河北において絶大な影響力を持つ公孫瓚が再度冀州に侵攻すると、袁紹は自ら兵を率いて出陣し、両雄は清河国と鉅鹿郡の境界である界橋で激突することになります。
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目次
朱儁の敗北
192年1月、董卓は牛輔を司隷・弘農郡・陝県に駐屯させ、司隷・河内尹・中牟県で挙兵した朱儁の攻撃を命じました。
牛輔は李傕・郭汜・張済に歩騎数万を与えて攻撃を開始。朱儁を撃ち破ります。
李傕らはさらに兗州・陳留郡、豫州・潁川郡の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。
豆知識
荀彧の先見の明
董卓が朝廷の実権を握ると、兗州・任城国・亢父県の県令を務めていた荀彧は、「潁川郡はきっと大変な戦禍に見舞われるだろう」と思い、官職を捨てて故郷の豫州・潁川郡・潁陰県に帰って村人たちに避難を呼びかけました。
ちょうどその頃、同じく潁川郡出身の冀州牧・韓馥が騎兵を派遣して村人たちを迎えに来ましたが、多くの村人たちは故郷を離れようとせず、ただ荀彧だけが一族を連れて冀州に向かいました。
潁川郡に残った人々はその後、この時朱儁を攻撃した李傕・郭汜、張済らの略奪を受け、犠牲になりました。
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界橋の戦い
董卓による朱儁討伐が行われている頃、公孫瓚が袁紹への攻撃を再開します。
戦いに至る経緯
191年(8月〜10月頃)、袁紹が豫州の袁術(孫堅)を攻撃した際、公孫瓚が袁術の元に派遣していた公孫越が流れ矢に当たって戦死。これを恨みに思った公孫瓚は袁紹の罪状を上奏して磐河に出陣します。
すると、豫州での敗北に追い打ちをかけるような公孫瓚の来襲にまともに戦えないと見た袁紹は、公孫瓚の従弟の公孫範に勃海太守の印綬を送って和睦を図りました。
そんな時、青州の黄巾賊30万が冀州・勃海郡に侵攻します。191年11月のことです。
勃海太守となった公孫範の助力を受けた公孫瓚は黄巾賊を散々に撃ち破ると、数万の投降兵と多くの物資を得て益々勢いを増しました。
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界橋の戦い
192年1月、青州の黄巾賊を討った公孫瓚は、満を持して冀州への侵攻を再開します。
すると、公孫瓚が侵攻を開始したことを知った冀州の高級官吏たちは、次々に門を開いて公孫瓚軍を受け入れていきます。
そして公孫瓚が冀州・鉅鹿郡・広宗県に駐屯すると、袁紹は自ら迎撃の兵を率いて界橋の南方20里(約8km)に布陣しました。界橋の戦いのはじまりです。
界橋
界橋とは、清河国と鉅鹿郡の境界を流れる清河に架けられた橋のことです。
豆知識
朱霊の忠義
公孫瓚軍が清河国に侵入すると、清河国の季雍は公孫瓚に降伏して鄃県を明け渡しました。この時袁紹に鄃県の奪還を命じられたのが朱霊です。
公孫瓚が城中にいた朱霊の母と弟を城壁の上に立たせて朱霊に投降を誘うと、朱霊は城壁を見上げて涙を流しながら言いました。
「男がひとたび主君に仕えたからには、家族を顧みることはできません…」
その後朱霊は奮戦して鄃県を攻め落とし、季雍を生け捕りにしましたが、朱霊の家族は全員殺されてしまいました。
冀州・清河国・鄃県
※公孫瓚はこの界橋の戦いの後、一度幽州に撤退し、再度平原国の境まで侵攻します。このエピソードは界橋の戦いの後の出来事の可能性もあります。
董昭の知恵
袁紹が公孫瓚を界橋に迎え撃った時のこと。鉅鹿太守・季邵をはじめ郡の役人がみな公孫瓚に従おうとしていることを知った袁紹は、董昭を鉅鹿太守に任命して対応させました。
鉅鹿郡に赴任した董昭は、まず郡の役人の意見に同調して内情を探ります。
