙とうけんの責任として、徐州じょしゅうに侵攻を開始します。

曹操そうそう陶謙とうけん徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけんに追いめますが、これを陥落させることはできず、兗州えんしゅうに撤退する際に徐州じょしゅう下邳国かひこくの5県を攻め、その民衆数万人を虐殺しました。


曹操(そうそう)の退却経路

曹操そうそうの退却経路

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12月

初平4年(193年)12月の三国志群雄勢力図

初平4年(193年)12月の凡例

初平しょへい4年(193年)12月の三国志群雄勢力図

幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐの死

幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐとその指揮下にある公孫瓚こうそんさんは、北方異民族への対応をめぐって対立していました。

10月、ことあるごとに劉虞りゅうぐを妨害し、独断で袁紹えんしょうと争い続ける公孫瓚こうそんさんに対し、劉虞りゅうぐはついに討伐の兵を差し向けます。

ですが、劉虞りゅうぐの兵は戦いに不慣れな上、劉虞りゅうぐが、


「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪はくけい公孫瓚こうそんさんあざな)のみを殺せ」


と命令じていたため、劉虞りゅうぐ軍は手を出すことができずに敗北し、劉虞りゅうぐは捕らえられ、公孫瓚こうそんさんに「帝号を僭称せんしょうしようとした罪」を着せられて処刑されてしまいました。

その後公孫瓚こうそんさんは、朝廷の使者・段訓だんくん幽州刺史ゆうしゅうししに奉じて、ついに幽州ゆうしゅうの支配を確立します。

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初平しょへい4年(193年)春、公孫瓚こうそんさんとの和睦わぼくが成立すると、兗州牧えんしゅうぼく曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん鄄城けんじょうに陣を置き、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが、揚州ようしゅうに出陣中の袁術えんじゅつ糧道りょうどう(補給路)を断ちました。

これにより曹操そうそうとの戦いに誘い出された袁術えんじゅつは、匡亭きょうてい曹操そうそうに敗れ、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんを放棄して、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに拠点を移します。

一方、幽州ゆうしゅうでは公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐを殺害し、幽州ゆうしゅうの支配を確立しました。

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