そして、郡の豪族である孫伉ら数十人が中心となって官吏・人民を惑わせていることを知った董昭は、袁紹の命令書を偽造して全員を捕らえて処刑しました。
この機転によって董昭は鉅鹿郡の離反を防ぐことに成功し、袁紹は彼を称賛しました。
麴義が白馬義従を破る
界橋の戦いの様子は、『魏書』袁紹伝の注に引かれている『英雄記』に詳しく記されています。
公孫瓚が歩兵3万で方陣を敷き、その左右に白馬義従を主力とする騎兵5千騎ずつを翼のように布陣すると、対する袁紹は先鋒として麹義に800の兵を与え、その両側に1千張の弩兵を続かせました。袁紹はそのさらに後方に数万の兵で陣取ります。
界橋の戦い布陣図
公孫瓚軍
- 歩兵3万(厳綱)
- 騎兵5千(白馬義従)
- 公孫瓚本営
公孫瓚軍の両翼を担う白馬義従は騎射に優れた者を選んだ白馬の部隊で、左右から交差するように射る十字砲火を得意とし、蛮族たちに大変恐れられていました。
袁紹軍
- 歩兵800(麴義)
- 弩兵500
- 袁紹本営数万
袁紹の先鋒を務める麹義は、長らく涼州にいて羌族の戦法を熟知する勇敢な精鋭部隊です。
敵の先鋒が少ないことを見て取った公孫瓚は、一気に蹴散らしてしまおうと自慢の白馬義従に突撃を命じます。
ですが、麹義隊は全員楯の下に身を隠して動こうとしません。
そして敵が数十歩のところまで近づいたその時、一斉に立ち上がって大声をあげながら前進し、強力な弩を射かけると、白馬義従は次々に撃ち倒されていきます。
麹義隊はさらに大混乱に陥った公孫瓚軍に襲いかかり、冀州刺史・厳綱をはじめ、千人余りを討ち取りました。
公孫瓚の敗北
麹義隊が追撃を開始すると、統制を失った公孫瓚軍は本営と合流すべく界橋に殺到。橋の上で公孫瓚軍の殿が迎え撃ちますが、麹義隊はこれも撃破しました。
公孫瓚軍の本営に到達した麹義隊はついに牙旗(大将旗)の立てられた軍門を突破し、公孫瓚軍はちりじりになって敗走します。
袁紹の危機
この時袁紹はほぼ全軍を追撃にあたらせ、自軍の後方、界橋から十数里のところで防備も設けず、ただ数十張の弩隊と大戟を手にした100人あまりの兵だけが従うのみとなっていました。
そして、勝利を確信した袁紹が馬の鞍を外してくつろぎ始めたその時、体勢を立て直した公孫瓚の騎兵2千騎余りが突如来襲し、袁紹を包囲して矢を射かけてきます。
別駕従事の田豊が急いで避難させようとすると袁紹は、
「大丈夫たる者は突き進んで討ち死にするものだ!垣の隙間に逃げ隠れして生き延びることなどできようかっ!」
と言って兜を地面に叩きつけました。
ですが、まさかこんな小隊に袁紹がいるとは思っていない公孫瓚の騎兵部隊は、麹義隊が救援に駆けつけると戦わずに兵を引いたので、袁紹は九死に一生を得ることができました。
一方、界橋の戦いに敗れた公孫瓚は、そのまま幽州・広陽郡・薊県まで撤退しました。
豆知識
程昱の知謀
まだ袁紹と公孫瓚が友好関係にあった頃のこと。
袁紹は兗州刺史・劉岱の元に妻子を預け、公孫瓚は従事・范方と騎兵を派遣して劉岱を援助していました。
袁紹と公孫瓚が仲違いすると、公孫瓚は劉岱に袁紹の妻子を引き渡すように要求し、もし断ったならば、范方と騎兵を帰還させることを通告しました。
劉岱はどのように対応するべきか協議を重ねましたが、決心がつきません。
そこで別駕の王彧は、知謀の持ち主として名高い東郡の程昱に相談することを提案します。
程昱は言いました。
「公孫瓚は袁紹の敵ではありません。今、公孫瓚は袁紹軍を破りましたが、最後は袁紹に敗北するでしょう」
劉岱は程昱の進言に従い、范方は騎兵を率いて公孫瓚の元に帰りましたが、到着する前に公孫瓚は袁紹に敗れました。
また、劉岱は程昱を騎都尉に推薦しましたが、程昱は病気を理由にこれを断りました。
もう一つの界橋の戦い
界橋の戦いについては、『後漢書』袁紹伝でも『英雄記』とほぼ同じ内容になっていますが、『魏書』公孫瓚伝には次のような記述もありますので、ご紹介しておきます。
公孫瓚は青州と徐州の黄巾を賊を撃ち破り、軍勢はますます強力となって界橋まで進軍した。
袁紹は広川に陣地を置き、大将の麹義を先陣として公孫瓚と交戦させ、厳綱を生け捕りとした。
出典:『正史 三国志2』ちくま学芸文庫 65ページ
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公孫瓚はなぜ敗れたのか
この界橋の戦いにおいて不思議に思うのは、公孫瓚自慢の白馬義従・1万が、歩兵・弩兵合わせてたった1,800の麹義隊にいとも簡単に敗れてしまったことです。
敵の5倍という圧倒的な兵力差がありながら、白馬義従はなぜ敗れてしまったのでしょうか。
袁紹が少数の麹義を先鋒にした理由
今回の戦いのように各々陣を構えて正面から戦う場合、まずお互いに自軍の威容を示して相手の士気を挫くことから始まります。
そのため公孫瓚は、北方異民族の討伐で勇名を馳せた白馬義従を前面に押し立てて、相手を威圧したのです。
一方袁紹は韓馥から冀州を奪ったばかりであり、その数万の兵はおそらく、公孫瓚が黄巾賊を討伐している間にかき集めた寄せ集めの兵であったと思われます。
そのような兵を白馬義従の前に立たせれば、兵たちは白馬義従の勇名を恐れて一気に戦意を喪失してしまう恐れがあります。
そのため袁紹は、敵を恐れない少数の精鋭部隊を先鋒にせざるを得なかったのです。
白馬義従はなぜ敗れたのか
もし公孫瓚が白馬義従の機動力と騎射の能力を活かし、袁紹軍を包囲しながら矢を射かけ、3万の歩兵部隊を押し上げていったならば、いくら麹義隊が精鋭と言えどもなす術がなかったかもしれません。
ですが、敵の先鋒が少数と見た公孫瓚は白馬義従に号令し、麹義隊を踏みつぶしにかかりました。
確かにここで一気に麹義隊を撃ち破れば、数万の袁紹軍本隊の動揺を誘い、その後の戦いを有利に進めることができたでしょう。公孫瓚のこの判断により、麹義に勝機が生まれました。
前述のように、麹義隊は全員楯の下に身を隠し、敵が数十歩のところまで近づくと、一斉に立ち上がって大声をあげながら前進して強力な弩を射かけました。
馬は元々とても神経質で臆病な動物です。ただの障害物だと思っていたもの(楯の下に身を隠した兵)が、急に立ち上がって大きな声を出したのですから、多くの馬は驚いて制御が効かなくなり、弩の恰好の的となってしまったのです。
そして、主力であり精神的支柱でもあった白馬義従が敗れたことによって、公孫瓚軍は総崩れとなってしまいました。
これは、長らく涼州にいて羌族の戦法や馬の性質を熟知していた麹義がいたからこそ得ることができた勝利だと言えます。
巨馬水の戦い
勢いに乗った袁紹は幽州・涿郡に侵入し、配下の崔巨業に数万の兵を与えて故安県を包囲させましたが、崔巨業は落とすことができず包囲を解いて南に撤退しました。
崔巨業の軍勢が巨馬水に差しかかった時、公孫瓚の歩騎3万の軍勢が襲いかかります。
公孫瓚は崔巨業を散々に撃ち破り、死者は7〜8千人にのぼりました。
そして公孫瓚は勝利に乗じてそのまま南進を続け、青州・平原国まで到達して青州刺史・田揩に青州・斉国を占拠させました。
巨馬水の戦い
誰もが公孫瓚の勝利を疑っていなかった界橋の戦いは、麹義隊の大活躍によって袁紹軍の大勝利に終わりました。
敗北した公孫瓚は冀州を放棄して幽州・広陽郡・薊県まで撤退します。
勢いに乗った袁紹軍はそのまま幽州・涿郡に侵入して故安県を包囲しますが、落とすことはできず、逆に公孫瓚の追撃にあって敗北しました。
そして、今度は公孫瓚が郡県を攻め落としながら南下。冀州・平原国まで勢力を広げ、界橋の戦い以前の勢力を回復しました。